第25話 水神様のほとり

 勢いで桃子の家までやって来たものの、チャイムを押す手前で、震える指先が一旦停止。女子の家だからかもしれないし、桃子が居ない可能性が頭に浮かんだせいかもしれない。


 こういう時こそ、心のなぎを鎮める必要があるのだ。と、誰かに聞いたことがある。


 慌てるな、と自分に言い聞かせ、指を引っ込め、右手を下げた。


 チョコレートバーのような凸凹が豪華なような、そうでもないような玄関のドアの前に立ったまま、静かにゆっくりと瞑目する。


 眉ひとつ動かさず、鼻でゆっくりと呼吸をすることが大事だ。


 時間にして、十秒くらいか。


「ん、整った」


 そう口にした瞬間、双眸そうぼうに力がこもる。余計な考えは消え去り、頭の中は快晴が広がってきた。


 もう一度、右手を上げる。

 今度は迷いなく、チャイムを押せた。


 しばらくして、ドアの向こうから「はい」と母親らしき大人の声がした。


 恐る恐るといった感じで、ゆっくりとドアが開いた。


 ってチェーンかよ! と思わず声に出そうになる。


 わずか数センチほどの隙間から顔を覗かせると、口をへの字にした不機嫌そうな女と目が合った。


 中からテレビドラマと思わしき、この泥棒猫! 的なセリフの音声が聞こえてきて、女は「いいとこだったのに。お前、誰だよ」と言いたげだ。


 いきなり、不快な気分にさせてくれる。


 驚いたのは、おばちゃん、と呼ぶには、割りかし綺麗な顔立ちをしていたことだ。


 ただ、俺を見る光のない目や、半開きの口のだらしなさは、桃子とは大分だいぶんかけ離れている。


 この女から、あのような天使が生まれるはずがない! と心の中で叫びながらも、一応、おじぎをしておいた。


 未来は何が起こるか分からない。だからこそ、親御さんの心象は良いに越したことない。


「砂上桃子さんのクラスメートで、星青葉と言います。先生からの伝言があって来ました。砂上さんはご在宅でしょうか?」


 それを聞いて、嘲るような笑いを含みながら、女は言った。


「桃子? どっかその辺にいるんじゃない? 悪いけど、自分で探してもらえる?」


「分かりました」


 俺のくぐもった声がマンションの中で響き、女が鼻で笑ったのを最後に、ドアは、けたたましい音と一緒に閉じられた。


 クソ! クソ! と幾度も心中で叫びながら、マンションの階段を二段飛ばしで転げるように降りた。


 マンションの敷地を出るまでは、怒りでいっぱいになった頭が爆発しそうになっていた。


 しかし、今日の俺は一味違う。

 目的を忘れず、立ち止まることが出来る。


 空に向かって、大きく深呼吸した。


 そう大事なのは『桃子を探すこと』。


「惑わされるな。それよりも、次はどこを探せばいいか考えろ」


 時間は、朝の十時を少し過ぎたくらい。とくれば、人通りの多い街中に、桃子はいないだろう。


 制服を着た若い娘が、こんな時間にふらふら歩いていれば、お巡りさんに補導されてもおかしくない。


 一人静かに、身を隠せる場所。

 一箇所だけ、思い当たる場所があった。


 それは、いつか俺を連れて行きたい、と桃子が日記に書いていた『秘密基地』。


 日記を開いて、ページをめくってみる。


 左側のページが桃子、次に書く俺のページが右側、とお互いの各場所は決まっていた。


「ページ、結構、埋まってんな」


 一枚ずつめくっていると、つい読み直してしまう。


 これじゃいかん、と俺はブンブンと頭を振った。再び、気を引き締め、桃子が『秘密基地』のことを書いたページを探し出した。


 自習室で会った、つまり、俺が号泣した後に、書かれた日記のはず。


「これだ」


 ページを読むと、場所に関する詳細は書いていなかったが、『山道』で、目星はついた。


 まず、じいさんの家から歩いて十分のところにある、桜光神社へ向かう必要がある。


 車道に出ていると、タクシーがやってきた。救援を呼ぶ遭難者のように、派手に手を振ってみる。


 乗るや否や「桜光神社へ」とドライバーに伝えると、バックミラーで俺をちらっと見て、少しの間の後、「はい」と言った、車を発進させた。


 そう時間は掛からなかった。タクシーが停車した瞬間に、海斗から借りた千円札をドライバーに一枚差し出した。


 「釣りはいいんで」と叫んで、車を飛び降りた。


 見上げるほど背の高い、年季の入ったひのきの鳥居をくぐり、参道を進んですぐの所に、枯れ草が踏まれたり折れたりしている場所があった。


「ここ入ればいいのか?」


 足元を見ると、荒涼とした木々や枯れ草の中に、わずかな道らしき土が見える。こんな、うら寂しい小道を、桃子が一人で歩いたのか、と考えると泣きたくなってくる。


 緩やかな蛇行をしながら道は上へと続き、進んでも進んでも景色は変わらなかった。


 一つ良かったのは、葉っぱが枯れて落ちているおかげで、覆い茂った木立の中でも、空がよく見えることだ。


 薄っすらと額ににじむ汗を、手の甲で拭った。そのうち、頭の毛穴から湯気もでてきそう。


 息切れとは言わないまでも、少し呼吸も荒くなってきた。


「これ、もう山に入ってるよね? 池なんて、本当に、あるのかよ……」


 最初は詰襟だけで、身もだえするほど寒かったのに、今では有酸素運動で、体はホッカイロみたくなっている。背中にも、汗が一筋、二筋と流れてきた。


 遭難の危険を感じるほど深い山ではないにしろ、自分の判断を疑い始めていた。


「ちょっとヤバいかも……」


 弱気になりかけた時、覆い茂った枯れ草の向こうに、目的地の竜神池がちゃんとそこにあった。


 ここら一帯には、道を挟んで並んでいた背の高い木々は生えていない。池の周辺は草むらになっており、その外側を森が囲んでいた。


 池の更に向こう側には、連なって並ぶ鳥居の通路もある。


 朱色の鳥居と蒼い池の間で、色白の桃子が身じろぎせずに座っていた。


「も、桃子ちゃん! そこにいて! 動かないでよ!」


 桃子は、その場にすくっと立ち上がり、こちらを見て目を見開いた。近づいたら消えてしまうんじゃないか、と思わせるものがある。


 お互いに、自然と口元に笑いが浮かんできた。

 

「こんなところで何やってんの? 探したんだからね。学校もさ、休みだって言うし」


 彼女を前にすると、笑顔は消えた。どうしても、声や表情に焦りが生まれる。


「心配させちゃったかな」


 桃子は普段と変わらない、朗らかな笑顔を見せる。


「青葉くんは、どうして、ここだと思ったの?」


 上がった息を整えながら、今日は素直に話す、と心に決めた。不必要な嘘は、話を無駄に複雑にするからだ。


「大丈夫?」


 桃子がクスっと笑って、肩で息をする俺を見ている。


「大丈夫、ちょっと待って……さっきさ、桃子ちゃんの家に行ってきたよ」


 まだ鼻呼吸は少し苦しい。


「ふうん、お母さんに会ったんだ。知らないって言われて、日記を読んだ。そうでしょう? 当たってる?」


「ま、そういうこと。これは噂の秘密基地にいるな、ってピンと来たよ」


「そして、ああ、変な家族だなあ、って思ったでしょ」


 桃子はしんみり言うと、また草むらの上にペタンと座った。


 そうだね、とはさすがに言えず、黙って彼女の隣に腰を下ろした。


「あの人は義理の母。半年くらい前かな。父が再婚した人なんだ。私のこと、あんまり好きじゃないみたい」


 この世界は再婚もありなのか。これじゃあ、どっちが元の世界か分からなくなりそうだ。もし、戻る手段があるとしたら、帰っていった人物の痕跡は消えてしまうのだろうか。


 じいさんと俺のように、桃子の家族も寄せ集めのはず。


「じゃあ……あの怖い兄さんは?」


 自分で聞いておいて、だんだん表情が曇ってくる。


「母の連れ子ってやつ」


 義理の妹とは、これいかに。余計にダメな気がする。嫌な妄想が膨らんで、怒りと嫉妬で余計なことを聞いてしまいそうだ。


「桃子ちゃんは、その……大丈夫?」


 桃子は、ちょっと困った風に笑った。


「何が? お兄ちゃんのこと?」


「……そう」


「ああ見えて、いつも、桃子のこと、色々かばってくれるんだよ。ちょっと、干渉しすぎかもだけど」


 今の所は、彼女に実害はない、と。だがしかし、あの兄貴は、桃子を妹として見ていない。義理なら尚更だ。これは男の感ってやつだ。


「そっか、なら、いいけど……もし、もしだけど、何かあったら、絶対に俺に言えよ?」


「うん、大丈夫」


 桃子はちょっと嬉しそうに笑った。それを見て、俺も心が弾んだ。


「それで? 今日はなんで学校を休んだんだ? なんかあった?」


 桃子は唇を舐めて、首を右へ左へと傾げた。それから、少し考えるように、目だけで空を見上げ、ゆっくりと唇を開いた。


「今朝ね、青葉くんの下駄箱に日記を入れて、自習室に行こうとしたんだけど……なんだか怖くなって、学校を飛び出しちゃったんだ」


 桃子は頬をゆるませて、俺の方を見た。そして、俺が手に持っていた日記を、そっと指差した。


「ああ、これか……読んだよ。最後の一文、正直、驚いた」


 桃子は「そっか」と言って、小刻みに頷いた。


 喉がゴクリと鳴った。


 それが合図のように、桃子はまっすぐ前を向いた。


「青葉くんは、覚えているの?」


 何を、という部分が、日記の中にも書いていなかった。この大事な部分を確認しないまま、話を切り出しても良いものだろうか。


「覚えてるって……何を?」


 探りをいれるように、桃子の横顔に尋ねる。


「夜の公園デートのこと」


 そう言って、桃子は俺の方を向いて、きゅっと可愛らしく広角を上げた。


「え、そっち?」


 シリアスだったはずの場の空気をかき消すように、俺はすっとんきょうな声を飛ばした。


「うっそお」


 桃子は唇を尖らせて言った後、悪戯っぽく笑って続けた。


「真面目な話、元いた世界のことよ」


 桃子は視線を俺から池に、ゆっくりと戻した。


 その後が続かず、二人は沈黙し、ただ池を眺めた。


 桃子は覚悟を決めている、というか、この世界に居直っているようにも思えた。元の世界に未練はないのだろうか。揺れることはないのだろうか、と今の自分との温度差を少し感じる。


「青葉くんも、そうなんでしょ? どうなの? 自分のこと、ちゃんと覚えてる?」 


 とんでもない話をしているのに、水面を軽々と渡っていく水切りみたいに、桃子の言葉はテンポよく弾んでいる。


「うん……まだ忘れてはいない、と思う。桃子ちゃんは、覚えてる?」


 俺はうつむいたまま、あやふやに答えた。


「うん、少しね。戻る気が無いからかな。記憶が上書きされるスピードが、ちょっと早いかもしれない。誰かと比べたことはないけど。でも、もうすぐ全部忘れるんだし、別にいいんだ」


「戻りたく……ない、か」


 この世界の仕組みも、来てしまった理由も、正直どうでもいい。世界を征服してやろうとか、秘密を暴いてやろうとか。そんな野心も微塵もない。


 ただ、全部忘れても構わないだとか、戻りたくないだとか、桃子の口から聞きたくなかった。


「他に行く場所なんて、私にはないから」


「本当に……ここが君の世界、だって、本当にそう思ってる?」


 桃子は俺に顔を向けると、瞬きで「そうよ」と答え、少し寂しそうに微笑んだ。


 桃子は足が冷たかったのか、スカートに足をすっぽり隠しながら体操座りすると、池の方を見ながら、ゆっくりと思いを吐き出した。


「でも、ちょっと怖いよね。自分のこと、家族のこと、友達のこと、好きだったもの、全部忘れてしまうって。自分が望んだことのはずなのに、やっぱり怖い。でも、あの場所に戻りたいかと聞かれたら。それもやっぱり怖い」


 相槌をうつべきか、海斗のような適切なアドバイスをするべきか、頭を悩ましてくれる話だ。


「青葉くんと知り合って、ああ、この世界で私に好きな人ができた。この時間を形にして残しておきたい。そう思った。だから、交換日記をお願いしたんだ」


 恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、桃子が笑った。


「そういうさ……照れること言うなよな」


「日記、嫌だった?」


 当然、俺は首を横に振った。


「そんなことない。毎回、下駄箱の中を覗くのが楽しみなんだ、本当に」


「うん」


「俺は自分の気持ちを言葉にするのが苦手だから、日記だと素直になれている、と思う」


「うん」


「だから、その……日記は続けたい。って変かな?」


 待ち合わせた駅で桃子が見せてくれた、花がほころぶような笑顔を俺に向けた。


「そうだね。でも、このまま続けるのは難しいと思う。先に言ってもいい?」


「いやいや、早まるなよ、ちょっと待ってよ。俺は」


 桃子は首を横に振りながら、俺の言葉を遮った。


「自習室で分かったんだ。ああ、この人は会いたい家族がいて、そしてすぐにでも帰りたいんだな、って」


 浅い心を見透かされたことに、桃子の突然の言葉に息が詰まった。でも、なんとか引き止めたくて、その手段を、言葉を俺は探した。


「って言ってもさ、帰る手段が見つからないんじゃ仕方ないじゃん……ずっとここにいる可能性だって――」


 桃子は大きな目を見開き、少し怒ったような顔になっている。


「なんだよ……どうした?」


 唇を噛み締め、俺の両手を握ったかと思うと、桃子は真っ直ぐに俺を見て言った。


「違うよ、青葉くん。帰れるか、帰れないかじゃない。帰りたいか、帰りたくないか。可能性で考えては駄目。あなたはどうしたい? それが一番大事なことだよ?」


 海斗も、桃子も、そして、じいさんも、同じことを聞く。最後はいつも、俺がどうしたいのかを問われ、いつも答えられない。


 そして、そういう自分がやっぱり嫌いだ。

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