第28話 ありがとう
「今日は半ドンかぁ」
空を見上げ、半笑いしながら呟いた。
詰襟のカラーの痛さは、まだ慣れない。
今朝、目が醒めると、
同時に抑え難い望郷の念と、既に追憶の対象となった友人たちへの切なさに、苦くて温かい濁流が胸を突き上げてくる。
人もまばらな時間に校門をくぐることも、日常になりつつあったが、それも間も無く終わりだ。
そんなセンチメンタルな気持ちは置いておき、俺は真っ直ぐに自分の下駄箱へ向かった。
下駄箱を開けると、桃子から日記が入っていた。これを取り出す瞬間だけは、何故だか緊張する。日記を手に取ると、大事に鞄にしまった。
それから、気持ちを整えながら自習室へ向かう。いつものように美術書を開き、絵をぼんやりと見ている桃子に会うために。
行ってみれば、俺が来ることを知っていたように、桃子は本から目線を上げると、朗らかな笑顔をみせて言った。
「青葉くん」
「おはよう、桃子ちゃん」
「おはよう」
今日も、図書館の中は静かだ。
「今日は何を見てんだ?」
桃子の隣に立つと、机に開かれた本を覗き込んだ。こないだ見ていたものとは違う。
「フィレンツェにあるウフィツィ美術館よ。青葉くんも見たことがあると思うんだけど」
「どうかな。俺はそういう知識はからっきしだからなあ」
桃子は大判の美術書をペラペラとめくり、何かを探している。
「ほら、これ」
桃子が指差した絵は、白くて大きな貝殻の上で、胸とあそこを長い金髪で隠した悩ましいビーナスだった。
「おお、知ってるよ。見たことあるわ。これ、ホタテ貝だよね?」
「それそれ。ビーナスの誕生シーン」
「このホタテ貝、でかすぎるだろ」
雰囲気を軽くしようと努力しているのだが、桃子は悟りきったように穏やかで、ただ俺の次の言葉を待っている。
「あのさ」
「うん。なあに」
俺を見上げている桃子の顔を直視できずに、ぷいっと横を向いた。
「あのですね」
ちらっと視線を桃子に戻すと、相変わらずの笑顔を向けている。両目がキラキラして見えて、やっぱり視線を外した。
「ほら……日記にも書いてあったじゃん……映画」
「うん」
「明日の日曜日、とか。どうかなあーと思ったんだけど? 空いてる?」
握った手の中に、嫌な汗が滲んでくる。
「いいよ」
「あ、そう。良かった」
即答に胸をなでおろす。緊張から解き放たれ、顔を緩めると桃子と視線が合った。
俺は肩をすくめて、少し声を張った。
「まあ、こないだのリベンジってことで」
「明日の朝十一時、同じ駅前に集合ね」
「了解」
「今度は三十分待っても現れなかった場合、家に帰って良し、だからね。今度は待たないからね」
三日月みたいに桃子は目を細め、嬉しそうに話してくれるから、免罪符を渡されたようで、俺も嬉しすぎる。
「問題ない。そっちこそ遅れんなよ」
どの口が言う! と自分に胸中でツッコむ。
「どうかなあ。青葉くんは前科があるからなあ。モーニングコール、してあげようか?」
余計に緊張するので、それはお断りする。
「いらないよ。十分前に着いてるってーの」
些細な人の気持ちに気づく彼女なら、このデートの約束がなんであるか、分かっているとしたら――胸がチクリと痛む。でも、素直に桃子を誘えたことは、掛け値無しに嬉しい。
後から後悔したり、言った端から、もやもやするパターンではないからだ。
喉が乾けば水を飲むように、本心と行動に矛盾がないということが、これほど爽快なのかと自分でも驚いている。
要件は済んだ。
俺は片手を上げた。
「じゃ、明日。って、後で、教室で会うけど」
そう言って、俺は笑った。
桃子の満足そうな表情を確認して、俺はくるっと回れ右をした。
そこで、桃子の声がして足を止めた。
「つけてくれたんだ」
速攻で、詰襟や袖口に鼻を近づける。今朝、ほんの少し振りかけただけなのに。顔が赤くなるのを感じながら、ゆっくりと振り返る。
「俺、もしかして……つけすぎ、てる?」
肩越しに見た桃子は、首を横に振った。
「ううん、ふんわりと香ってきたよ。私の好きな匂い」
赤面が止まらない。くぐもった声で、彼女の好意に応える。
「これ、いいよね。うん……俺も気に入ってる……ありがとう」
桃子が俺にこの香水を贈ったのは偶然だが、この香りのおかげで、忘れかけていた記憶が鮮明に蘇ってきた。
海斗の豆知識を借りると、人は最初に声を忘れ、次は顔、最後に思い出を失うらしい。嗅覚だけが、頭にある記憶と感情を直接に繋げる、だそうだ。
「じゃあ、行くね。後で」
と言って、俺は名残惜しい自習室を離れた。
その日、授業前にある短い休憩時間に、ちょっとばかし嬉しい出来事が起こる。
安井の号令の後、すぐに二人して席を立った時、いつも不機嫌そうな、いや最近はそうでもなかったが、前の席に座る安井が、俺と海斗の前に立ちはだかった。
「あーのさ」
「どした?」
急いでいるんだが、とも思ったが、商店街のカフェで見た横顔を思い出して、安井を待つことにした。
なんにしても、安井は緊張からか、目を見開いていて、ちょっと怖い。
「二人に渡したいものが、あるんだよね……ちょっといいかな?」
しかも、なんでそんなに小声なんだよ。
「らしくないぞ、委員長。歯切れが悪いな」
安井は無表情のくせに、少し頬を上気させながら、机の横に掛けていた鞄に手を伸ばした。
大事そうに鞄を胸の前に抱きかかえ、中から二枚のクリアファイルを取り出した。
俺と海斗は、ここで確認した。互いに顔を見合わせ、期待に満ちた目で頷きあう。
安井は渡す決心がつかないのか、黙り込んだまま、なかなか渡そうとしない。
早く見せてくれ! と言いたい気持ちを隠して、肩で息をしている安井に、
「おーい、待ってるんですけどぉ」
安井はうつむいたまま、手を震わせながら、クリアファイルを差し出した。
「じゃあ……これは星。で、こっちは湯島」
予想どおり、安井が描いた俺と海斗の似顔絵だった。安井は、俺たちと顔を合わせようとしない。
「安井、お前……」
俺は早速、クリアファイルから、中の紙を取り出そうとしたが。
「ちょ、ちょっと! い、家に帰ってから……見てよね」
桃子みたいなことを、安井が言っている。可愛くはない。
「いやいや、見るでしょ。って、もう見えてるけどな」
俺と海斗は、安井の気持ちを汲んで、透明のクリアファイル越しに、自分の顔を眺めた。
沈黙が耐えきれなかったのか、安井が低い声で言った。
「い、要らないよね。やっぱり、それ返して」
安井は俺たちの手から取り上げようとしたが、海斗がクリアファイルを胸に抱きしめて放さない。
そして、感謝の気持ちをたっぷりと、両目に宿しながら言った。
「ありがとう安井くん。似顔絵なんて初めて描いてもらったよ。部屋に飾らせてもらうね」
「うん。これは絶対に返さない。やっぱ、お前、上手いよ。ありがとな、安井」
突然の賛美の雨に戸惑いながら、安井がツンデレヒロインみたくなっている。
「大袈裟すぎだよ……別に暇だったから描いただけだし」
とりあえず、安井は嬉しそうに、出した手をそっと引っ込めた。そして、うつむいたまま、ひそひそと胸の内を語り始めるという。
「誰かに自分の絵を見られたのも初めてだったけど……褒めてもらったのも、初めてだったから」
そう感じてくれたことが、俺も嬉しくなった。
「安井、お前さ」
「……な、何?」
まだ、ビクビクしているのは、安井らしいとも言えるが。
「医者にはなれないと思うけど、お前はこっちの才能で頑張れよ」
「ほ、ほっとけ!」
そうこうしている内に、俺たちが手にしているイラストに気づいたクラスの皆が集まってきた。
口々に、俺も描いてくれ、私も、と欲しがり始めた。
「ちょ、ちょ、待ってよ! そんなにすぐ描けるもんじゃないんだからね!」
少し芝居掛かってはいるが、満更でもないようで「順番ね」と言いながら、早速、ノートに希望者の名前を書き始めている。
すでに似顔絵を手に入れた俺と海斗は、高みの見物だ。
「いいねえ。人に幸せを分配できる才能を持ってる人は」
「青葉くんはいつも上手いこと言うよね。それも一つの才能じゃん」
「そうかぁ?」
海斗は眼鏡のブリッジを人差し指ですっと上げながら、ふうぅと小さな溜息をついた。
「そうだよ。僕なんか、見た目くらいしか取り柄ないから」
ギター部屋で見せた、しょんぼりした顔を見るより、その方がずっと良い。コンプレックスなんか鼻で笑ってるくらいのほうが、お前にはちょうどいい。
だから、今日は許してやる。
最高の土産を受け取った後、人のいない場所で話をすることになっていた。
最上階にある音楽室付近まで行くと、誰もいなかったので、廊下を歩きながら話を始めた。
「海斗、俺な」
「うん」
「自分がどうしたいのか、やっと分かったよ。帰りたい、だけじゃなくてさ、帰る理由、っていうか」
「そう。良かったね」
俺はピタッと足を止めた。
すぐに、海斗に向かい合うように回り込み、海斗の制服の袖を引っ張った。
「月曜日の朝、俺は元の世界に戻ることにした。お前、どうする?」
海斗は少し驚いた顔をしたが、やはり他人事のように答えた。
「そっか、方法を見つけたんだ。凄いなあ、青葉くんは」
ドラえもんがいなくても、俺は見つけた。というか、そこに最初からあった。
今朝、学校へ行く支度を終えた後、扉の前に立つまでは、直感でしかなかったが、出来ると確信した。
あの日、じいさんがこたつで蜜柑を食っていた居間に行った。久しぶりに扉のノブに手を置き、ただ引くだけで扉は音も立てずに開いた。
扉の向こう側は見ないようにしたから、家に繋がっているかどうかは分からない。ただ、この気持ちさえ忘れなければ、いつでも扉を開けることができる、という自信が生まれた。
「鍵は、どこにあったと思う?」
海斗の言い方を真似て、俺は、海斗の胸を拳でトントンと叩いた。
「ここだよ。帰りたい理由、あるだろ?」
「びっくりだよ。そんなシンプルな話だったとはね」
「扉が開いた日のこと、覚えているか? 俺はあの日、家の前で、あぁ入りたくねぇな、って思ったままを口にしたんだ」
鉛でも飲み込んだみたいに、重苦しい気持ちが蘇ってくる。
握っていた海斗の袖口を離し、俺は一歩、後ろに下がって続けた。
「本音じゃなかった、なんて自分に言い訳したこともあったけど、それってやっぱり本音だったんだと思う」
海斗は、コクリと頷いた。
「戻るには、心の鍵がいるんだね。詩的に言えば」
と言って、海斗は笑った。
「まあ、そういうこった」
「今は返事できないけど、この週末はレコードでも聴きながら、自分と向き合ってみるよ。どうしたいのか、ちゃんと真面目に考える」
「そうしろ、そうしろ。桃子は戻らない、と言ってたな。お前も、ここに残って新しい家族を受け入れ、人生やり直すっていうにもアリだと思う。でも――」
「でも?」
「東京で、またお前と会えたら俺は嬉しいよ。都内じゃないけど」
海斗が同じ年に来たかどうかは不明だが、そう大差はないはずだ。
「うん、ありがとう」
「よし、これにて、俺の話はおしまい」
俺は海斗の肩を軽く叩き、教室の方へ戻りかけた時、海斗の足が止まった。
「あれ、それって。カルバンクライン?」
「さ、さすがだな。銘柄まで分かるとは恐れ入ったよ」
海斗は、ふっと笑った。
「こっちで流行ってるらしいよ、その香水。緑たちも共同で使ってる」
「たち、って? まだ他にいるのか?」
「うん。緑は長男。次男に
なんでもありかよ。だが、もう関係ない。この世界に『さようなら』するまで、秒読み段階に入っているのだから。
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