第3話 選ぶということ

 渋谷駅のハチ公口で、海斗と雅次郎と別れ、俺はマリエと雪葉が待つ家へと帰ったわけだが。


「ただいま」


 帰りの電車は買い物客でごった返し、ただ乗っているだけで、十七歳の体力と気力を奪われたように思う。


 俺の声にいち早く反応して、玄関に出てきたのはマリエだった。


「お帰りー。ご飯は?」


「……食うよ」


 チラッとだけマリエを見ると、嬉しそうな顔をしていた。変なやつ、と言いそうになる。


「今日はハンバーグ付きカレーという豪華版にしました! 期待しててよ!」


「…………」


 人混みに疲弊して帰宅した俺には、マリエの高いテンションに相槌を打つ気力はない。ただ、マリエが無駄に元気ということは、父さんに変わりはない、ということでもある。


 感じ悪いわな、俺。


 下駄箱の上にある鳥の巣に座った、真顔の白い鳥と目が合う。どの辺が可愛いのか、俺にはさっぱりだ。


 これは、雪葉がまだ小学生の頃、学校のバザーで父さんにねだって買ってもらったという物入れの小さな籠。


 靴紐を緩めると、家の鍵をその籠の中に放り投げた。


「雪葉は?」


「台所」


 長い髪を頭の上で無造作にまとめたマリエは、若干だが若く見える。そして、いつも楽しそうだ。


「ハンバーグも焼ける、っていうからさぁ、任しちゃった。あの子、本当に器用よねえ」


「だろうな。俺とは出来が違うから」


 後ろで、マリエが何か言っている。子供じゃないんだから、別に怒ったりしてませんて。


 日曜日だと言うのに、マリエは週末から泊まりで来ている。雪葉にとっては、それはクリスマスが来るようなもので、ずいぶんと楽しみにしているようだった。


 弟は素直で頑張り屋で、俺より、ずっとしっかりしている。でも、どこか寂しいのだと思う。だから、いくらでもマリエに甘えればいい。


 廊下を進んで右側に入ると、六畳くらいの小さなキッチンがある。


 扉は、いつも開けっ放し。


「ただいま」


 入り口から顔を覗かせると、雪葉はシンク周りを片付けながら、料理もするという手際のよさを発揮していた。


「なんか手伝おうか?」


 俺は、雪葉の背中に声をかけた。


 台所に立つ雪葉を見て、今になって気づく。背が伸びている。どおりで、子供扱いすると怒るわけだ。


 マリエに買ってもらったという、デニム生地のエプロンをけた雪葉が振り返る。


「お帰り、兄ちゃん」


 その笑顔を向けられると、免罪符を渡されたようでホッとする。


 雪葉はすぐに正面に向きなおし、右手に用意していた蓋をフライパンに被せた。すでに焼き色がついたハンバーグを、今度は弱火で蒸すように焼くらしい。


「お皿を三枚、出しといてくれる? 大き目がいいな」


「任せておけ」


 と請け負ったものの、これがなかなか難しい。


 食器棚の前で仁王立ちになり、上から下まで棚を見回す。棚のガラス戸をスライドさせ、手当たり次第に皿を出してみるが、どれがベストチョイスなのやら。


 素直に雪葉の指南を仰ぐことにした。


「なあ雪葉、皿って――」


 と、その時。


 突然、マリエの悲鳴にも似た絶叫が、廊下から聞こえた。


「……火を止めろ」


 雪葉は俺の声に慌てて、フライパンに掛けた火を止めた。


 嫌な想像は、よく働く。


 火が消えたことを確認し、俺は台所を飛び出した。


 寝室に駆けつけた時には、父さんは首を絞められたような喘鳴ぜんめいを轟かせ、懸命に息を吸い込んでいた。


 マリエはベッドの横で、身動き一つせず、じっと座り込んでいる。


「おい……」


 俺の呼びかけに、マリエが振り返った。


 部屋の入り口で棒立ちになった俺と雪葉の姿を見ると、急に、エプロンのポケットからスマホを取り出し、震える指先で救急車を呼んだ。


 ここからは、全てが光のスピードで進んでいった。何がなんだか分からないうちに、ふわふわとした気持ちのまま、俺たちは揃って病院の中にいた。


 集中治療室に緊急搬送された父さんは、幸いにも持ち直した。知らぬ間に、風邪から肺炎に変わっていたらしい。


 今は人工呼吸器で、肺に酸素を送り込んでいるところだった。


 俺たちは三人とも、最悪を乗り越えたことに、心底、安堵していた。


 病室を一度離れ、自販機で買った缶コーヒーを、外の待合室で飲みながら、俺たちは今後のことを話し合っていた。


 五分もしない内に、女性の看護士がやって来た。


「先生から、お話があります。一度、ICUにお戻りいただけますか?」


 急ぐ看護士の後を小走りについて行きながら、俺はマリエに小声で聞いた。


「もう、安定してるんだよな?」


「だと思うけど……」


 戻ってみると、白衣を着た二十代にも見える若い風貌の男が、神妙な顔で俺たちを待っていた。


 全員が揃ったのを見て、医師はゆっくりと口を開く。


「次に心肺停止になった時、延命処置を希望されますか? ご検討の上、出来るだけ早いお返事を頂きたいのですが……」


 突然の医師の言葉に驚いて、互いに顔を見合わせる。


 「当然だろ!」と怒声を上げそうになるのを抑え、医師をめつける。マリエは鼻息荒い俺を見て、「待って」と呟き、小さく頷いた。


「あの……どういう、意味でしょうか?」


「二回目も延命処置を行った場合、その後は今の状態で安定します」


 拍子抜けするほど、医者の宣言は悪いものではなかった。


 雪葉と顔を見合わせ、互いに緊張がほぐれていくのを確認した。一筋の光が暗雲に差し込むように、心に充満しかけていた恐れが、吹き飛んでいくのを感じる。


 家族の嬉々とした様子に、医師は言いづらそうにうつむいた。


 一呼吸置いてから、重い瞼を上げると説明を続けた。


「――延命処置をもう一度行えば、容態は安定します。ですが、回復の見込みはありませんので、植物状態が続くことになるでしょう。期間は半年かもしれないし、何年もながらえるかもしれません」


 先生の言葉が何を意味するか、俺はまだ正確に理解していなかった。


「そして、延命治療を続けた場合、今度はご家族のご意思があっても、途中で止めることはできません――最後の瞬間まで」


 腹から一気に登ってくる慟哭に、喉が震える。おかげで、笑いを堪えるような声が、口から無様に漏れた。


 処置を拒否するということは、完全に死に至るまで待つということ。処置を施すということは、意識のないまま何年もベッドに寝かせるに等しい、ということだ。


 抱えきれない重責に身体が震え、ベッドの柵を握る両手に力が入った。


 小刻みに震える雪葉の手が、俺の腕を掴んだ。横目でマリエを見遣ると、人工呼吸器を装着された父さんの額を撫でながら、声を押し殺して泣いている。


 誰かに決めて欲しい。

 どちらが後悔せずに済むのか。

 どちらが父さんを苦しめずに済むのか。


 出来るだけのことをしたい、とずっと思ってきた。そう思ったから、あの扉から戻ってきたんだ。


「兄ちゃん……ねえ、兄ちゃん、ねえったら」


 俺に答えを求めているのか、雪葉が俺の体を揺らし続ける。


 その瞬間まで何もしない、という選択が存在することに驚き、そして体が震えていた。


 一番に考えるべきは、父さんが苦しまずに済む方だ。頭で分かっていても、そう簡単に割り切れるものではない。


「父は……苦しんでいるのでしょうか?」


 俺は医者に聞いた。


「いいえ。痛いとか息苦しいとか、そういった感覚はないでしょう」


 少しホッとする気持ちと同時に、もうそんなに遠いところにいるのか、と目に見えない距離を感じた。


「時間はないと思ってください。急変する可能性がありますから」


 そう言って、医師と看護師は頭を下げ、静かにその場を立ち去った。

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