第5話 忘却からのスタート
まさに、青天の霹靂。
水色の空と鮮やかな朱色の鳥居が、俺をあざ笑うように見下ろしていた。
足元を見れば、神社へ続く参道が一直線に伸びている。少し視線を横に移すと、竜神池に通ずる脇道まで見えた。
「せめて、靴くらい履かせて欲しかった……」
葬儀から帰宅し、自室に篭ろうとしただけなのに。また、ここへ来てしまった。落胆する気持ちと一緒に、石畳の上にへたりこむ。
「葬儀が終わったばかりだぞ? なんでこうなるかな……」
引き金となった要素。いくつか思い当たらないわけでもない。が、悲観的になることもない。雅次郎は二回目以降もずっと、同じ方法で帰還している、と言っていた。
もう一度、試してみる価値はある。
早速、俺は硬く目を閉じた。胸に拳を当て、心の中で強く念じる。
「…………」
変わる気配は、一向に感じられない。イラつかせる蒸し暑さも、靴下の裏から伝わる参道の熱さも、当たり前のように伝わってくる。
扉を開ける魔法の言葉は、とてもシンプルだった。帰りたい、と願うだけで良かったはず。それが、全く通用しない。
最初に来た時は、世界が勝手に馴染んでいったのに、今回は、もう知らん、と突き放されている気分だ。
「足りないっていうのか? 欲しがりすぎだろ!」
参道のずっと先にちらっと見える
再び天を仰ぎ、両手を突き出した。境内まで聞こえるくらい、あらん限りの大声で叫んだ。
「何でもします! 俺を家に帰してください!」
悲しいかな。
辺りの静けさは広がっていくばかり。
兄弟二人きりになった今、俺が失踪してどうする? 確固とした理由が存在するというのに、何故、今回は受け入れられない。
暴言を吐きそうな気持ちを抑え、再び瞑目し、社に向かって両手を合わせる。
「神様、仏様、海斗様。どうか便利な雅次郎と一緒に、僕を迎えに来てください」
誰に何の祈りを捧げているのやら。
目が潰れそうなほど青い空を、恨めしそうに仰ぎ見る。
梅雨入り前の独特な蒸し暑さに、汗が身体中に滲んできた。
どうしたものか、と顔を歪ませていると、ピンと閃いた。
「いやいや……待てよ、待てよ……もしかしたら」
こっちへくる直前に、あの二人にはメッセージを送っている。内容が内容だ。海斗ならば、危機を察知してくれる可能性は十分に考えられる。
東京と同じ日時を刻んでいるなら、今は月曜日の午後二時ごろ。二人が下校時間に現れると仮定すると、あと二時間後に合流できるかもしれない。
となれば、着いた時からずっと気になっていた、あの場所へ行ってみようと考えた。
しかし、ここで海斗たちと行き違いになっては本末転倒。
慌ててポケットというポケットに手を突っ込んでみるが、葬儀の帰りだったこともあって、所持品は少ない。
「スマホを置いていくのはちょっとなぁ……」
ぼやきながら、こめかみから流れる汗をぬぐった手を見る。
「お、あるじゃん」
汗と涙が染み込んだハンカチだった。重いな。今朝、出がけにマリエに渡され、葬儀中ずっと手放せなかった一品だ。
ナイスなアイデアに俺は顔をほころばせ、スクッとその場に立ち上がった。
「この辺、かな」
目の前を三歩ほど進んだ場所にしゃがみこんで、ハンカチを両手で広げる。シワだらけのハンカチを左右に引っ張り、ピンと伸ばしてから地面に置いた。
「これを、こうやって、と」
ぶつぶつと独り言を吐きながら、風に飛ばないように、四隅に玉砂利を配置する。ついでに、色味のある玉砂利を選んで『スグ モドル アオバ』と、ハンカチの上に書いて完成だ。
「じゃ、ちょっと行ってみますかね」
靴下しか履いていないのは心許ない。でも、何かに吸引されるように、気持ちが引っ張られる。
ゆっくりと立ち上がり、参道を斜めに横切った。
例の脇道に入っていくと、腰まで来る穂先の長い雑草が覆い茂っていた。稲穂のように、先の方に綿毛がついている。
見渡す限りそんな状態で、人間が踏み込むことを許さない、という何かの強い意志を感じた。
以前の記憶を辿ると、新緑の繁る木々に沿って歩けば、あの場所が開けてくるはずだ。
「しっかし、さすがに夏はしんどい」
脱いだブレザーを腕に引っ掛け、カッターシャツの袖口を捲り上げる。最後にネクタイを緩め、片手で第二ボタンまで外した。
背中を伝う汗のせいで、シャツが身体に張り付いて鬱陶しい。額からも大量の汗が流れてきて、拭いても拭いても、目になだれ込んでくる。
ただ、夏草のカーペットの上を歩くのは、なかなか心地よいものだ。
緩やかに蛇行しながら、しばらく登っていくと、目指すべき場所が見えてきた。眼前に現れた景色に胸が疼く。
赤い鳥居がトンネルのように連なり、横に広く伸びている。その前には、水神様が祀られているという、底の知れない蒼い池が横たわっていた。
池の水面はダイアモンドが砕け散ったようにキラキラし、反射する光が目を
目を
煌めきの中に、ずっと見たかったものが浮かんできた。
――幻覚か。
俺の脳が勝手に映し出しているのか。
鳥居を背にして、女の子が一人、ゆっくりと立ち上がる。
心も身体も、どんどん引き寄せられていく。
草をかき分け一歩一歩、池に近づいた。汗ばむ首筋を撫でる風は、木々の枝を揺らし、踊るように山の上へ上へと逃げていった。
太陽は彼女の頭上から、一筋の
池のほとりまでやってくると、その姿、その顔は紛れもなく彼女だった。肩で息をつきながら、呆然として立ち止まる。
彼女の目は大きく見開かれ、野犬にでも遭遇したように身を固くしているのが分かった。
口ごもっている間に、彼女の方が先に口を聞いた。
「あの……」
鈴を転がすように笑う彼女の声が、記憶の中でこだまする。この世界で見つけた想いが、ふたたび呼び起こされてしまう。
余計に緊張を強いられ、気の利いたセリフ一つ出てきやしない。
「ご、ごめん! 驚かせた、みたいで……俺もちょっと、その……ビックリしちゃって」
しどろもどろの俺が可笑しかったのか、彼女は表情を緩めて言った。
「この場所に来るのは、私だけかと思ってた」
クスクスと笑って、彼女の目が三日月になった。
彼女がそう思うのも当然だ。
あの日ここで、彼女はこの世界に残ると言い、俺は戻ると宣言したのだから。俺だって、またここへ来るとは思っていなかった。
出戻りのようで、なんとも説明し難い。
俺は照れ笑いしながら「まあ……そりゃあそう思うよね」と言うと、彼女は屈託なく笑った。
そして、真っ直ぐな瞳を向けたまま、彼女は小首を傾げて言った。
「あなた、どこの学校?」
「――え?」
そうか。海斗が言っていた「立派なよそ者」というのは、こういうことだったのか。
よそ者となった俺は、彼女の記憶から消えているらしい。四文字熟語で今の気持ちを表すなら、「意気消沈」しかない。
この偶然は、再会ではなかった――。
彼女にとって、俺は初対面の男ということになる。
こめかみがひきつって、上手く笑えない。
「俺の学校……そうだな……君は、知らないと思うよ。その……少し遠いんだ――」
「そんな遠くの人がなんでここに? 責めてるわけじゃないのよ? 本当に、ここで誰かと会ったのは初めてだったから」
会ったことは、ないか。強烈なリバーブロウをくらって、その場に膝をつきそうになる。
「……親戚の葬式で、こっちに来てて、うん」
「そう……大変だったね。変な質問しちゃった。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。気にしないでいいよ。君が謝る必要は全然ないし……ここ落ち着くよね」
早口になった自分が恥ずかしくなり、苦笑したら、彼女も複雑な笑みを浮かべた。
――少しの間が仕切り直しとなり、彼女が空気を軽くしていく。
「ねえ、名前を聞いてもいい?」
「え、俺?」
何故、そうしたかは説明できないが、つい、偽名を名乗ってしまった。
「アオ……アオタ」
「私は砂上桃子。砂の上って書いて、サジョウ、って読むんだよ。この神社と同じ名前の高校三年生。アオタくんも、同じ年くらいじゃない?」
「ああ……うん。俺も高三」
「やっぱりね」
忘れられていることが、これほどキツいとは想像していなかった。
血の気が引いていく思いだ。
「砂上、さんは、ここで……その、何してたの?」
彼女は少し困った顔をして、下唇を噛んだ。一瞬、無言になる。
質問を取り下げようとしたが、彼女は控えめに微笑んで答えた。
「そう聞かれると困るなあ。何もしてない。一人を満喫してるだけだもん」
ここにいるということは、行き場がない時だ。
分かっていて聞くなんて、俺はどうかしている。
「アオタくんも、一人になりたい時ってない?」
「……ごめん」
「なにが?」
「いや、その……ごめん……」
彼女は顔を横にプイッと向けると、澄んだ瞳を空に向け、よく通る声を響かせた。
「地元の人でもないのに、どうして、私の秘密基地を知ってるのかな? なんでかなあ、どうしてかなあ」
そう言って大げさに身を翻すと、にんまりと笑って、俺の方を指差した。
「大問題だよ?」
大問題は君だよ。
芝居掛かった口調に、この悪戯っぽい目。バカっぽいし、あざといにも程がある。現代社会でそんな振る舞いをした日には、みんなドン引きだぞ。
でも、俺は嫌いじゃない。むしろ、愛おしさに笑いが漏れる。
「基地か、そりゃ悪かったね。親戚にこの場所を聞いてさ……面白そうだな、って来てみました。はい」
後ろ手で握りしめる拳が、嬉しいやら悲しいやら色々混じって震える。
「ふうん。まあいいわ。でも、もう他の人に話しちゃダメだからね」
「……分かった」
「本当に本当よ? お口にチャック、だよ」
「分かった、って」
「あ、今、鼻で笑ったでしょ?」
「そんな。笑ってないよ」
もしも、花が微笑むとしたら、こんな風に笑うんじゃないか、と俺はいつも思う。
「いいえ、笑いました」
彼女が何を抱えているのか、本当のところ俺はよく知らない。でも、会えば必ず笑顔にさせてくれる。わざとらしく、むすくれたフリをする彼女も、どうしたって可愛い。
俺はこの娘のことが、やっぱり今も好きだ。
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