第2話 帰還者
あれから一度も、向こうと繋がることはなかった。
玄関のドアノブを握った時に考えていることなんて、かなり現実的な日々のあれこれですよ。ヘルパーさんとの連絡内容、病院の予約確認、それに、雪葉に頼まれた買い物忘れのチェックとか。
個人的な感情に頭が支配されるほど、俺には暇がなかった、というべきか。
どちらにしろ、雪葉を一人置いて、今、失踪するわけにはいかない。行ったはいいが、二度目は帰れませんでした、では困る。
ただ、置いてきた想いは小さな灯火となって、心のどこか奥深いところで、まだ
そのせいか、落ち着いた海斗の物腰と物言いに、
「もったいぶりやがって。さっさと話せよ」
「まあまあ、落ち着いて。彼が来てから話そう」
「別に、今話せば、いいんじゃないの?」
「相変わらず、せっかちだなぁ」
身を乗り出す俺の目の前に、海斗の手のひらが壁となって突き出された。
「ちょっと待って」
スマホの画面が点滅したのを見て、ヤツは目を細めた。
「着いたみたい」
そう言って、海斗は振り返った。つかさず、俺も視線の先に目を凝らす。
入り口で店員と話している男が見えた。遠目にも分かる横柄な態度に、さすがの俺も眉をひそめる。
仏頂面の男は、いや少年か? とにかく、手招きする海斗に気づいたようだ。このお洒落な雰囲気に飲まれることもなく、悠々と近づいてくる。
小柄な上に幼い顔立ち。雪葉の同級生だと言われても、俺は信じるだろう。
長袖のダンガリー・シャツをサラっと着こなし、気負いしないファッションがまた、何かと余裕を感じる。海斗と同じ、ぼんぼんの匂いがするな。
ソファの真ん中に座っていた海斗は壁側に腰をずらし、通路側にスペースを作った。
「はい、どうぞ」
男はうんともすんとも言わず、だるそうに腰を下ろした。
小動物を思わせる容姿。なのに、初対面の俺を高圧的な目で、瞬きもせずに真っ直ぐ見てくる。
「向こうで一緒だった星青葉くん」
海斗と同じクラスの男、ということは前情報として聞いている。
「どうも……星です」
一応、ぺこりと軽く礼をした。
って返事なしかよ! と胸中で叫んでみる。
態度そのままに、失敬なヤツだ。
軽くでいいから、挨拶して欲しいですね。
海斗は気にする様子もなく、にこやかに紹介を続ける。
「で、こっちが
「余計なお世話だ。というか、お前はいつから、俺の友人になった」
「そういうのいいから。とりあえず、先に注文しなよ」
この男も大概だが、やはり海斗も侮れん。
「あれ、青葉くん。どうかした?」
「いいや……別に」
そもそも、今日は海斗だけ来れば十分だった。俺が眉を寄せるに十分な理由が、この
邪魔である。
「ねぇ、湯島」
「はい、なんですか、
雅次郎くんが喋った。大層、退屈そうな声で。
しかも、何故そこで溜息?
偉そうに座る
「で、渋谷まで呼び出された理由ってなに?」
「同じ帰還者同士、仲良くなるいい機会かな、と思ってさ」
「勝手に巻き込んでもらっちゃ困るんだが」
「そんなこと言って、わざわざ来てくれたんじゃないか。三人で友達になろうよ」
「はぁ?……帰っていいか?」
いや、俺が帰るわ、と言いそうになる。
「いいから、いいから、そこに座って。一杯だけ飲んだら解散しよう」
有能なサラーリマンが、情緒不安定なコミュ障の同期を励まそうと、会社帰りに飲みに誘った図、に見えなくもない。
俺も家のことが気になるので、コーヒーを一杯飲んだら帰るとしよう。いや、帰らない方がいいのか? 今頃、雪葉はマリエと家族ごっこしているだろうし、急いで帰ることもない、か。
「青葉くん」
「え? あ、ごめん。なんだっけ?」
外にいる時くらいは、家のことは考えないようにしよう。
「大丈夫?」
「ああ、平気。続けて」
「彼がもう一人の帰還者だって話は、メールで知らせたと思うけど」
ふんぞり返った
周辺の客を気にしながら、海斗は顔を近づけ、俺に耳打ちした。
「彼が言うにはね、こちらとあちらを、もう何度も往復しているんだって。しかも、いつでもどこからでも行けるらしいよ」
聞き間違えか? と思うより先に、奇声を上げてしまった。
「ええぇ!」
「分かる。最初にこの話を聞いた時は、僕もそうだった」
「何度もって……どんだけ深い業を背負ってんのよ」
コーヒーを一口飲むと、
「君ら、難しく考えすぎ」
ますます俺の顔は険しくなる。君たち、気づいているかね。向かいに座る俺が、疑惑に満ちた瞳で君たちを見ていることを。
「星くん、だっけ? 別に信じなくてもいいけどさ、俺はたまに行ってるよ。別に何がしたいって訳でもないんだけど、ぷらっと街を歩いたりね」
「へぇ……ぷらっとね……」
「用ってことでもないけど、たまに、湯島に頼まれたレコードを探して買ってきたりね」
ドヤ顔で話しているが、別世界まで行って、頼まれた買い物をするような男だったとは。なかなか面白いヤツだ。
「お前、海斗のパシリやらされてんの?」
「ち、違うわ!」
「ところで、あの街に小さな山があったの覚えてる?」
「あったね」
「裾野に、大きな鳥居がある神社もあったでしょ?」
汗だくになって山を分け入ったあの日のことが、じんわりと頭に浮かんできた。
「あの神社がどうした?」
「二回目以降、向こうへ行くとね、どうやらもれなく、鳥居の下に到着するらしい。例外なく僕も君もね」
もう、あのじいさんの一軒家の居間じゃないのか。それはちょっと寂しい。
「じゃあ、戻る時はどっから?」
「同じく、鳥居の下からだよ」
そこで、海斗が目を輝かせながら、野郎の肩を揺すって話しかける。
「今度は三人で行こうよ。また僕も連れていって欲しいな。いいよね?
機嫌の悪い彼氏に、おねだりする彼女かよ。
「なにそのディズニーランドにデートで行ったカップル的な感じ――」
心の中でカハハハ、と乾いた笑いを、俺はピタっと止めた。
「いや待てよ……と言うか、海斗。お前、二回目……経験済みってこと?」
「やだなあ、青葉くん」
だから、嬉しそうに言うんじゃない。
「そうなんだよ。僕は向こうへ行ってきたんだ」
「本当に?」
海斗はコクリと頷いてみせた。
「
「にわかに信じがたい」
「でも、青葉くんも行ってみたいでしょ」
「いやあ、どうかな……俺は」
行ってみたくない、と言うと嘘になる。
答えに詰まり、黙り込んでいると、
「君はそこまで馬鹿ってわけじゃないんだな」
愉悦を含んだその声に、俺は片眉を上げる。
「はあ?」
「怒るなよ。俺は褒めているんだから」
どの辺を褒められているのか、俺には理解できませんがっ!
「確かに、俺は何度も往復している。これと言った問題が生じることなくね。なんなら」
さっきまでの仏頂面から程遠い、晴れやかな顔に嫌味しか感じない。
「あの扉から連れて行ってやってもいいけど? どうする?」
間髪入れずに、海斗が俺と
「それも面白そうだけど、次に行く時はちゃんと準備して行ったほうがいい」
「準備って何? 遠足じゃあるまいし」
「遠足というか、キャンプだと思った方がいいかな。僕は春先に連れて行ってもらったんだけど、もう寒くてねぇ。今じゃ、滞在する家がないから困ったよ」
せせら笑いながら、
「自業自得。翌日の土曜まで待てば良かった話でしょ。日が暮れかかった放課後に行きたがるなんて、結果は分かってたじゃん」
じゃん、じゃん、って、海斗もそうだが、横浜に住んでいると、やはり「じゃん」が定着するのだろうか。
と、そんな瑣末なことは置いといて、理解がおぼつかない。
「確認なんだけど」
「いいよ」
「二度目の訪問者には、世界は馴染まない、ってこと? その……自分の存在が最初からあったように、何もかも用意されることは、二度目以降は……ない?」
「多分ね。向こうの世界では、僕らは立派なよそ者だよ」
海斗は愉快そうに笑っている。
不安要素が多すぎる。俺は遊び半分で、あの扉を開けるわけにはいかない。
「青葉くんは何がそんなに心配?」
海斗の声にハッとして顔を上げると、
「彼はね、気づいているんだ。確実に帰って来られる保証なんかない、ってことにね。もしかしたら、俺が連れて行ける人数制限があるかもしれない。向こうに渡れる回数にも限界があるかもしれない。そう思えば、実に賢明な思考じゃないか」
ヤツのにやけた口元はイラっとするが、的を得ている。
「おい、海斗」
「はい、なんですか、青葉くん」
「お前もほいほい、こいつについて行って、最悪、お前だけ帰れなくなったらどうするつもりだよ」
「あぁ、それは困っちゃうよね……それよりさ、連絡先を交換しよう」
急に話題を変えたかと思うと、海斗はスマホの画面を開き、ポチポチと押して、自分のスマホを振りながら、
「はい、二人も早く」
眉間にシワを寄せながらも、
結局、帰還者だけのグループチャットが出来るようになった。
「茶飲み友達とか、俺、いらないからさ。無駄に連絡してくるなよ」
スマホをポケットにしまいながら、不服そうに
連絡先を交換したヤツが言うセリフではない。
海斗もマイペースなヤツで、隣から聞こえる小言を完全に遮断している。
「僕がメッセージ送ったら、ちゃんと返事してよ。スタンプだけでもいいからさ。既読スルーされると、凹むタイプなんですよ。二人ともよろしくね」
本気で嫌がっている
和やかな雰囲気で会話も弾み、
この後、まさか俺が最初に扉を超えるとは、誰も予想していなかっただろう。
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