第48話 救い
翌日。
僕はルシャと二人、魔導都市の市場に向けて歩いていた。昼間は学校に行っているシエスから、食料の買い出しを頼まれたからだ。
日差しが目に痛い。昨日の深酒のせいで頭もずきずきと痛む。
昨晩、意識や記憶を失うことはなかったけれど、まっすぐ歩けないくらいには酔ってしまって、シエスとルシャには心配をかけてしまった。シエスの寮への見送りも結局ナシトに任せてしまったから、シエスは今頃さぞ拗ねているだろう。魔導学校で、不機嫌なシエスの横で慌てるレーリクが目に浮かぶようで、少し笑ってしまった。
どこかでちゃんと、埋め合わせをしないと。……一番悪いのはガエウスなはずなんだけどな。
季節はもうすっかり冬だ。今日は割と暖かく晴れているけれど、それでも空気は冷たく澄んでいて、歩いていて気持ちが良い。一つ息を吸うたびに、酔いと眠気に浸った意識が目覚めていくような気がする。けれど不意にまたチクリと刺すような頭痛が襲ってきて、思わず顔をしかめてしまう。
「……まだ、痛むのですか?」
僕のしかめ面に気付いたのか、隣を歩くルシャが顔を覗き込んでくる。朝に水を浴びたけれど、もう酒臭くはないだろうか。息が届く距離にいるルシャを見て、心配になってしまう。
「少しだけね。吐き気とかは無いから、大丈夫だよ」
「癒しても、いいのですが……シエスが怒っていたので、今回は無しです」
確かに、昨晩シエスは僕とガエウスに対して怒っていた。怒ると言っても、ただ何も言わずじとっとした眼で睨んでいただけだけれど。迫力もあったけど、僅かに可愛らしさが勝っていた。
昨晩は、ガエウスに飲まされたのは確かだ。けれど僕自身も、途中からは彼に調子を合わせて自分からも飲んでしまっていた。酔うと無駄に陽気になる、とユーリにも呆れられていたんだっけ。
「これに懲りたら、もうあのような無茶は止めてください。お酒は嗜むものですよ。浴びるものではありません」
ルシャはシエスの味方であるようだった。二人の仲が良いのは、僕も嬉しい。
「……反省します」
「はい。約束ですよ」
ルシャはそう言って顔を綻ばせた。もう彼女は、街中でもフードをしていない。陽に照らされて笑う彼女は、誇張無しに絵画のようだった。
ルシャと話しているとすぐに市場に着いた。王都や聖都ほどではないが、魔導都市もそれなりに大きな都市なので、市場も大きく、常に賑わっている。
昨晩にシエスがルシャと一緒に作ったらしい、買い物メモを片手に露店を見て回る。シエスの手書きで細かく指示が書いてあるので、僕はただそれに従って買い物をするだけだった。
野菜や果物を買う時には、ルシャが新鮮なものかどうかを見極めてくれた。
ルシャはソフィヤさんの教会にいる頃、買い出しに料理、掃除に洗濯と家事を一手に引き受けていたらしい。物怖じせず店主との値引き交渉に臨むルシャはとても頼もしかった。昨日はシエスがガエウスに、良いお嫁さんになるなんて褒められていたけれど、ルシャだって負けず劣らず、だろう。でも照れくさいから、言わない。
買うべきものは多かったけれど、シエスのメモとルシャのおかげですぐに終わった。買い忘れがないか確かめようとメモを見直すと、買うもの一覧の一番下に、何かが小さく書いてあるのを見つけた。
『お金、余ったら、何か食べて。お酒は駄目』
読んで、思わず昨晩の、シエスのジト目を思い出してしまう。彼女の前でお酒を飲むのは、当分控えないと駄目だろうな。
そう思いつつ、前を歩くルシャに声をかける。
「ルシャ、これで全部だと思う。帰る前に、何か食べるものでも買おうよ」
ルシャがこちらを振り返る。片手に持った軽めの買い物袋が揺れた。
「……家に戻れば、私が何か作りますよ?」
そう言うルシャに、シエスのメモを渡す。ルシャはそれを見ながら、優しげに微笑んだ。
「本当に、ロージャのことが大好きですね、シエスは」
僕は少し、どきりとしてしまう。あのメモに、そんな要素があっただろうか。僕が鈍感なだけなのか?それにまだ僕は、シエスの好意をどう扱ったらいいのか、分からない。
僕の動揺をよそに、ルシャは僕にメモを手渡して、そのまま僕を見上げた。
「……ふふ。それでは、シエスの好意に甘えましょうか。実は、ずっと食べてみたいと思っていたものがあるのです」
ルシャはそう言って、くるりと前に向き直り、すたすたと歩いて行ってしまった。僕はただ、彼女を追いかける。彼女の足取りは、少しだけ軽やかに見えた。
彼女が立ち止まったのは、市場の外れに立っていたリヌイの屋台だった。
鉄板を並べて、魔導で生地を焼いているらしい屋台の親父さんが、ルシャを呆然と見ていた。あれはたぶん、彼女に見惚れているのだろう。気持ちは分かる。
「これは、リヌイ、というのですね。この街で、食べている人をよく見かけたので、気になっていました」
ルシャが、今まさにリヌイの生地を焼いている親父さんの手元をしげしげと見つめている。けれど親父さんの手元は止まったままだ。
焦げる匂いがして、親父さんは慌てたように生地を取り替えた。ようやく我に返ったようだった。
「そうか。リヌイは、聖都に無かったね。王都では見かけたから、北部の食べ物なのかな」
話しながら、僕も屋台を見る。集中し直したらしい屋台の親父さんが、小麦と卵と牛乳で練った生地を薄く、円く鉄板にひき、焼いている。当たり前だけれど、手つきは手慣れていた。
「あの生地に、何か挟んで食べるのですよね?」
「そうだよ。生地にも少しだけ甘く味がついてるから、僕はそのまま食べるのが好きだけど、果物を挟んだり蜂蜜を塗ったりしても美味しい」
「なるほど。……どれも美味しそうで、迷いますね」
料理が上手なだけあって、食には結構こだわるルシャだった。彼女は屋台に立てかけられた具材の表を見つめて、悩み始めてしまった。
そんなルシャをよそに、僕は先に、親父さんにお金を払っておいた。
「兄ちゃん、えらい美人さんを連れてんじゃねえか!恋人か、それとも嫁さんか?羨ましいねえ」
親父さんが僕に笑いかけてきた。気の良い人のようだった。笑って誤魔化しておく。
若い男女二人で、買い物袋片手に歩いていたら、そう見られるよな。……僕は、今の問いにどう答えたいのだろうか?
シエスだけじゃない。ルシャだって、僕に信頼以上のものを向けてくれている、気がする。僕はどうしたいのだろうか。彼女たちと、どう生きていきたいのだろうか。
結局、ルシャが自分のリヌイを決めたのは、だいぶ経ってからだった。
その間、僕はずっと、シエスとルシャ、二人のことを考えていた。
二人でリヌイを買って、市場近くの広場で腰かけた。聖都にある、『嘆きの大聖堂』の前の大きな広場ほどではないけれど、小さな噴水があって、静かな場所。
ルシャは僕の横に座り、噴水の方を眺めながら、果物をくるりと巻いたリヌイを嬉しそうに頬張っている。結局、かなり欲張りに選んだのか、リヌイは大きく膨らんでいた。
両手でリヌイを掴んで、齧りつく。行儀が良いとは言えない食べ方をしているのに、ルシャだと頬張る様子もなぜか上品に見えるのが不思議だった。
僕もリヌイに齧りつく。僕は生地だけだけれど、爽やかな甘さが口に広がる。何となく、懐かしい気持ちになってしまう。リヌイの味に、思い出したくないことも思い出す。
村にいた頃、冬の終わりには必ずこのリヌイを食べて、春の訪れを祝っていた。ユーリはリヌイがそこまで好きではなかったから、彼女の分も僕が食べていたな。食べ過ぎて苦しくなっていたのをよく憶えている。
もう振り切ったつもりなのに、ふとした拍子にユーリの笑う顔や、僕を呼ぶ声が頭の中に蘇るのは、何故なのだろう。
「まだ、悩んでいるのですね。過去について」
もうリヌイを食べきったらしいルシャが、いつの間にかこちらを向いていた。また僕は、分かりやすく落ち込んでいたのだろうか。ルシャに無用な心配をかけたくはない。
慌てて大丈夫だと言おうとして、けれど彼女の方が先に口を開いた。
「……こんな日々が来るとは、思ってもいませんでした」
ルシャがぼそりとつぶやく。僕は思わず、リヌイを食べる手も、ユーリを思い出すことも止めて、ルシャを見た。
「教会を出て、冒険者になって、仲間と一緒に戦って、共に無事を祝って。神に縋らなくても、生きる理由を探し求めなくても心穏やかでいられるなんて、聖都にいた頃は思いもしませんでした。全て、貴方のおかげです」
ルシャは僕を見ている。眼には確かな光があって、聖都で泣いていた頃の面影はもうどこにもなかった。彼女の言葉を信じて、僕が守ったと、思っても良いのだろうか。
「私はこれから、貴方に救ってもらった恩を返していくつもりです。貴方が『果て』まで行くというのなら、付いていくつもりです」
「……最初に救ってもらったのは、僕の方ですよ。僕は貴方に命を救われた。恩なら、僕の方が先に、返さないと」
僕がそう言うと、ルシャはくすりと笑って、頭をそっと、僕の肩にもたれかけてきた。
「勘違いしないでください。私はあの時、神の良心に従って、貴方の命を救った。けれどロージャ、貴方はただ自らの意思で、私の心まで救ってくれたのです。それが同列である訳、ありません」
彼女の言葉はどこまでも優しかった。胸が暖かくなる。僕の生き方が、僕の望みが、間違いではなかったと言われているような気持ちになる。
「貴方には、一生かかっても返しきれない恩が、あります。だからどうか、傍にいさせてくださいね」
そう言って、ルシャは僕の手を握る。
心まで救われたのは、僕だって同じなのに。あの時メロウムの前で、勝手に過去のことを思い出して、僕の自己満足で言葉をぶつけて、勝手に楽になろうとしたのは僕なのに。
それなのに、僕に救われたと言ってくれるルシャに、ふと縋ってしまいそうだった。
「私も、もう仲間です。だから、貴方の悩んでいること、過去のこと。いつか、話してください。きっと、力になりますから」
「……ああ。ありがとう。……もう少しだけ、待っていてもらえるかな」
僕の中にはまだ、良く分からない思いがあった。
ユーリとのことを、どうしてか人に話したくなかった。この思いが、僕のちっぽけな矜持なのか、話せば本当にもう、ユーリとのことが過去になってしまうのが怖いのか。まだ分からない。
結局、恋人に捨てられて逃げ出した僕の弱さを打ち明けるのが、ただ怖いだけなのかもしれない。
「ええ。いつまでも、傍で待っていますよ」
けれどルシャは、それでもいいと笑ってくれた。
彼女は本当に、傍にいてくれるだろう。自分勝手に守ると言った僕を信じて、傍にいてくれる。
それだけで僕がどれだけ、救われていることか。恩なんて明らかに、僕の方がもらってばっかりだ。
日はまだ高い。でも弱い風が吹いていて、少し肌寒かった。けれどもう少しだけ、こうしていたかった。ルシャの手を握り返す。
二人して風邪を引いたら、ルシャの『奇跡』で癒してもらえばいい。それくらいの我が儘は、彼女なら笑って許してくれるだろう。そう信じていた。
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