第23話 神様からのギフト
月曜日の朝っぱらから、桃子の前で恥ずかしげもなく泣いてしまう、という失態を演じた。
父さんと弟を思い浮かべた後から、どうにも切なくて痛くて。腹から込み上げてくる鉛でも吐き出すように、俺は、いわゆる
「ないわあ」
朝の日差しが柔らかくて、ひそひそ声さえ響く静粛な図書館で、しかも、好きな子を前にして、本当にアレはない。一生の不覚である。
昨日の朝、下駄箱を開けると桃子から日記が戻ってきていた。
彼女は「え? お母さん?」と言いたくなるほど、優しく俺をなだめ、根気よく勇気づけてくれた。
しかし、俺が去った後に、「アレはヤバいわ」と桃子が眉を寄せて身震いしながら、嫌悪したとしても、ちっともおかしくない。
彼女だって何かを抱えているはずなのに、そんな素ぶりも見せずに健気に笑顔を見せてくれる。
日記は鞄の中にしまい込み、あろうことか、その日は一日中、桃子を視界に入れないよう、接触しないよう、とにかく逃げた。
昼休みに入ってすぐだったか、一瞬だけ桃子と目が合った。終礼のチャイムと同時に、彼女が振り返った時だ。
確かに目が合ったのに、俺は視線を泳がせながら隣の海斗に話しかけ、見なかった振りまでした。
その日の夜、いつもの居間で、いつものように、じいさんがテレビに向かって、時折、咳き込みながら笑っていた。
用意された夕食を、俺はただ黙々と食い続け、見たくないのに日記の中身が気になりすぎて、何を食ったか覚えていない。
見る、見ない、見る、見ない、見る、見ない、とそれこそ無限ループにはまっていた。
救いは、隣で笑っているじいさんだ。笑いすぎだろ、と心中でぼやいたことで、一度、考えることを諦めた。
そして、こう考えることにした。
考えすぎのパターンもあるわけだし、思い込みで読まずに放置することの方が、きっと大事件に発展しかねない、と。
「ご馳走様! 後で洗うから!」
「はいはい、ごゆっくり」
食べ終わった食器を置きっぱなしにしたまま、ドタバタと足音を立てて、自分の部屋に駆け出した。滑り込むように部屋に入り、机の上にあった鞄をひったくるように取り上げた。
鞄から日記を雑に取り出し、えいやあっと日記を開いて読んでみると。
「ああ、そうだよな。そういう
と、俺は目頭がキュッと熱くなった。
日記の中の桃子は、俺の知っている桃子でしかなく、ただただ、俺のことを心配していた。見えない敵と戦っていた自分の行動全てが、馬鹿馬鹿しく思えるほどに。
加えて言うなら、むしろ、桃子は大丈夫なのか、と俺は尋ねたい。
が、文字にして残す勇気はなかった。
大丈夫かと聞けば、必ず大丈夫と答えるに決まっている。
そういうわけで、本日も引き続き、全くもって授業が頭に入ってこない。
今朝は、俺が日記を戻す番だった。
日記の内容は、自習室で泣いてしまったことへの弁解。心配してくれたことへの感謝も書きたかったが、これを文字にしてしまうと陳腐な気がして、これも書くのを止めてしまった。
それでも、今朝、図書館のカウンターまで行ってみたが、悩んだ末に、結局、校舎の方へ引き返した。そのまま桃子の下駄箱の中に日記を入れて、すごすごと教室に戻ってきた次第である。
昨日の自分を恥じているくせに、その後もまた同じことを繰り返している。教室でも一方的に、俺が桃子を避けるという
表の態度と内なる心が、不協和音を生んでいる。この感じは懐かしさを感じるほど、馴染みのあるものであり、同時に
「青葉くん」
授業中だというのに、肩を鉛筆で
隣の席の湯島海斗だ。教師に絶対にバレない絶妙なタイミングで、横槍をいれてくる。俺は思いっきり怪訝な顔を向けた。
「なんだよ」
「溜息」
海斗はゴミでも見るような目を隠そうともせず、俺を
「は? なんだって?」
「溜息、深すぎ、うるさい」
海斗はそう言って、また板書を書き写し始めた。と思ったら、視線は黒板に据えたまま、器用に紙の切れ端を俺に投げた。
なんだよ、とブツブツ言いながら開いてみれば、なんということはない。放課後、付き合え、という誘いだった。
俺は『いいよ』と同じ紙に書いて、海斗のノートの上に投げ込んだ。
その日の放課後、俺と海斗が教室を出ようとした時だ。
思わず桃子と目が合った。
またしても、目線を外してしまったので、桃子がその後、どんな顔をしていたか俺には分からない。日記の中の俺は、そうではないのだが。
「砂上さんと喧嘩でもした?」
目ざとく海斗が聞いてくる。
「別に。そう見えた?」
「あー、僕には無視していたように見えたけど?」
「気のせいだろ」
それ以上、海斗は何も聞いてこなかった。
何事もなかったかのように、俺は借りていたCDの返却もあったから、海斗に付き合い商店街へ繰り出した。
「寄ってく?」
海斗がCD屋の向かいにある、小さなカフェを指差して言った。
CDも返却したし、あとは海斗の用事だけだが、たまにはいいか、と俺たちはカフェに入ることにした。
店に入ると、細長いスペースに十人が座れる木製のカウンターテーブルの席、そして内側にキッチンがあり、テーブルには小さなガラスの容器に入った花が飾られている。
誰かの家に来たようなアットホームな雰囲気がする。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
ふっくらしたお姉さんが、小さな花の刺繍が入った生成りのエプロンを身につけ、俺たちをカウンターの中から出迎えた。
感じの良いお姉さんにペコっと頭を下げ、「俺はどこでもいいぞ」と言ってる端から、意外な人物を発見した。
「あれ?」
店の一番奥の席で、その男は夢中になって、テーブルに広げたノートに何かを書いていた。客は、
俺たち以外は、その男一人だけ。
海斗の声で、男はビクッと顔を上げた。
「おお、安井、何してんの?」
俺が声を掛けると、安井は赤い顔をして、俺たちを見て唖然としている。
いい機会だから腹を割った話でもするか、と安井の隣に座ることに決めた。
「いや、隣は……やめて」
「なんで? 別にいいじゃん。一応クラスメートなんだからさあ」
放課後にまでヤツの不機嫌な顔を見るのは、こちらも御免だ。ふと俺の目が、安井の手元を
そこには驚くべき才能が、こっそりと咲いていたのだ。ノートに書かれたものを見て、正直、驚愕した。
安井が俺の反応に気づき、ノートを隠そうとしたが、時すでに遅し。俺は片手を伸ばし、悪気はないがノートを素早く取り上げる。
「お前、こんな才能を今まで隠してたわけ?」
カウンター席の後ろは、人一人しか通れないほど狭い。
海斗が「なになに? 見えないんだけど」と、野次馬根性で俺の肩越しに頭を突っ込んでくる。
「海斗、お前の写実的な絵とは正反対だぞ。凄くない?」
海斗にも見えるように、ノートを横にずらしてカウンターの上で広げて見せた。
安井はノートを俺に奪われ、才能の隠蔽を諦め、頭を深く項垂れている。
なんで落ち込むかな。人が真似できない特技、これこそ安井が誇るべきことだろう。
「うわあ、本当に上手いね」
「な? 凄いよな。語彙力がなくて申し訳ないが」
安井は大きく溜息をついて、自虐的に笑って言った。
「笑いたければ、笑えばいいよ」
俺と海斗は顔を見合わせて、思わず声を揃えた。
「いや、それ違うよ!」
安井は「お前たち、僕を馬鹿にしてるんだろう?」と少し泣きそうだ。
「勝手に見て悪かったよ。ほら」
俺は安いにノートを返しながら、安井の肩をちょっと強めに叩いた。
「いいか? 俺はお前のファン第1号、2号は海斗な」
「僕のファン?」
「正確には、お前じゃなくて、お前のイラストのファンね」
「それって、もしかして……褒めてくれてる?」
海斗も身を乗り出し、安井に笑顔を見せながら言った。
「その才能は伸ばすべきだよ、委員長!」
うつむく安井を見るに、俺と海斗の本心からの賛美が伝わったかは分からないが、ここは立ち去るべきだと判断した。
「青葉くん」
「だな」
安井は誰にも内緒で、ひっそりと好きな絵を描いていたんだなと考えると、ヤツが教室で見せていたムカつく顔を、俺は思い出せなくなった。
自ら学級委員を希望する男、安井努。成績は今ひとつ。だが、彼には別の才能とパッションを持っているとは、恐らく誰も知るまい。
あれは、神様から安井へのギフトだ。
そうして、俺たちはまた商店街の雑踏に戻ってきた。さて、どうしたものか。しばらく歩いていると、海斗が提案を持ちかけてきた。
「うちに来るってのはどう? 緑から良いレコード借りたんだ」
緑と言えば、海斗の兄貴だ。
「仲直りしたんだ?」
「いやあ、喧嘩もしてないし、僕は別に嫌いでもないよ?」
「そうなの? よく分かんねぇなあ」
海斗が黙り込んでしまったので、それ以上は自重した。
隠れているもののほうが、実は輝いていたりする。暗かったりする場合もある。本人が見せないものを、不用意に深掘りするものではない。
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