第2部

第1話 待ち合わせ

 どこを見るでもなく、薄目を開けてぼんやり座っていると、白い腕がスッと伸びてきた。


 半袖から伸びた細い腕は毛がなくて、ツルっとしている。


 思わずドキッとして、照れた上向きの視線を送ると、


「ごゆっくり」


 女の子はエクボを見せながら、白いコーヒカップをテーブルに置いて微笑んだ。


 俺は秒で頭を下げた。


 なんと言うことはない。ただの店員だ。今日の俺は、白地に青のボーダーシャツをゆるくキメているから、好感度は高めのはず。


 言っておくが、全くもって浮かれてなどいない。


 むしろ、カフェと名のつく場所は苦手だ。


 渋々、ヤツの要求を受け入れて、ここに座ってはいるが、やっぱりガストで良かったように思う。


 しかも、場所が分かりづらいというオマケつき。


 メールには『ペンキが剥がれかかった赤い木枠の扉が目印。すぐに分かる』とあった。全くの嘘だった。


 店内は古びた白壁に、アンティークと思わしき白熱灯の照明が優しい。いわゆる落ち着いた雰囲気に満ちたイイ感じの店。


 皮肉なことに、この洒落た空間そのものが、俺の内なる緊張を誘発している。


 日曜日の午後だから仕方ないとは言え、カップルやらなんやら人が多いのも、なんだか息苦しい。


 どう振る舞えば、一体いくつになったら、こういう中でも堂々とした佇まい保ちながら、居心地よく過ごせるようになるのだろう。


 自意識過剰な思春期真っ盛りの俺、星青葉。この夏に十八になる。弟の雪葉も中二になり、再来年は受験生だ。


 四の五の言っている場合ではない。

 俺はすぐにでも、大人になる必要がある。


 手始めにミルクを入れようとした手を止め、ブラックで飲むことにした。


「くっ……」


 苦くて飲めたもんじゃない。


 カップに角砂糖を二つ入れ、ミルクを注いだ。マドラーを回しながら、テーブルに置いたスマホを取り上げ、画面を確認してみる。


 約束の時間には、まだ少し早いようだ。


 店に入った時、入り口付近で店員に人数を聞かれた。


「あと二人来ます」


 そう答えると、二人掛けソファが向き合った席に案内された。ゆったりしていて、これに関しては満足している。

 

 しかし、店内が混雑しているというのに、一人でソファ席を独占しているのは気が引ける。笑い声や弾む会話が飛び交う中、黙って座っていると、余計なことを思い出すのも厄介だ。


 あの奇妙な扉から戻って来て、半年が過ぎていた。俺なりに父さんと向き合っている。自分に出来ることなんて、たかがしれていることを思い知った。


 あの病気は特殊だ。原因は特定されていないから、特効薬も治療法も存在しない。この病気を理解している病院が、全国にどれだけあるだろう。


 なもんで、主治医がいる病院も家から遠い。


 医者からは「早く入院させろ」と言われ続けているが拒否している。出来る限り家で面倒を見よう、と雪葉と二人で決めているからだ。


 平日の朝から夕方は、介護施設に世話になっている。若さ溢れる十七歳と言っても、肉体的にも精神的にも辛いのが正直なところ。じわじわと家計も圧迫してきているのも、頭痛の種となっている。


 そこへ、マリエが登場した。


 父さんの実妹。いわゆる、俺たち兄弟の叔母さんである。


 このお婿さん募集中である三十九歳の女が、年明けくらいから、我が家に出入りしていた。


 肩書きは、都内の大手出版社に務める編集者。


 昨今、雑誌の売れ行きは芳しくないってことで、強化中のデジタルメディアの部門に配属されたばかりらしい。


 親戚縁者の誰も寄り付かないうちに、彼女だけは頻繁にやってきた。平日の夜も二時間ばかりの滞在の間に、洗濯から部屋の片付け、翌日の弁当まで用意してくれる。


 家事を手伝ってくれ、時には温かい食事を出してくれる。となれば、新しい母親を迎えた気になるのも無理はない。雪葉にとっては、だが。


 マリエが来る週末は、雪葉と交代で外出来るようになった。短い時間でも、気晴らしが可能となったのは素直にありがたい。


 と、まあ回想している間に、スマホの画面がカップの横で光った。


 辺りを見渡せば、いるいる。

 見覚えある男が。


 周りをキラキラさせながら、こっちに手を振っている。


「やあ、青葉くん。待った?」


「いんや、全然」


 愛想よく現れたこの男は、扉の向こうで世話になった湯島海斗である。


 濃紺の学ランという珍しい制服が、高貴な存在感を出している気がする。加えて、黒縁の眼鏡が、ここまで似合う男を俺は知らない。


「今日、日曜だろ。学校、休みじゃないの?」


 上着のボタンを外しながら、海斗は苦笑いして言った。


「礼拝の帰り。いつもは私服で行くんだけどさ、今日はちょっと家族の用があってね」


「ふうん。お前、クリスチャンだっけ?」


 海斗は脱いだ上着をソファに引っ掛け、白い長袖のシャツ姿になった。シャツの一番上のボタンを外しながら、ソファに腰掛けるまでの所作は自然で無駄がない。


「正しくはプロテスタント。うちは代々そうだから、半ば強制的なんだよね」


 この苦笑いは、少し自虐的に見えた。


 だが、そこは敢えて突っ込んで聞いたりはしない。そもそも、プロテスタントの教義において、海斗のような男は許されているのだろうか。


 というような、ゲスな疑問は興味本位でしかなく、俺にとってみればどうでもいい。それよりも、クソダサいはずの私服をまたしても見ることが叶わず、少々肩を落としている。


「すぐ分かった? この場所」


「ぜんっぜん。スマホ見ながらでも迷ったぞ」


「いいじゃん。半年ぶりの再会なんだから」


 海斗に文句を垂れる資格が、俺にはないことをすっかり失念していた。


 例の扉から戻ったら、すぐに連絡する約束をしていた。それが、半年も待たせてしまうという結果に。


 即レスで海斗から返事が届いた時、懐かしいのと嬉しいのとがごちゃ混ぜになって、真っ暗な部屋の中で俺は声を上げて喜んだ。


 心のどこかで、あの出来事は夢か何かじゃなかろうか、と手紙に書かれたメールアドレスに連絡するべきか悩んだくらいだ。


 現実だと分かった時は、自分が想像していたより遥かに興奮した。


 横浜に住んでいる海斗は、東横線で一本、という理由で、渋谷で待ち合わせることになって今に至る。


 てっきり、海斗は広尾あたりの東京都民だとばかり、勝手に思っていた。


「遅くなって悪かったな。連絡……しようとは思ってたんだけどさ……」


「いいよ。家の話は聞いてたから。元気そうじゃん」


 本当、いいヤツ。


 海斗はそう言いながら、他のテーブルで片付けをしている、スラッとした男の店員を目で追っている。


 タイプなのか、と変な勘ぐりをしてしまったことは秘密だ。


 店員がテーブルから顔を上げた時、海斗はスッと片手を上げた。やっぱり何も言わず、スタッフの方を見たままだ。


 互いに目が合ったかと思うと、海斗がにっこりと微笑んだ。


「少々お待ちください」と店員も爽やかに応えた。


 なるほど、そういうことね。単純な俺は、海斗のこなれた感じがカッコよく見えた。


 話が逸れてしまった。今日は何も、よもやま話をするために、集まっているわけではない。


「なあ」


 メニューを開きながら、海斗がきょとんとした顔を上げた。


「なに?」


「今日さ」


 さっきの店員の男が近づいてきた。


「青葉くん、お昼は?」


「んー……俺はいいや」


 こんな高価なランチを食するほどの余裕は、今の俺にはない。雪葉の高校受験も、その先には大学だってある。


 海斗はメニューを閉じて、店員の男を見上げて言った。


「じゃあ、コーヒーで」


 今までも、贅沢をしていたとは思わない。でも、これっぽちの金も出せないとは、少し惨めな気分になってくる。


「どうかした?」


 注文を終えた海斗はメニューをテーブルの端っこに戻しながら、心配そうに俺を見ている。そうだ、こいつは察しがいい男だった。


「いや別に。ところで、もう一人、来るって話だったけど」


「来るよ。三十分後にね」


「なんで三十分?」


「久しぶりだし、ちょっと昔話もいいかなぁ、と思ってね」


「昔話って言ったって、あれ、半年くらい前だろ」


「青葉くんの時間軸だと、そうなるのか。僕は戻ってきて、三年が過ぎたからさ、ずいぶん待った感じがするよ」


 アイタタタタ、そりゃ、悪かったな。

 チクリと刺された気分。


「そうか……失踪した時点の日時に戻ってくるんだったな」


 上目遣いで海斗を見れば、何食わぬ顔でカップを持ち上げ、コーヒーを飲んでいる。


 眼鏡の奥にある大きな目は、まだ据わっていないから大丈夫だろう。


「そうそう、学級員に安井くんって、いたじゃん?」


「お、懐かしい名前でたね」


 旧友の名前に、自然と笑いがこぼれる。


「描いてくれた似顔絵、まだ持ってる?」


「……持ってるよ」


「僕はね、額に入れて部屋に飾ってるよ。双子に見せたらさ、俺たちも描いて欲しい、って言われて困ったよ」


 実物の三倍増しでカッコ良く描いてもらったが、苦い感情がそのまま映し出されていて、見るに忍びない。


「俺は……勉強机の中にしまってある、かな」


「また、描いてもらいたいね」


 意味ありげに、海斗は口元に笑みを浮かべた。


「お待たせしました」


 と、そこへコーヒーが運ばれてきた。


 海斗は即座に「ミルクだけで」と砂糖を店員に断った。


 コーヒーに少しばかりのミルクを浮かべながら、


「今更だけど、やっぱ不思議だよね」と海斗は、ほくそ笑む。


「な? 未だにアレはなんだったんだろう、って思うよ。夢だったのかなぁ、って」


「夢じゃないさ。知り合うはずのない僕らが、今ここで会ってるわけじゃん」


「だよな」


 忘れそうになるが、向かいでコーヒーを優雅に飲んでいる男と会ったのは、この世界じゃなかった。


 まあ、色々あったけど楽しかった。その中でも、面白かったのはアレだ。


「海斗、覚えてる?」


「なにを?」


「マイベストテープ。俺の黒歴史の一つとなった、アレですよ」


 思い出したら気恥ずかしさも手伝い、つい声を出して笑った。


 テーマはラブ。どうかしてたのかもな、俺。


「そんなに笑うことないじゃん」


 真剣に手伝った海斗からすれば、俺の笑い声は不愉快らしい。


「もしかして、まだ作ってる?」


「ううん、カセットテープを再生できるオーディオを持ってないし。でもね、レコードは集めてるよ。ちょっとずつね」


「お前、やっぱ洒落てんなぁ」


「馬鹿にしてる?」


 俺は顔の前で、手をひらひらさせる。


「してない、してない」


 カセットテープのA面、B面に曲が収まり切れなくて、曲順をそれぞれに振り分けるのに、かなり苦労したことも良い思い出だ。


「あのコンポ、欲しいんだよなぁ。ネットで検索すれば、中古であるっちゃあるんだけど、結構すんのよ」


 音の波がうねり、蛍光色の光となって走るエコライザー。全体的にメカメカしているのが、これまた実にカッコよかった。


「だろうね。現代のオーパーツみたいなもんじゃない? あのコンポは僕も欲しい」


 数少ない同士を前に、海斗が嬉しそうに頷いている。


 残り僅かなコーヒーカップの中を覗きながら、そろそろかな、と思った。


「ずっと気になってたんだけど、メールに書いてあったこと……あれ、マジな話?」


 真意を探るべき、余裕を蓄えた海斗の目を覗き込む。


「おおマジですよ」


 真剣そうに呟く海斗の目尻には、薄らと笑いが見える。


「どこでもドアじゃあるまいし、そう簡単に行き来できるとは思えないんだけど」


「それがさ、そうでもないんだよねぇ」


 そう言って、海斗は黒縁眼鏡のブリッジを指先で上げながら、レンズの奥で微笑んだ。

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