第27話 レベル5

 風呂も入った。

 髪も乾かした。

 歯も磨いた。


 今日は濃い一日だった、と思い返しながら、風呂場から部屋に戻ってきた。


 台所で調達してきたオレンジジュースでいっぱいのグラスを机に、トンと置く。


「海斗のヤツ、実は俺のこと、ちょっといいな、とか思ってるのかな? まあ、俺は仲良くなれば、案外良いヤツだしな」


 海斗と並んだ自分を想像する。妄想の中でも、海斗に勝っている部分など、どこにもない。恋愛対象が異性である俺が、ガッカリする必要はない、と自分に言い聞かせる。


「それはないか……あいつ、俺には結構冷たいし」


 まあ、それは良いとして、寝る前に開ける、と決めていたブツが、ここにある。


 景気付けに、グラスの中のオレンジジュースを一気に飲み干した。


 からのグラスを机に置き、そっと、リボンがついた箱を持ち上げた。昼休みの終わりに、突如として渡された桃子からのプレゼントだ。


 嬉しい中に、溜息が出る。


 何故ならば、俺はまだ、海斗の手を借りて完成させた、あの愛をテーマにした恥ずかしいマイベストを、桃子に渡していない。


 お返しには程遠くて、なんだか申し訳ない気持ちになる。まさか、これがお別れの品、ということはないだろうか、としばし悩んだ。


「そんなはずない。あんなに笑顔だったし。よし、開けよう」


 好意は素直に受け取ることにして、リボンの先を引っ張った。箱をひっくり返し、包装紙を留めているテープを、ゆっくりとがしていく。


 なんとなく破ってしまうのは悪い気がして、テープを丁寧に剥がしながら箱を取り出した。


「文鎮かな?」


 そんなわけはないが、箱は小さくとも重量がある。開けてみると、中身は香水のボトルだった。ずいぶんと大人っぽい贈り物に、俺は眉を上げた。


「カ、カルバン……なんちゃら……英語が多いな。っていうか、どっかで見たことあるぞ……これ」


 四角いガラスのボトルに入った香水は、透明感があり緑茶を薄めたような、いやレモン色をしている。アトマイザーの噴射口を顔の近くに持ってくるだけで、ふんわりと香ってきた。


 パジャマに振りかけるわけにもいかず、もったいないが、宙にワンプッシュしてみる。香りの霧がふわっと薄布が落ちてきたみたいに、呼吸をするだけで鼻いっぱいに、新緑の匂いが広がった。


「こりゃ大人の匂いだな」


 この香りを知っている。

 でも思い出せなかった。


 布団に入って目を閉じてからも、部屋の中は残り香が漂っている。明日の朝には消えているのだろうか。じいさんに知られたら、色気付いたと思われるかもしれない。


 それにしても、気になる香りだ。

 これはなんだっけ。


 何も思い出せないまま、ぼんやりと考えている途中で、俺は深い眠りに落ちていた。




 ここは?


 病院の近くにあった公園か? 


 ブランコに乗っているのは、子供の頃の雪葉ゆきはか? 今は中学生のはずの弟が、幼い頃のふっくらした姿をしている。


「おーい、雪葉ーっ!」


 弟の名を呼んだ自分の声に驚いた。

 俺も子供の声だったから。


 泣きそうな顔をして、こっちに駆けてくるのは弟だった。


「兄ちゃん……」


 何故、そんなに悲しそうな顔をする? 


 誰かに苛められたのか? 


 小さな弟が、上目遣いに言った。


「もう帰ろうよ。お外は真っ暗じゃないか」


 小さな雪葉に言われて辺りを見回すと、なるほど、夕暮れも店じまい中だ。公園の外灯がやたらと明るく目に映る。


 雪葉は俺の手を引っ張り、しきりに帰ろうとせがんでくる。


 そうか、これは俺が見ている夢なんだ。


 つないだ手は温かく、リアルで薄気味悪い。


「お母さんは怒ってないよ。だから、もう行こう?」


 何の話をしている? 


「ね? 一緒に病院に戻ろ?」


 病院……ああ、ここは六年生のあの日なのか。


 授業参観の当日、母さんは急に入院することになった。


 みんなの前で作文を読む姿を披露することが叶わず、地団駄じだんだを踏んだ、あの日の幼く浅はかだった俺を思い出す。


 放課後になる直前に、突然、青白い顔をした父さんが一人で現れた。


 なんとなく深刻な状況であることは理解したが、病院に行くタクシーの中で、俺はねて、ふてくされていた。


 誰に? って、病気になった母さんにだ。


 仕方のないことだと分かっていても、やり場のない怒りを、あろうことか病身の母親に向けてしまった。


 自責の念から俺は弟を連れて病室を飛び出し、この公園で悶々としていた。


 どうやら、これはその続きらしい。


 小さな雪葉に手を引かれ、歩き始めたかと思うと、今度は病院の廊下を歩いていた。


 雪葉は病室を見つけると、顔を真っ赤にして、小さな手でガラガラとドアを引いた。


 母さんの顔が見えると、弟は俺の手を放し、はしゃいだ声を上げながら、ベッドにいる母さんの元へ走っていった。


 清潔で掃除の行き届いた病院の個室。真っ白な壁と床に囲まれ、シーツもカーテンも何もかもが白い。


 母さんは俺たちを見て、弱々しく微笑んだ。


「二人で、どこに行ってたの?」


 雪葉は嬉しそうに、母さんの布団に飛びつくと、公園で遊んだことを話し始めた。


「そう。楽しかった?」


 母さんは、じゃれつく弟の頭を撫でながら、入り口で立ち尽くす俺に手招きしている。


 俺は動けなかった。


 夢だと分かっていても、やっぱり動けなかった。


「青葉、今日は行ってあげられなくてごめんね。作文は今度、ここで読んでもらえないかな? 聞きたいな」


 これは夢なのに、当時の感情のまま、本心ではない言葉を病室にぶちまけた。


「いいよ! 一生来なくていい! もう絶対に読んだりしないんだから!」


 その時の母さんの悲しそうに笑った顔を、また夢で見てしまった。こんなのは思い出でもなんでもない。俺からすれば悪夢そのものだ。


 以来、気まずくなった俺は、病室にほとんど顔を出さないまま、月日は経ち、謝る前に母さんは逝ってしまった。


 許しを請うことも、謝ることも出来ない現実に、どれだけ後悔したことか。


 そして、父さんが激しく嗚咽する姿を見た時、俺が死ねばよかったと思った。


 苦しそうな泣き声を上げる父さんが、俺と雪葉を抱き寄せた時、ジャケットから香る香水の匂いは、桃子からもらった香水と同じものだった。


 夢の中でも三人家族の暮らしが始まり、俺は受験生になっていた。


 家の台所。


 俺は何してるんだっけ?


「青葉、どうした? そんなところに突っ立って。晩御飯はチャーハンでもいいか?」


 家事に慣れてきた父さんが、俺たちの夕飯を作っている。


「ああ……なんでもいいよ」


 愛想もクソも無い。

 俺の態度は最悪だ。


 自分のことながら反吐がでる。


 父さんはフライパンを持ったまま、振り返って微笑んだ。


「よし、出来たぞ」


 俺は台所の小さなテーブルに腰を下ろし、出されたチャーハンを黙って見つめ、何かを言おうとしている。


「あのさ、父さん」


 父さんは冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぎながら俺の話を聞いている。


 どこから持って来たのか、俺は右手に丸めて握っていた高校の入学案内をテーブルに置いて、父さんの方へすっと押し出した。


「ここ……受験したいんだけど」


 幼稚園から大学まで一貫教育を受けられる、バカ高い授業料のかかる私立高校。


 そこまで裕福でもない上に、その高校に行かなければいけない明確な理由もないのにだ。ほとんど虚栄心と、思いつきでしかなかったように思う。


 父さんは困った顔をするだろう。


 一瞬、父さんは、冷蔵庫の戸を閉める手が止まったが、すぐにパタンと閉じると、麦茶の入ったグラスを俺の前にトンと置いた。


「いいんじゃないか。合格するといいな。頑張れ、青葉」


 まさか快諾されるとは思っていなかった俺は、ああ、とだけ短く返事した。


 チャーハンは美味かった。

 その後も、悪夢は続いた。


 俺の粗悪な言動が繰り返される様子を、次から次へと見せられる。こんな夢を見なくても、分かっているんだ、と叫びたいが声が出ない。


 俺は、とんだ親不孝者だ。

 後悔している。

 何故、優しくできなかったのか。


 もっと一緒に出かけたり、笑いあえたり、話をしたり、そんな簡単なことが、どうしてできなかったのか。


 父さんは、美術に造詣が深く手先も器用で、物静かな人だった。憎んでいたわけでも、嫌いだったわけでもない。むしろ、勤勉で真面目で優しい父が好きだったはずだ。


 何が原因で、俺を狂わせてしまったのか。


 母さんに対する自責の念に絡め取られ、俺は家族の前で笑えなくなった時からかもしれない。


 父さんの言動がおかしくなり始めた頃、病気だとは分からなかった。父さんが失態をするたびに、「何やってんだよ!」と俺は怒鳴ってばかりだったように思う。


 この奇妙な世界に来る、ほんの一、二年前のことだ。


 父さんの頭の回路が壊れ始めていることに、俺も雪葉も気づかず、その間に症状は異常なスピードで進行していた。


 それは聞き慣れない、国指定の難病だった。


 重症度は最高レベルの5だと分かった時には、父さんは自立歩行も難しくなり、表情も言葉も失い、まるで無口な人形のようになっていた。


 時々、泣き笑いのような奇声を上げることがあっても、意思の疎通は難しい。病気の原因は解明されていないから、特効薬も治療法も存在しない。


 頭の中で正体不明の異変が起こり、脳からの伝達信号のスイッチが入ったり、切れたりするのだそうだ。余命も長くないと聞いた。


 雪葉は甲斐甲斐しく、父さんに話しかけていたが、その気遣い、優しさがどこまで伝わっているのか、俺たちには分からない。


 ある日、不思議なことがあった。


 脳のスイッチが切れているはずの父が、突然、自分の足で立ち上がり、


「青葉、雪葉と仲良くしろよ。頼んだぞ」


 父さんは俺に、はっきりとそう言って、ちょっと悲しそうに微笑んだ。


「分かってるよ!」


 と、俺は意図せず、大声を張ってしまった。それが父さんとの最後の会話になり、その後味の悪さは、今でも俺の中に残っている。


 これほど遠くに逃げてきても、馬鹿で無力な自分が追いかけてくる。悔やんでも、悔やんでも、時間を巻き戻すことなどできないことを知った。


 どうしたいのかなんて、とっくの昔に決まっていた。


 帰ることにした、なんて海斗に言いながら、桃子には日記を続けたいと粘ったり、まだ、心の底から本気で帰ろうとしていなかった。


 でも、思い出してしまった。


 そして、思った。取り戻せないことばかりだけれど、もうこれ以上の後悔はしたくない、と。


 俺が望むこと。


 それは残された時間、出来る限りのことを父さんにしたい。寄り添っていたい。だから、俺は帰りたいんだ。


 そう強く願ったのは、これが初めてのことだったかもしれない。


 パンドラの箱の最後には、希望が残っていた。

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