第29話 赤いコート
遂に約束の日、来たる。
自転車も駐輪場に停めてきた。
今日の上着も着ているし、なんと言っても、予告どおり十分前に、駅のロータリー横を歩いている。
ここからは少し見にくいが、駅の建物の一番上に鎮座するシチズンの時計は、午前十時五十分を指していた。
揚々とした気分のはずが、最後のデートだと思うと、鬱々とした気持ちが頭をもたげてくる。
いつ、切り出そうか。言わない、とい手もありなのか。どうせ、今日の日のことも、桃子は忘れてしまうのだろう。
「考えすぎはダメだ。今日は、純粋に楽しくをモットーに笑顔で過ごすべし!」
少し大きめの独り言で、誓いを立てた。
前回は叶わなかった映画の後に、テーブルを挟んで評論会したり、食事をするんだ、と思い描いてきた時間を想像しながら俺は歩いた。
まだ、桃子は来ていない。
日曜日に出かける人たちの渦中に一人で待っていると、たった三分でも、俺は不安を感じている。
桃子は三時間も一人で待っていたのかと思うと、改めて自分の不甲斐なさに気が滅入るってものだ。
ダウンジャケットのポケットに、手を突っ込んで待っている間、桃子に渡すためのカセットテープをもてあそんでいた。
俺はまだ、これをどう扱うべきか、決め兼ねている。
この世界は、飛行機や電車で来れる場所ではない。都合よく、あの扉を開けて会いに来れる保証もない。
思い入れたっぷりのマイベストを、桃子に渡すことに意味はあるのか。そんなものを残して別れていいのか。
混濁した思考の中、待つこと五分。
赤いコートを着た桃子が手を振りながら、噴水越しに見えた。地から吹き出してくる水を避けながら、桃子が駆け寄ってくる。
さっきまでの
「青葉くん、早いね!」
「言ったろ、十分前には着いてるって。有言実行するんだよ、俺は」
よし、ここから、ここから。
顔を見合わせると、遂にここまで来たか、という謎の感動に浸りながら、三秒ほど感慨深げに見つめ合ってしまった。
可愛い女の子と、にらめっこは得意ではないので、俺から切り出す。
「じゃあ、今日は楽しむ、ってことで……行こっか」
「うん」
隣町へ向かう電車の乗車券を買うために、販売機へ歩き始めた。
販売機の下の方にある子供料金のボタンには、カバーがついている。押し間違いを防ぐためなんだろう。乗車券の買い方は、俺が知っているそれと全く同じだ。
財布に小銭を戻している中、何やら聞こえてきた。音の方へ振り向くと、改札の中で駅員が何か動かしている。
片手に裁縫用のような鉄の
自動改札ではない、ということか。
桃子を先に改札に入るよう促し、俺は彼女の後をついていくようにした。
楽勝だった。
駅員に切符を渡せばいいってことね。あの
桃子が改札を通り過ぎた後、俺は当たり前のような顔をして、さりげなく駅員に切符を渡す。
すると、無駄のない迅速な動きで、チケットを差し出した場所に、
プロだな。
ちょっと感動している。
電車に乗るだけで既に楽しくなってきた俺は、期待に胸を踊らせたまま電車でGOだ。
今日の映画のセレクト担当は桃子。映画にはちょっとうるさいらしく「任せておいて」と色々と調べてくれたらしい。それも新聞や雑誌で。
ネットがあれば、検索も予約も一発なんだが。
俺たちは上映時間の三十分前には、館内に入ることにしている。ロビーで待つらしい。
隣町の駅に着くと、歩いて十分くらいの場所にある、その街で一番大きな映画館に向かっていた。
「昨日の夜ね、何がいいかなあ、って雑誌で調べたんだ。でね……」
桃子はうつむき、なんだか言いづらそうだ。
「デートだし……」
「うん。デートだし? で、何にしたの?」
桃子は首をかしげる。
「恋愛ものとか、感動できるお話がいいかなぁ、とも思ったんだけど……」
「いいよ、桃子が見たい映画を俺は見たいんだから」
ドヤ顔で上手いことを言ったつもりだったが、言い終わってから俺は気づいた。
さらっと『桃子』、と呼び捨てにしてしまったことを。どうやら浮かれて、気が緩んでいたようだ。
実際は本人がいないところでは、散々『桃子』呼ばわりしていたが。果たして。
「そ、そうなの? あ、じゃあ、ホラーでもいいかな?」
ホラーでもなんでもOKだよ。
っていうか、あれ、気づいてない?
若干、本人にも動揺が見られる。俺の勘違いでなければ、この流れは、公認で呼び捨てOK、と考えてよさそうだ。
だが、念には念を入れて、この許諾は確実なものとしたい。今度は意識して、名前を呼んでみる。
「いいんじゃないかな。うん。そっかぁ。ホラーが好きなんだ……も、桃子はぁ」
ちらっと横目で彼女を見てみると、頬を赤らめ照れている。これはOKというお達しだと、俺はありがたく受け取ることにした。
そこから映画館までは、無言で歩いたことは言うまでもない。
ありがたく頂いたところで、公認の名前呼びのハードルが高すぎて、返って話しづらくなってしまったという。
冗談はさておき。
デジタルネイティブな俺が、合理性皆無のアナログな世界で恋愛するのは面倒だし疲れるしで、溜息もいっぱいついた。
自分の足で会いに行くか、親や兄弟を巻き込んでも家に電話するか。なんにしろ、直接、会わなければ、物事が何も進まないのだから。すれ違ってしまえば、先日の大遅刻のように、相手を何時間も外で待たせる羽目になる。
誰がどこにいるかなんて、すぐには判明しない世界。たった一言を伝えるためだけに、物理的、時間的ハードルを越えなければいけない。
目の前にいるその時を逃してしまったら、次に同じチャンスがやってくるとは限らない。
ただ、好きな子を想う時のトキメキ、時に感じる不安や焦燥は、どこであろうとも変わらないのだと思う。
こうやって暗い映画館のシートに肩を並べて座っている時、肘当てに乗せた手がぶつかって、離れたり、また近づいたり。
思い切って、その手を握ったりも
今、俺の目に映っている映像が、頭のおかしい殺人鬼が享楽的に
映画を観終わった後だってそうだ。
二人はカフェに行き、俺はコーヒーを彼女は紅茶を頼み、先ほどのグロい映画を熱く語る、清廉で可愛らしい彼女を、俺は興奮気味に、うんうんと前のめりに聞くのも同じだ。
食事の時だってそうだ。
ファーストフードやカフェじゃない、ちょっとしたレストランに二人で入る時の緊張感や、実は彼女は玉ねぎが嫌いで、選んだ料理に入った玉ねぎを俺の皿に移してくる幼さも全部、好きだ。
きっと俺はどの世界で彼女と出会っても、やっぱり好きになってしまうだろう。
桃子と俺は先のことは何も考えずに、今の時間を心置き無く楽しんだが、そろそろお別れの時間が来てしまった。あまり遅くなると怖いお兄さんが現れるので、夕暮れ時の駅前で、さよならすることになった。
まだまだ一緒にいたい気持ちはある。でも、そうもいかないのが現実だ。俺はともかく、この世界で上手くやっていこうと努力している桃子に無理はさせられない。
家まで送っていくと言ったが、桃子は首を横に振るだけ。
なんだかなあ、と薄らぼんやり考えていると、桃子の背後で光を放ちながら、弧を描く噴水と赤いコートが、鮮烈に俺の目に飛び込んできた。
並んで歩いていた桃子が俺の前に回り込み、少しはにかみながら目の前に立っている。
もうこれが最後です、と言わんばかりの空気に飲み込まれそうだ。というか、もうこれが最後なのか、とここに来て、俺はやっと自覚する。
家に戻る、と決めた俺の覚悟もある。それはどうしたって変わらない。
変わらないのだが、目の前には、精一杯の笑顔を見せようとしている桃子がいる。
焦点が定まらない俺と目が合うと、桃子はうつむき「今日はありがとう。すごく」と呟いた。
そして「楽しかったね」と言って顔を上げた時、周囲の喧騒も人並みも全て、一瞬で俺の視界から消えた。
瞳いっぱいに溜まった涙が、頬にこぼれないよう、彼女は目を大きく見開いていた。桃子から伝わる強い意思が、痛いほど伝わってきて胸が苦しくなる。
抑えていた言葉が
「一緒に戻らないか? もう一度考え直せないか? 桃子のいた時代じゃないだろうけど、俺の家に来ればいい……絶対に、絶対に俺がどうにかするから!」
分かっている。
彼女が帰りたいと望まない限り、ここから出て行くのは不可能であることを。帰ったとしても、同じ扉から、同じ時代に戻れるのかも分からない。
それでも、心の中で桃子の前で跪き、お願いではなく懇願せずにはいられなかった。
こんな時でも、桃子は笑っている。
「それってプロポーズ?」
笑った桃子の右目から、
そんな顔を見せておいて、これが最後だなんてあんまりじゃないか。桃子の涙が一筋なら、俺は
「いや、もう、分かってるんだ……あーもう! 分かってるんだけどさ! 桃子の覚悟は分かってるんだよ……でもさぁ」
最後の方は、もう独り言に近かった。
諦めの悪い自分に頭を抱え、周囲を顧みず、思うまま騒いでいる自分が誠に恥ずかしい。
「青葉くん、優しいね」
桃子はすでに俺の先を行っていた。
本当に嬉しそうに笑っている。
静かになった俺を苦笑すると、桃子は満面の笑みをもって「はい」と両手を広げた。
俺は吸い込まれるように一歩を踏み出し、赤いコートに包まれた。コートの外側からでも分かる、その柔らかさ。
どうして、ここで流れる時間が現実じゃないと思ったんだろう。夢の一片だとしたら、とても残酷で悲しい夢だ。
胸の辺りから、桃子の震える小さな声が聞こえた。
「元気でね、青葉くん。がんばれ」
彼女の気持ちが伝わってきて、もう泣いては駄目だ、お別れなのだ、と自分に言い聞かせた。
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