第30話 鏡の国

「じいさーん」


 玄関から俺が叫ぶと、建て付けの悪い襖のガタガタ、という音がした。少し待っていると、居間の方から、じいさんがよたよたと廊下を歩いてくる。


「こんなに朝早くから、どこに行くの?」


 相変わらず、すっとぼけたじいさんだ。見ているだけで、クスっと笑いたくなる。もう一人の、俺のじいちゃんだ。


 長い時間をかけて、自分の記憶と引き換えに、それなりに人生を謳歌しているのなら、俺からは何も言えない。


「俺、学校に行くけど……すぐに戻ってくるから」


「ふうん、そうなの?」


 じいさんは、俺が早朝に出かける理由を聞いてこない。


 玄関の引き戸の前で、俺は足を止めた。肩越しに振り向くと、じいさんが足元をふらつかせながら、玄関の方へゆっくり歩いてきている。


 今日が最後だということを、まだ話していない。映画から戻ってきて、夕食の時に話そうと思ったが、笑った顔を見ると言い出せずに、今に至る。


「まあ……なんだ。戻ったら、一緒に朝飯でもどうよ」


 じいさんは廊下の途中で立ち止まり、嬉しそうに頷いた。


「はい、用意しておくよ。後でね」


 じいさんは、その場で手を振った。


 詰襟に学院指定の黒のコートを羽織り「行ってきます」と言って、俺は玄関の外に飛び出た。


 奇妙な世界で過ごした期間は、まだ二ヶ月目に入ったばかり。そこまで長く居た訳ではないが、濃密な時間を過ごしたと感じている。


 今頃は、桃子が、自習室で美術書を開いているのだろう。


 片手をコートのポケットに突っ込んで、少し足早に住宅地を抜けていく。春にはまだ早いはずなのに、顔に吹き付ける今朝の風はなまぬるくて、なんだか変な感じだ。


 児童公園までやってくると、少しだけ立ち止まった。木立に囲まれた公園を、色んな思い出を重ねながら遠目に眺めてみる。


 時間が早すぎて、犬の散歩に来ている人が見えるくらいで、さすがに子供達はいない。


 どうしたって目に入る、公園の入り口の電話ボックスには笑いしか出ない。生まれて初めて公衆電話を使ったのが、あのボックスの中だった。


 そう言えば、あの時に公園で寝そべっていた野良犬は、共に暮らす仲間を見つけたのだろうか。


 他にも色んなことを思い出す。死んだわけでもないのに、まさに走馬灯のように、頭の中にぽんぽん浮かんでくる。


 自転車をかっ飛ばしてペダルを漕いでいる時、桃子の家に電話する緊張感と正体不明の高揚感に震えた。あれは、アドレナリンと言われるものではないか、と勝手に思っている。


 電話口に家族が出てきて、桃子への取次を拒否られたことには愕然としたっけ。


 夜に紛れて、こっそり桃子を迎えに行ったこともあった。公園のトンネルの中で体を寄せ合い、凍えながら笑った時間も楽しすぎた。


 ほんの少し前のことなのに、もう何年も昔の出来事のように思えてしまうことが、余計に感傷的な気持ちにさせる。


 好きだ。

 好きだ。

 好きだ。


 浮かんでくる言葉はそればかり。


 ぐるぐると、どうしようもなく湧いてくる、全ては手に入れられないし、これがベストな選択かどうかなんてことも、今の俺には分からない。


 微妙に踏ん切りのつかない自分に苛立ちを覚えながら、公園を離れ、学校までの長い坂道を歩き始めた。


 校門まで来てみると、当然ながら、生徒も誰もいない。この世界には、俺しかいないんじゃないかと錯覚しそうなくらい、今朝はやたらと静かである。

 

 ゆっくりと校庭を突っ切って、人影のない校舎に足を踏み入れる。


 いつもの下駄箱を目の前にしながら、やはりここも自分の居場所ではない、と確信めいた何かが、心の中を走っていく。


 それでも桃子の下駄箱に日記を入れる時は、どうしたって緊張する。


「っていうか、今更、誰かに見られたからって問題ないんだけどね」


 と自嘲気味に笑った。


 桃子の下駄箱の中に残したものは二つ。


 一つは桃子への気持ちを綴った、少しキモいかもしれない日記。そして、黒歴史などと茶化してはいたものの、本当は渾身のマイベストを組んだカセットテープ。


 こっぱ恥ずかしくなって、鼻で笑ってから、静かに下駄箱の蓋を閉じた。


「気に入ってくれっかなあ……感想、聞きたかったなあ」


 ついでに、全部、自己満足だなよなあ、と分かっていながら、結局のところ彼女に想いを残していくことになってしまった。


 冷静で穏やかな気持ちでいたはずなのに、気づけば俺はその場にしゃがみ込み、頭を抱えていた。


「あーっ! もうっ! もーもーもーもうっ! もおっおおお!」


 言葉にならない叫びを、ひとしきり発散させ、小休止すると、少しだけ冷静になって立ち上がった。


 会いたくないと言えば嘘になるけれど、自習室には行かないと決めている。


 これ以上、彼女に笑顔を強いるようなことはしたくない。また駅前のように、桃子にあやしてもらうことになりかねん。


 あの義母との関係が努力でなんとかなるとは思えないし、過保護な義兄の桃子への言動も大いに気になる。今後、あの男が気持ちを抑えきれなくなる日が来やしないか、と不安で堪らなくなる。


 でも、彼女は今のこの世界を受け入れ、ここでやっていくという。結局、彼女に何があって、ここへ来たのか聞けなかった。聞きたくなくて、聞かなかった。彼女も俺だからこそ、話したくはなかっただろう。


「なんだかなあ」


 制服まで着て学校に来たものの、すべきことは全て終わった。後は帰宅して、独居老人の朝食につきあうくらいだ。


 向こうに帰ったら、俺がこの学校にいた痕跡は消えてしまうのだろうか。消えてしまったら、桃子も俺のことを忘れてしまうのかもしれない。


 あの日記の中だけに、俺の存在が残ることは彼女にとって良かったのか、と色々考えると、足取りが重くなっていく。


 答えの出ないことを考えるのはよそう。


「よし、帰るか」


 桜光学院の校舎を背にして、校門に向かって歩き始めると、誰か立っているのが分かった。すらっとした、遠目からでも雰囲気でイケメンを主張している学生が。


 俺の隣の席で、頭脳明晰な黒縁眼鏡の湯島海斗だ。同じ黒いコートを羽織っているが、にわか仕込みの俺よりも、様になっている。


 海斗が笑顔で、ひょいっと右手を上げた。


「青葉くん」


 なんだか今まで以上に、爽やかな風を纏っている気がする。


「よう。登校には、まだ早いんじゃないか?」


 海斗は気恥ずかしそうに言った。


「話しとこうと思って、来てみたんだ」


「へえ、なに?」


 海斗はうつむき、足元の小石を軽く蹴った。


「決めたよ」


 そう言って、上げた海斗の顔には、一切の迷いも憂いも吹き飛んだような、彼本来が持つ眩しいほどの笑顔が輝いていた。


「どうすんの?」


「僕も帰ることにした」


 短い言葉のやりとりの中で、お互い色々と思うところがあり、次の言葉を探すように、少しだけ沈黙を選んだ。


 小さく咳払いをして、最初に海斗が口を開く。


「色々、ありがとう、青葉くん」


「いやいや、それは俺の方だって。帰るヒントをくれたのは、お前と桃子だ。本人を前に口にするのは恥ずかしいんだけど……俺はすごく感謝してる」


 うつむきがちに照れくさそうに笑うと、海斗は言った。


「僕には、能天気な両親と少し鬱陶しい双子の兄がいるんだけど、凄く良い家族なんだ。もし、本当の自分を知られたら、嫌われてしまうんじゃないか、と……ずっと怖かった。でも、決心がついたのは青葉くんのおかげだから」


 海斗や桃子がくれたような、眼が覚めるような助言も、アドバイスも俺は何もしていない。


 身に覚えのない謝意に驚いて、自分を自分で指差した。


「え、俺?」


 海斗は満面の笑みで、ゆっくりと頷いた。困惑する俺を真っ直ぐと見ながら、海斗は言葉を継いだ。


「そうだよ。僕の話を聞いた後も、何も変わらずにいてくれたよね。それが、どれだけ僕に勇気をくれたか。この世界で、たった一人でも、本当の自分を知っている人がいる、友達がいる、そう思うと、僕は救われた気がした」


 おい、少しは薄暗い部分を残しておけよ。今まで欠けていたピースが戻って、完璧に近い状態になっているではないか。


 やはりダサい私服に、期待するしかなさそうだ。


「頭がいいヤツは大変だな。色々考えてさ。俺も感謝してるから、フィフティフィフティってことで」


「そうだね」


 海斗はちょっと笑って、次の話を始めた。


「それでね? これから戻った時のことなんだけど、どうなっているか分からないよね」


 確かに、今から戻ったとして、家はどうなっている? そう言えば、そんなこと全く思いもよらなかった。

 

 俺は尊敬の眼差しで、海斗の談話に耳を澄ました。


「僕らが姿を消した後、向こうで時間が経過しているのか、それとも、消えた時点の日時に戻っているのか。もし、後者であれば、同時に戻っても、僕は青葉くんの出現を三年間、待つことになるはず」


 海斗は制服のポケットから白い封筒を取り出すと、俺の胸に押し付けてきた。


「それで、これを書いてきたんだ」


「もしかしてラブレター?」


 いや、そんなに目を細めて、嫌な顔をしなくても。


「――連絡先だから」


 声が少し怒っている。


「そ、それは助かる。ここに連絡すればいいんだな」


「そう。互いのことを忘れていることも想定して、念のために、この世界であった出来事を書いておいたから。家に帰ったら、忘れずに読んで。家があるか分からないけど」


 その割に、海斗は嬉しそうに笑った。


「OK。必ず連絡する。なあ、ここでは記憶が上書きされる世界だけど、それは忘れたい記憶がある人間が来るからだろ?」


「みたいだね」


「つまり、俺たちが元の世界に戻っても、ここでの記憶は失わないんじゃないか? だって、ここは本当の世界じゃないんだろ? 夢だとは言わないけど」


 海斗はクスっと笑って、肩をすくめた。


「それはどうだろうね。青葉くんは、鏡の国のアリスって読んだことある?」


「ない」


 きっぱりと言った。不思議の国のアリスなら、読んだことはないが、おおよその内容は分かる。幼女が怪しい兎について行って、異世界で冒険する話のはずだ。


 何故だか、海斗は嬉しそうだ。


「物語のラストにね、鏡の国の王様がアリスに言うんだ」


「なんて?」


「俺が見ている夢の世界こそ、お前の世界だ、って。アリスは否定する。自分の家族や思い出こそがリアルだと、王様に言い張るんだけどね。さて、どっちが本物の世界でしょうか? っていう話」


「ホラーだな」


 最後に海斗が意味深な絵本の話をした後、再会を誓い合った。


「じゃ、また向こうで」


 海斗が手を振り、先に校門を出て行った。


「ああ、またな、連絡する」


 俺も手を振り、海斗の背中を見送った。


 こうして、俺たちは放課後に帰宅する時のように、あっさりと別れ、それぞれの家路についた。

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