第31話 朝食 / エピローグ

 桃子と海斗と学校に別れを告げ、最後にじいさんの家に戻ってきた。帰宅したら、まず、詰襟を脱ぎ、父さんに買ってもらった、あの私立のブレザーに着替えなきゃならん。


 最早もはや、懐かしさしか感じない、錆びた黒い小さな門と古民家のような味のある家。しばらくの間、俺はまるで夢でも見ているように、漠然と見ていた。


 また遊びに来れたらいいのだが。


「ただいまー」


 玄関で靴を脱いでいると、居間の方からテレビの音が聞こえてきた。


 歩くとキシキシなる古い廊下を進み、居間に入ってみると、帰宅時間が分かっていたかのように、こたつの上に朝食が並んでいる。


 ご飯もほかほかしている。着替えは後回しだな。


 詰襟のボタンを外しながら「ごめん、ちょっと遅くなった」と定位置に腰を下ろした。


 こたつに入ると、じいさんがニコニコして言った。


「外は寒かったろう?」


 詰襟を傍らに置いて、美味そうな朝食に口元がにんまりする。


 白いご飯、ワカメと豆腐の味噌汁、甘めの卵焼き、焼き海苔、そして特別に一品、焼き鮭がついている。なかなか豪勢じゃないか。


「そうでもないよ。なんとなく春が来ている、って感じした」


「そう。じゃあ、冷めないうちに、おあがり」


「いただきます」

 

 朝のテレビ番組を流しながら、二人は黙々と箸をつけていた。俺は飯を頬張りながら、チラチラとじいさんを見ていた。


 一緒に食べる朝飯も、これが最後だ。これから、じいさんはまた一人になると思うと、少し心配ではある。


「じいさん、質問」


「ん?」


 じいさんは答えたついでに、箸からポロっとご飯粒をテーブルに落として、ふふふ、と笑った。


「このテレビに出てる人たちって、俺の世界にもいるんだけど……どういうこと? まあ、今更、知ってどうなるって話じゃないけど」


「さあてね。私たちが見たいものを見てるだけじゃないの?」


 最後まで、よく分からない世界である。次の質問に移る。


「前に断られてるから、なんだけどさ」


「何? とりあえず言ってみれば?」


 俺は箸を置いて、じいさんに出来る限り真面目な顔を作って聞いた。


「名前、教えてよ」


 じいさんは、ふふふと笑い、いつもの言葉を口にする前に、俺が先に言ってやった。


「内緒、だろ」


 じいさんは、クックックと笑った。


「私の決まり文句をとらないでよね」


 そう言ってほくそ笑むじいさんを、俺は呆れた顔で続ける。


「もう。そういうのいいから、名前くらい教えろよ」


「いいの、いいの。私は空っぽだから名無しでいいんだよ」


「なんだよ、そのデフォルトは……」


 じいさんは穏やかに微笑んで、湯飲みを持ち上げた。自分の分は、いつも水を足して、少しぬるめにしている。


「じいさん、俺さ、まだ言ってなかったんだけど」


 ここしかないと、ギリギリのタイミングで話し始めたのに、じいさんが俺の肩をポンポンと叩いた。


「うんうん、良いよ、何も言わないで。どうせ、忘れちゃうんだから」


 達観していると言えば聞こえはいいが、じいさんのこういう感じは、どうも聞いていて胸が苦しくなる。


 結局、このじいさんが隠している日記は読ませてもらえず、何故ここにいるのか理由は分からないままだ。


 桃子のように決意をして残る者もいれば、じいさんのように見えない過去に縛られたまま別人になって居座っている者もいる。


「分かった」


 俺は無性に込み上げてくるものに負けないよう、並べられた食事をかっ食らった。


 それから部屋に戻り、元の制服に袖を通していると、久しぶりのブレザーの方がしっくりくるのを感じた。


 部屋は学校へ行く前に、掃除を済ませておいた。


 立つ鳥、跡をなんちゃらだ。


 世話になった部屋を見渡してから、俺は自分の鞄を持って廊下に出る。居間を覗いたが、じいさんがいない。


 台所の方から、優しい洗い物の音が聞こえてきた。


 背中を丸めて、丁寧にゆっくりと、皿を洗うじいさんに声を掛ける。


「最後くらい、俺にやらせてよ。置きっ放しにしてたのは俺だからさ」


 手伝おうとブレザーを脱ごうとしたら、じいさんが俺に振り返ると微笑んだ。


「ふふふ、早くお帰り。みんな待っているよ」


 穏やかな声だったが、有無を言わさない力を感じて「分かった」としか言えず、脱ぎかけたブレザーを着直した。


 台所を離れようとした時、俺は立ち止まり、水道から流れる水の音を聞きながら言った。


「じいさん、体に気をつけろよ。戸締りも、ちゃんとしろよ」


 期待を裏切らない笑顔で、じいさんが振り返った。


「はい、ありがとう。元気でね」


 じいさんはそう言って笑うと、また俺に背を向け、カチャカチャと音を立てながら洗い物を始めた。


「ありがとうございました」


 うるっと来る気持ちをこらえ、じいさんの背中に深々と頭を下げた。


 じいさんと別れをした後、一人でまた居間に戻ってきた。こたつがある和室に不似合いな洋物の扉。


 通学バッグである黒いリュックを背負った。元々、中に入っていたのは、飲みかけのペットボトルとペンケースと何でもノートくらい。


 今は、もうちょっと良いものが入っている。


 まず、安井から書いてもらった俺の似顔絵。気を使ってくれたのか、だいぶん男前に描いてくれていた。


 偶然かは分からないが、ヤツの描いた俺の顔は眉間にシワを寄せた、苦しそうな顔をしている。安井の描く絵は、彼の目を通した、その人物の本質なのか、と思ったり。


 また会う機会があれば、今度はもう少し柔らかい表情の似顔絵にしてもらおう。


 それから、海斗が作ってくれたマイベスト テープ。記憶の混在に苦しんだ彼が、この世界で没頭したのは音楽だった。


 頭を空っぽにするための、没入感ある音楽収集。それって禅の世界なんじゃないの、 と言ってやるのを忘れたので、今度、会ったら言おうと思う。


 桃子からは香水。父さんが若い頃から愛用していたものと同じだなんて、偶然にしては出来過ぎだ。これからは、この香りを嗅ぐたびに、彼女のことを思い出すことになりそうだ。


 今度、今度って、次はあるんだろうか。


 この扉を開けて、帰ってみれば何か分かるだろう。


 両手で威勢良く、頬を何度か叩いた。


「よっしゃ! 俺は帰るぞ!」


 かつては開かずの扉だった、このおかしな入り口の前に立つと、いささか緊張をぬぐえない。


 登校初日の自分が頭に浮かんできて、ちょっとだけ吹いた。


「開き戸はノブを握って、手前に引けば開くんだよな、先生」


 冷たい真鍮しんちゅうのドアノブに手を伸ばし、呼吸を整えるまで静かに待った。これが最後だ。お別れだ、と胸中で呟きながら、ドアノブを握る手に力が入る。


 両瞼をぎゅっと閉じた。


 俺は父さんと雪葉ゆきはに会いたい。

 どうあっても、俺は絶対に戻るんだ。


 そう望むだけでよかった。

 扉は開いた。








~~~~~~~~~~~~


「ただいまー!」


 隣の家まで聞こえそうなほど大声で叫んだ。


 玄関口で振り返ってみれば、くだを巻きながら帰宅した、あの日の夜空が見えた。


 家もある。空も同じだ。


 学校から家に帰るだけで、二ヶ月もかかってしまうとは。遠回りにもほどがある。そして、ブレザーのポケットをポンポンと叩いた。


「あいつの方こそ、俺のこと忘れてなきゃいいけど」


 廊下から、スリッパのパタパタする音が近づいてくる。弟の雪葉が、エプロンの前で両手の水気を拭きながら、目をまん丸して現れた。


「お帰り、兄ちゃん」


 俺は帰ってきた。


 二ヶ月ぶりの対面で、もっと懐かしく感じるものだと予想していたが、弟のエプロン姿も何もかも、当たり前の日常そのものだった。


 あの世界は俺が見た夢なのか、それとも今が王様の見ている夢なのか。ただ、世界が馴染むというより、ここが俺の世界だと思わずにいられない。


 自らが望んで帰ってきたことに、意味がある。


「雪葉」


「どうしたの? そんな大声出して。びっくりするじゃないか」


 母さんの面影を残す雪葉の顔と、慣れ親しんだ家の匂いが、今になって胸を締め上げてくる。苦しさに首をうなだれ、震える声で呟くように言った。


「ごめん。本当に、ごめん……」


「泣いてるの?」


「泣いてないよ。嬉しいんだ。父さんは?」


 俺の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったのか、苦笑する兄を雪葉は小さく口を開けて驚いていた。


「寝てるよ。もう少ししたら、ご飯を食べさせなきゃ」


「そうか。俺がするよ」


「本当? お願いしていい? 僕、明日のお弁当の用意もしたいから」


「ああ。これからは俺もちゃんと家のことするから、色々教えてくれよ」


 別人でも見るように俺を見る雪葉を見れば、自分がどれだけ放蕩していたかよく分かる。


 それから、夢の中で見た小さな弟がそうしたように、雪葉は俺の手を引いて、父さんが横たわる部屋へと連れていった。


 ほとんど触ったことのなかった、このドアノブに手を掛ける。ガチャと音を立て、そっと扉が開いた。


 薄暗い部屋の中に、物言わない父さんの寝息が聞こえる。


 届かないかもしれない。


 それでも、言葉を掛けずにいられなかった。


「ただいま、父さん。俺、帰ってきたよ」


 星青葉、十七歳。

 高二の冬が終わる。

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