第26話 独白

 板書するフリをして、ノートの切れ端に海斗へ手紙を書いている。


『相談がある。人払いできる場所でランチミーティング希望』


 四つ折りにした小さな紙切れを、海斗の机の上にぽいっと投げ込んだ。『昼休みにギター部屋で』と短く戻ってきた。


 ギター部屋とは、音楽室の中から入ることが出来る収納部屋のことである。


 鐘が鳴った。


 今日も安井の割りかし良い声で号令が掛かる。


 頭を下げたところで、海斗の方へ少し顔を傾けた。


「行きますか」


 周囲がおしゃべりしながら机の上を片付けている間に、俺たちはそそくさと教室を離れた。


 購買部でそれぞれパンと飲み物を買い、音楽室の前までやってきたのだが、鍵という存在を完全に失念していた。


 頭をかきながら「他にどっかない?」と振り返った。


 後ろにいた海斗は、笑みをこぼした。


「あるよ、鍵」


 海斗が詰襟のポケットに手を突っ込んだ。


「ほら」


 取り出して見せたのは、リングにぶらさがった、ブロンズか真鍮のいかにも古そうな二つの小さな鍵だった。


「待て待て待て、どっから持ってきた? っていうか、いつ取ってきた?」


「前を失礼」


 と言って、海斗はスマートにそつなく、俺の前に割り込んできた。


 カチャ、っと鍵が回る音がした。


 海斗は俺に振り返り、控えめに微笑んだ。


「さあ、入って」


 おまえんちかよ、と言いたくなるが、入ってみれば、開放感ある窓から光がよく入り、見るからに心地よい空気に気分が上がった。


 無人の静かな隔離された空間は、鍵さえ持っていれば、良い隠れ家になるだろう。


 音楽科の肖像画を見上げながら、海斗に続いて奥へ行く。正面奥には、立派なグランドピアノが存在感を示している。


 ギター部屋の入り口は、ピアノ椅子の背後だ。


 海斗はよそ見せずに、椅子の後ろに行き、ポケットから鍵を取り出した。やはり、自分の家のように開けて入っていく。


 一連の動作に唖然として、俺がオルガンの横につっ立っていると、海斗がギター部屋から顔を覗かせた。


「言っておくけど、不正はないからね」


「まだ、俺は何も言ってないぞ」


 ちょっと考えて、海斗が笑った。

 

「隠すようなことでもないけど」


 海斗は他愛ない話でもするように、二つの鍵について、さらっと説明を始めた。


 かいつまんで話すと、時々、ピアノを一人で弾きたかった海斗を、音楽教師が甘やかしている、ということだ。


 俺は、部屋の隅に立てかけられていた、折りたたみのパイプ椅子を両脇に抱えながら、


「教師も人である前に女だった。そういうことだろ」


 などと言って、さも、そっち方面に訳知り顔をした自分がちょっと恥ずかしくなり、頬が熱くなった。


 海斗はスカしているが心根は優しいので、それに関するコメントは差し控え、ただ苦笑して言った。


「とりあえず、入ろうか」


 早速、向き合って話ができるように、窓のそばに椅子を二つ置いた。冬の陽だまりを享受するなら、窓際がベストポジションだ。


「この辺がいいな、っていうか、ここだな」


 夜風の冷たさに身震いしながら、温泉に片足をつっこんだ時の気分だ。


「あったけえ。なあ、良い天気じゃん」


 のんきそうに窓の向こうの空を見上げる俺をよそに、海斗は昼飯の入ったビニール袋を膝に置き、中からペットボトルの水を取り出した。


「で、何の相談?」


 海斗が素っ気なく聞いてきた。


「いきなりかよ、ってまあ、いいや。相談つーか、勧誘だな」


「勧誘?」


 海斗はボトルキャップを回そうとした手を止め、顔を上げた。


 紙パックのカフェオレにストローを挿しながら、


「そう、かんゆーよ、かんゆー」


 と、海斗を見ずに言った。


 反応がない。


 ストローからチューと糖分を吸い込みながら、上目遣いにチラッと海斗を見た。


 奴も俺を見ていなかった。


 話を聞いていないのかと思うほど、海斗はリラックスした様子で、クリームパンの袋を開けている。


 俺は『これなら!』と、会心の笑みを顔中に広げ、口を開けたところで、海斗が椅子をガタっ音をさせた。


 椅子を少し後ろにずらし、優雅に足を組むと、真顔をこっちに向けてきた。しかも、意地悪な面接官のように、またしても偉そうである。


「じゃあ、どうぞ」


 これは演技でも茶化しでもなく、海斗の素なので、これに惑わされてはいけない。


「俺さ」


 と言いかけたところで黙り込み、ふと、海斗の顔色を伺いながら続けた。


「……俺はね」


 もったいぶった言い方にも、海斗は眉ひとつ動かさない。


「近々、自分の世界に、その……戻ろうと思っている……マジな話です」


 そこで、海斗はクリームパンをパクついた状態で、ピタっと静止した。

 

 どう受け取ったか、表情から読み取れず、俺は、ゴクっと音を立てて唾を飲み込んだ。反応がないので、そのまま続ける。


「お前も一緒に、帰る気ないか?」


 海斗はパンから口を離すと、ストンと目線を床に落とした。


 『一緒に暮らさないか』と聞き違うことはないだろうが、想像以上のショックを与えてしまったようだ。


 勢いが消える前に、話してしまうことにする。


「俺は令和元年の十一月、頼んでもいないのに、玄関を開けたら、この世界に来ていた。お前は平成から来たんじゃないのか? ああ、ファイナリー、ついに話してしまった!」


 彫刻のように、膝にクリームパンを両手で抱えたまま、海斗が動かない。

 

「悪い……話を急ぎすぎた。今の話は忘れてくれ」


 完全に表情が消えた海斗を見て、俺は確信した。


「海斗には……どうしても、今、話さなきゃ、って思ったんだ。急にすまん」


 うつむいたまま、海斗は震える手で眼鏡を取り外すと、窓枠にそっと置いた。何故、外した?!


「覚えてるよ、全部」


「いや、ホント、今は――」


 海斗は手を上げ、俺の言葉を遮った。


「そうか、やっぱり青葉くん……」


「お前もだろ」


 少し落ち着いたのか、海斗は微笑して頷いた。


「僕はここに三年いる。以前の記憶を保ったままね」


「お、超先輩じゃん!」


 場を和ませようと試みたが、きつく睨まれた。


 海斗も誰かと話したかったのかもしれない。ゆっくりと、控えめな笑いを含んで、話し始めた。


「僕の頭の中は、元の記憶と今の記憶が混在していてね。時々、どれが本当の自分の記憶なのか分からなくなる時がある」


 海斗は瞑目し、深い溜息を吐き出した。


「つらいか?」


 黙ったまま、海斗は頭を縦に振った。


「帰る気は……ないのか?」


 海斗は「うーん」とうなり、首を傾げた。


「難しいな――そもそも、帰る手段が分からないんじゃね」


「探したことある?」


「あるよ。でも、見つからなかった」


 その時、桃子の言葉が頭に浮かんだ。


「可能性で考えてはダメだ。帰りたいか、帰りたくないか、自分の気持ちが大事だぞ」


 桃子の受け売りだが、意外な俺の発言に、海斗は顔を上げた。眼鏡のない海斗は、なんだか別人のようだ。


「確かに、そうかもしれないね。方法はともかく、そうか決めたんだ……僕は、すぐには答えられないな。でも、記憶が消えないということは、深層心理では帰りたいんだろう、とは思うけど」


「他人事みたいに言うなよ。人のことは言えないけどさ、お前の問題だろ?」


 そこで、やっと海斗はクスっと笑った。


「そうだよね。うん……そうなんだ。僕の問題だ」


「そうだよ、一緒に探そうぜ。帰る方法をさ」


 海斗と一緒なら、何か方法が見つかるかもしれない。どこか、別の場所に、どこでもドアがあるかもしれない。


 何より、誰かと話せたことが嬉しい。


「記憶が混在してると大変そうだな。本当の家族と、今の家族か。思い入れも違うだろ? あの優男の緑兄は、やっぱ苦手?」


 海斗は悟りきったように微笑み、首を横に振る。


「いいお兄ちゃんだよ、緑は」


「お前の態度からは、そんな気持ち、微塵も感じないんだが」


「まあ、否定はしないけど。僕が感じ悪いのは、僕自身の問題であって、緑のせいじゃない。誰と家族になっても、良い人たちであればあるほど、僕は孤独になるんだよ」


 冗談には聞こえないが、海斗は静かに微笑んだままだ。


「よく分からんな。それに何だよ、そのポエマー的な表現は」


 海斗の一笑を買った。


「こないだ、青葉くんがうちに来た時、僕が話したことなんだけど。あれは、これまで僕が自分自身に言い聞かせてきたことなんだよね」


「なるほど。あれはまさに神の啓示。お前が自分に自信を持てないって、どういうことだよ。お前はなんでも持ってるじゃないか」


 これは本音であり、嫌味や嫉妬といった他意はない。


 海斗は否定するように、ゆっくりと首を横に振る。


「そんなことないよ。自分が出来ないことを、他人に説いているようでは、ね」


 こうして話していても、何故、そうなったか、をすっぽりと隠している。


「苦労性だなぁ。たまには、俺に話してみろよ。話せば楽になることだってあるだろ」


 海斗は少し驚いた顔をしたが、すぐに目を伏せてしまった。


 余計なお世話だったか、と深い反省をしていると、海斗が真剣な面持ちで、ゆっくりと口を開いた。


「うん……それもいいかもしれないね。誰にも話したことないんだ。砂上さんにも、誰にも言わないって約束できる?」


「もちろん」


 知るべきではない秘密に触れるようで、海斗に聞いてしまったことを、俺は少し後悔し始めていた。 


 話の流れで聞いただけだ。


 確かに、ずっと気にはなっていた。欠点が見当たらないヤツが、何が理由で、この世界にやってきたのか。


 海斗ほどの男が、これまで頑なに口を閉ざしている理由なのだから、それ相応の事情があると考えて間違いない。


 思いの外、海斗は穏やかな顔をしている。窓の縁に置いていた黒縁眼鏡をそっと取り上げ、また馴染みある顔に戻った。


「元の世界の話なんだけどね」


 どうか過激な暴露話ではありませんように。俺は心の中で、両手を握りしめ祈りながら固唾かたずを飲んだ。


「ことの始まりは、小学四年生だったかな。塾で隣に座っていた子と、たまに話すようになってさ。で、仲良くなった。おやつを一緒に食べたり、ゲームしたり」


 懐かしさからなのか、海斗の顔にほんのり笑みが浮かんだ。


「でも、中学は別々だった。僕は地元の私立、その子は、他県の私立に。となれば、交流はもっぱらSNS。幼馴染とまではいかないけど、それってちょっと寂しいよね」


 真面目に聞いているのに、『インスタやってそう』とか、思ってしまった。


 そんな俺のふざけた心の反応も知らず、海斗は嬉し泣きのような、なんとも複雑な顔で話し続ける。


「その子のことが、僕はずっと好きだった。ずっと、ずっと、誰にも内緒にしてたんだ。この話を人に話すのは、青葉くん、君が初めてだ」


 そう聞いて、自分でも意外なくらいに、俺は嬉しくなった。


 海斗は血の通っていない精巧に作られたアンドロイドのような、どこか無機質な存在に感じさせる時がある。彼がこれまで誰かに執着するような素振りを、俺は見たことがなかったからだ。


「春休みだったかな、一緒に映画に行ったんだ。帰り際に、ついね……楽しかったんだ、すごく。……気づいたら僕は好きだ、って口にしてた。あれは失敗。大失敗だよ」


 俺は目をいた。

 まさかの失恋話。


 『普通じゃねえか!』と叫びたくなるが、続きがあるようなので、唇を噛み締める。


 海斗をじっと見ていると、続きを話すことを躊躇ためらっているように感じた。


 ちょっと可哀想になって、話題を変えようとしたら、意を決したような苦い顔で、海斗が口を開いた。


「あの時のこと、こっちに来てからも、時々、夢に見るんだ。もう、トラウマだよね」


 あまりに似合わない、悲しそうな表情。こういう海斗は、正直、見たくない。


「告白した後、恐る恐る顔を上げたら……は僕のことを怯えた目で見てたよ。そりゃそうだよね――それが引き金だったかな。あの日の桜は、綺麗だったんだけど……あれ、青葉くん?」


 俺は目を閉じ、鼻から大きく深呼吸した。


 衝動的に、その子をコンパスか何かで刺したとか、鈍器で殴り殺した。


 なんて悲劇的な話ではなかったことを、俺は大いに喜んでいた。心の中に住む小さな俺は、両腕を天に向け、勝利のガッツポーズをしている。


 しかし、海斗は戸惑っている。


「えっと……僕の話、理解できた?」


「え? ああ、要は好きだった子は男の子で、相手に逃げられた、って話だろ?」


「まあ、そうだけど……ドン引きさせたかな、と思って」


 海斗は不安そうな声で、低く、つぶやくように言った。


 俺は海斗の肩に手を伸ばし、バシバシと強めに叩いてやった。


「いやいや、むしろ安心したわ。お前を悩ますほどのことだ、相当ヤバい話だったら、俺はどう反応すべきか思案しまくってたからな。それが失恋ってオチでホッとしてる」


「……ありがとう」


 海斗は喜んでいいのか分からない、といった不思議そうな顔をしている。


「ま、ぶっちゃけ、よくある話だな」


 別に俺は、海斗の話を濁そうとしているわけではない。


 言いたいことは分かる。


 海斗が好きになる対象が異性ではないことは、生き難い想いを抱えているのだろう。そのくらいは、鈍感な俺でも想像できる。


「難しく考えるな、って言っても無理だろうけどさ。好きになったら、異性であろうが同性であろうが、そりゃ仕方ないだろ。好みは色々、って話でいいと思うぜ。とりあえず、俺はな」


 おもむろに壁の時計を見上げると、昼休みがもうすぐ終わろうとしていた。


「時間じゃん! ちょっとしゃべりすぎたな」


 実際のところ、まだ時間はあったが、場面を切り替えた方が良いと判断した。泣きそうな海斗のことは、気づかない振りをしておく。


 教室に戻る途中、海斗も話題を変えたかったのか、珍しく、桃子のことを聞いてきた。


「昨日は会えた? 砂上さん」


「ああ、見つけた。色々話したよ。それから、金は後で返すな」


 海斗を見ると、「そっか、良かった」と言って、笑った。


 そう良かった。今まで通り、日記を続けることになったから。懇願するも、やんわりお断りされ続けても、俺は食い下がった。


 あのクソ寒い池の側で、OKしてくれないなら池に飛び込む! くらいのことは言ったような気がする。


 あまり、人や物に執着するタイプではない、と自分では思っていたが、そうでもないらしい。


 階段を下り、教室の方に続く廊下を歩いていると、向こうから台風の目のように、桃子が俺たちを見つけ、笑顔で走りよってきた。


「良かった! いたいた!」


 昨日の今日ということもあり、思わず照れ笑いが口元にもれる。


「ちょっといいかな?」


 桃子は海斗に笑顔で同意を求め、手に持っていた小箱を俺の胸に押し付けてきた。


「はいプレゼント。これ、あげる」


 百貨店のものだろうか。ずいぶんと立派な包装紙に包まれている。


「お、おう」


「じゃ、教室で!」


 桃子は、「邪魔してごめんね」と海斗に言って、廊下の向こうで待っていた木内の方へ、また駆けて行った。


 海斗は笑いながら、桃子に手を振っている。


 彼女は知ってか知らずか、その晩、俺はパンドラの箱を開けることになった。

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