第6話 カタルシスの権化

 とは言えだ。


 通りすがりの村人Aに降格した今、桃子と一緒にいるのは――辛いものがある。加えて、どれほど好意を寄せようと、二人で共に笑いあえる未来はない。


 一見、隣り合わせのようで、分断された全く異なる世界に、俺たちはそれぞれ身を置いているわけで、こればかりはどうしようもないからだ。


 溢れてくる、好きという感情。これを最小限に押しとどめるのが、賢い選択というもの。大火傷する前に、早くこの場を離れるのが上策だろう。


 もう一度、会えただけでも良しとするべきだ。だから、二度も悲しいお別れはしたくない。


 渾身のスマイルを桃子に見せて、俺は立ち去ることにする。


「じゃあ、そろそろ行くわ!」


「ええ? もう、行っちゃうの?」


「こう見えて、予定が詰まってるんだよね」


「そう。残念ね」


 二人の間に池があって助かった。あんな可愛い上目遣いを至近距離で発動された日には、離れられなくなる。


「本当はさ……ちょっと落ち込んでたんだ。でも、君と話をしてたら、その、元気でてきた!」


 本音を惜しげも無く口にするという、小っ恥ずかしさに頬を染める。ついでに、羞恥心の隠蔽を図り、歯をみせて笑ってみる。


「良かった。元気な方が楽しいもんね」


 彼女は控えめに微笑み、物言いは静かだった。俺はもっと違うリアクションを想像していた。


 この佇まいは覚えがある。早朝、学校の図書室で一人、美術書を開き、ヴェラスケスの絵をぼんやり眺めていた桃子の姿と重なった。


「あ、あのさ!」


 俺は――何を言おうとしている?


「しばらく……この街にいる予定なんだけど……また、会えるかな?」


 何を聞いているのでしょうか? 海斗たちと合流したら、雪葉が待つ我が家に帰るつもりでいるのに、全く逆のことを言っているではないか。


 桃子の中には、俺という過去は存在しない。偶然、会ってしまったからと言って、彼女に執着するべきではないのだ。


 どう考えても、恋い焦がれている俺の方が分が悪いというのに。すべきこと、したいことの比重が、少しずつ逆転していくのを感じる。


 彼女は俺から視線をスッと外し、悩ましげに首をかしげた。「また」などという約束を取り付けようとする、俺の浅ましさに、彼女は答えあぐねているのだ。恐らく。


「うーん……どうかなあ」


 一方通行な盛り上がりは、返り討ちにあいテンションがダダ下がり中。妙な期待をした自分が恥ずかしくて、耳まで熱くなってくる。


「……ですよね」


 精一杯の作り笑いを向け、「じゃあ……」と小声で挨拶し、虚しく響く空笑いと共に桃子に背を向けた。


 もう歩き始めているのに、余計なことが頭に浮かんでくる。邪念を振り払うように、何度か激しく頭を横に振った。


「やっぱ……もう会えないのかな……いやいやいやダメだ、ダメだ。ダメでしょ……何言ってんだよ。帰らなくちゃいけないんだって」


 ブツブツと自問自答しながら、竜神池を離れようとしていると、


「アオタくん、待って!」


 よく通る桃子の声が、辺り一帯に響いた。それこそ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、俺は速攻で振り返った。


 戻ってこい、と手招きしている。


 しょうがねえな、と言いたそうに溜息をつきながら、だるそうに戻る。面倒くさそうな自分を演じる、という謎の演出をしてしまう自分を殴ってやりたい。


「俺、急いでるんだけど」


 彼女は不機嫌そうな声も気にせず、軽く握ったこぶしを口元に持ってくると、はにかんでみせた。


「また……ここに来てもいいよ」


 なんだと、この野郎。可愛いこと言うじゃねえか。気持ちを抑えきれそうにない。調子に乗ってはダメだというのに。


 しかも、隙だらけの彼女が心配になってくる。箱入り娘に、眉をしかめる父親になった気分。


「こらこら、俺が悪い奴だったらどうするつもり?」


「大丈夫、断言できる。アオタくんは良い人だよ」


 飾り気のない笑顔は、俺には眩しすぎて目が潰れそうだ。


「そんな簡単に、通りすがりの男を信用しちゃダメでしょ」


 桃子の表情が、晴れやかに輝けば輝くほど、どんな顔をすればいいのか、分からなくなる。


「ねえ、本当に初対面かな? 私たち、どこかで会ったことない?」


 なんとも酷な質問をする。


「……いや、ないと思うけど。どうして」


 桃子は思い出すように、ポツリポツリと言葉を重ねていく。


「直感……違うな。なんだろう……アオタくんがここに現れた時ね、なんとも言えない、こう……郷愁っていうのかな。胸がきゅうって苦しくなったの」


 でも、思い出せないんだよな? まったく、神様ってヤツは、えらく残酷な采配をするものだ。


「――そう、なんだ」


 他に返しようがない。俺は余計な言葉を飲み込んで、唇をきつく結んだ。


「うん。私、この人、好き、って思ったんだ。不思議だよね」


 と彼女は言って、ふふ、と思い出し笑いをした。


「いやいや……いきなり、その……好き、は言い過ぎじゃない?」


 そんな風に口を尖らせても、俺は間違ってませんよ。覚えてないのに、好きってどういうことだ。ずいぶんと俺を悩ませてくれる。


「だって、本当にそう思っちゃったんだもん。迷惑だった?」


 このやりとり。放課後の理科室を思い出す。


 君の中に少しは何かが残っているんだろうか。つい、期待しそうになってしまう。


「迷惑だなんて……そんなこと」


 言い淀む俺とは反対に、彼女は迷いのない真っ直ぐな目を向けてくる。桃子は変わってないな。


「私のこと、嫌い?」


「嫌いなわけないでしょ、だって俺は!」


 つい声を荒げて、はっとする。


「あっ……ごめん」


 いっそのこと感情に身を任せ、そのまま告白すれば良かったか?


 いやいや、彼女も苦笑している。


「やだな、謝ったりしないでよ」


「そう、だね」


 こう見えて、俺は数時間前まで火葬場にいた身だ。すっかり落ち着いた、と気を抜いていたら、桃子の言葉と病室で泣き叫んで謝る自分がオーバーラップした。


「ねえ? ちょっと――泣いてるの?」


 心配そうに、桃子がこちら側に来ようとしている。それはダメだ。至近距離になったら、冷静でいられる自信がない。


 咄嗟とっさに「来るな」と言いそうになったが、彼女にそんな言い方は乱暴だと瞬時に反省し、代わりに飛び出たセリフがこれ。


「ダメ! こっちに来ないで!」


 乙女か――俺は。


 言った端から、反省することが多すぎる。


 駆け出しそうになった足を止め、彼女は申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい……初対面の人に、私、あつかましいわね。デリカシーがないっていうか……悪い癖なの」


「も……砂上さんは悪くないよ。そうじゃなくて……さっき……親戚、って言ったけど、あれ、ウソだから」


「え? ウソ?」


 俺は小さく頷いた。


「親戚じゃなくて、父の葬式だったんだ。本当はね、謝りたいことがいっぱいあったんだ。でも、遅かったよ。何度もチャンスはあったのに……何も伝えられず、ただ見送るしか出来なかった」


 延命処置を選ばなかったことも加味されて、答えのでない問題を抱えて、俺は落ち込んでいるというわけだ。


 それにしても、なんでまた、聞かれてもいないことを、恥ずかしげもなくペラペラと話してしまったのか。


 自己嫌悪に陥ってばかりで、どうにも顔を上げられない。


「そっか……悲しいね。でも」


 うつむいていた顔を上げると、逆光だった太陽は動き、彼女の白い肌を明るく照らし始めていた。


「上手く言えないんだけど……お父さんの死が、アオタくんに大切なことを教えてくれたように思うの」


「父さんが?」


「うん。想いを伝えられないことは、とても悲しくて辛いことだってことを、アオタくんはもう知ってるでしょう?」


 彼女はゆっくりと語るように、言葉を継いだ。


「だから……これからは素直に謝ったり、想いを伝えたり、出来るよね? もう気持ちを隠したり、誤魔化したりしないよね?」


 桃子は人生三周目くらいだろ。高校三年生で、そこまで悟るのに、どれだけの修羅場をくぐったと言うのだ。


「まいったな……出来ないことばっかじゃん」

 

「もう後悔しない生き方、考えなくちゃ。私たち、もうすぐ大人になるんだよ」


 そう言って、また彼女の目は三日月になる。


 カタルシスを得る、という感覚を初めて感じた瞬間だった。


 目の前の暗雲が薙ぎ払われ、いきなり現れた快晴の下に広がる万緑ばんりょくの絶景に、歓喜の雄叫びをあげる俺がいた。


 最早もはや、何を言っているのか、俺にも分からん。


 大人になるということが、どういうことなのかも俺は理解していない。が、もう、あんな思いは二度としたくない。それだけはハッキリしている。


「――ありがとう、も」と、続けて、また気安く呼び捨てしそうになり、グッと『桃子』を飲み込む。


「砂上さん」


 自然と頭が下がった。


 そこへ、澄ました桃子の声が水面を揺らした。ように見えた。


「水神様からの、ありがたいご神託しんたくであるぞ」


 頭を上げてみれば、それは見事なドヤ顔を俺に向けていた。


 もしも、この世に『ドヤ顔コンテスト』が存在するなら、俺は彼女にグランプリのトロフィーを渡すだろう。


 それくらい飛びっきり可愛い顔だったから、笑いがこみ上げてきた。


「お賽銭は今度ってことでいい?」


「いいわ、貸しにしておいてあげる」


 そして、ちょっと吹き出した。


「じゃあ……俺、今度は本当に行くね」

 

 彼女は笑っているが、笑っていないようにも見える。一緒に山を下りた方がよくないだろうか。ふと不安が過ぎる。

 

「バイバイ」


 笑顔で告げられた別れの挨拶は、俺にそれを許さないと言っているようで、無言の強制力を感じた。


「……またね、砂上さん」


 そして、後ろ髪を引かれる思いで、再び鳥居に向かって、駆け下りていった。


 あんな不安そうな笑顔を、桃子にさせてはいけない。


 今度こそ連れて帰る。

 俺は、そう心に誓った。

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