第22話 自習室にて 

 野球部が朝練をやっているらしく、グラウンドから威勢のいい掛け声が聞こえてくる。


「おいおい、働き方改革やんなくて大丈夫か? 先生も大変だなあ」


 俺は分かった風に言っているだけで、他意はない。


 むしろ、ある種の憧れがあるのかも。先輩がいたり後輩ができたり、仲間と同じ目標に向かって努力したことも、部活に誘われたこともない俺には、かなり眩しい対象だったりする。


 そういう憧れも持ちつつ、野球部を尻目に校舎に向かう。


 人影のない校舎の中へ入ると、事前に確認しておいた場所へ直行だ。


 静まり返った下駄箱の前。鞄の中からノートを取り出した。周囲に誰もいないことは、確認済みであるはずなのに、心臓がヤバいくらいに弾んでいる。


 下駄箱の蓋を開け、任務完了を目前にして、あるはずのない茶々が入った。


「あれ、星くん? 何やってんの?」


 くっそおお! お約束かよ! 


 イメージとしては、10cmくらい飛び上がった。


 万引きを現行犯逮捕された中学生みたいに、バツが悪そうに声の方へ顔を向けると、桃子の友人、木内奈緒がきょとんとした顔で立っていた。


 「ヤバ」と言いながら、開けっ放しにしていた鞄に、再びノートを隠そうと慌てた。


「ふふ、交換日記ね」


 俺はぴたっと手を止め、小さく舌打ちし、にんまり顔の木内を横目で睨んだ。


「なんで、お前が知ってんだよ」


 日記のルールに、第三者介入はご法度となっているはずですが?


「知らないよ。星くんが下駄箱にノートと言ったら、桃子と交換日記かなあ、ってね」


 女というのは幼稚な男と違って、すこぶる勘がいい。


「じゃあ、黙って見逃してくれよ」


「もっちろん」


 俺からしてみれば、桃子とのキスシーンを物陰から見られたと同じくらい、恥ずかしすぎて、穴があったら入りたいくらいだ。


 開き直るしかない。馬鹿みたいに、また鞄から日記を取り出し、桃子の下駄箱に入れようとした。


「星くん? ちょっと、ちょっと」


 木内は憐れみの視線を俺に投げながら、


「そこ……桃子の下駄箱じゃないんだけど」


 と半ば呆れた声で言う。


 そういうことは、早めに言って欲しい。俺は小刻みに頷きながら、その場を誤魔化そうと空笑いした。


 自分に溜息をつき、顔を引きつらせながらも、笑顔を繕ってみる。


「あーそう。そうなんだ。そりゃ、どうも教えてくれて、ありがとう」


 木内は「どういたしまして」と苦笑いし、粛々と、正しい桃子の下駄箱へ案内してくれた。


「ここ」


 木内が指差した場所は、最初に俺が立っていた下駄箱のちょうど裏側。


「あっぶねぇ……さっきの下駄箱は誰のだよ」


 木内の誘導により、大惨事を免れたらしい。


 SNSによるリベンジポルノ拡散も十分怖いが、手書きの赤裸々な日記を、他者に読み回されるなんて、想像しただけでゾッとする。


 特に、昨夜は書くことがありすぎて、何を削除するかで頭を悩ましたくらいの自信作なのだから。胸熱すぎて、人には見せられない内容だ。


「助かったわ。ありがと、木内」


「どういたしまして。危なかったねえ」


 木内は、うんうん、と言って、自分の救世主ぶりに満足げに頷いた。


「で? 星くんは桃子と待ち合わせ?」


「いや、違うけど」


「あ、そう。てっきり桃子と自習室で、って……あ、今の忘れて」


 木内の顔には、余計なことを言ってしまった、と書いてある、俺はそう読み取った。


「自習室にいるんだ。何してんの? こんな朝早くから」


「うーん……なんだ、ろうね」


 胸の中がモヤモヤする。


 俺は一歩前に踏み出し、木内の顔を覗き込む。


「教えてよ」


 木内の態度は、何か隠しているのは間違いない。俺の捜査線上に、すぐに浮かんできたのは、昨日、対面が叶ったインテリヤクザだ。


「桃子には言わないで……絶対に。一生のお願い!」


 いつもの口癖と一緒に、俺に拝んでいるようでは、良い話ではないことは確定した。


「約束する」


「詳しくは知らないよ……でも、家に……居たくないんだって」


 騒つく胸中そのままに、吐き出す息が震える。横柄なクソ&ストーカー兄貴を、脳内で睨みつけていた。


 木内がうつむきがちに、俺から目を逸らした。


「俺さ、ちょっと自習室に行ってくるわ。木内に聞いたとは言わないから。心配すんな」


「うん」


「じゃ、ありがとな」


 俺は軽く片手を上げ、その場を急いで離れようとしたら、木内が追いすがるように、俺の背中に呟いた。


「最近、桃子が明るくて、凄くいいことだなあ、って思ってる。だから、その……」


 俺は「分かった」と短く返事すると、校舎から少し離れた図書館の方へ駆け出した。


 時間は、午前七時半。


 毎朝、自習室で何をしている。

 家に居たくない理由はなんだ。


 最近は元気? おかしいだろう。


 桃子はいつだって明るかったじゃないか。 


 沸々と湧いてくる疑問の答えが、今すぐ欲しい。何故だか、昨日、駅で桃子が一人立ちすくんでいる姿が浮かんできて、頭から離れない。


 図書館は校舎とは別棟というか、OBたちによる寄付によって建てられた記念館らしい。記念に植えられた桜の木に囲まれ、静けさの中に、その洋館はあった。


「記念館ねぇ。夢の世界に住みついて、歴史を積み上げている人間がいるってことか? よくわかんねぇとこだよ」


 煉瓦作りの建物の前まで来て、一度立ち止まり呼吸を整える。重厚な扉を押し開けると、吹き抜けの広々とした館内に目を見張った。


 入り口には受付カウンターがあり、上級生のようにも見える大人っぽい女の子が、座っている。


「おはようございます。学生証、見せてもらえます?」


 女性とは、ニコリともせず事務的に言った。


 鞄にしまってある財布を取り出し、慌てるようにして学生証を引き抜き、彼女に手渡した。


「ありがとうございます」


 彼女は俺のクラスと名前をノートに書き記すと、素っ気なく学生証を俺に突き出した。


「あと、帰る時にこの入館証を、必ずこちらに返却してください」


 彼女は悪くないが、役所で手続きに時間を掛けられているみたいで、イライラしてくる。


「はい」


 入館証を彼女から受け取り、教えてもらった自習室まで早歩きで向かった。


 カウンターの背後に広がる吹き抜けのフロアを横切り、奥まで進むと一角が自習スペースになっているはずだ。


 二階の書棚には、すでに生徒が何人かいる。フロアの机にも数人の生徒がいる。この意味不明の世界で勉強して、何をしようとしているのか、俺にはさっぱりだ。


 朝から勉強熱心な生徒たちを横目に、桃子の元へ急いだ。


 窓際にずらっと並ぶ一人用のボックス席の先にある、細長い机まで来て、俺は立ち止まった。


 桃子がいた。


 何やら大きな本を広げ、雑誌でも読むようにペラペラとページをめくっている。これまで見た事がない、生気のない桃子の横顔だ。


 声を掛けることを躊躇した。


「……あ、桃子ちゃん?」


 ふいに名前を呼ばれ、驚きと不可解が入り混じった複雑な表情で、桃子は顔を上げた。


「青葉くん……どうしたの?」


「いやあ、日記を下駄箱に戻そうと思って早く着いちゃってさ。でも、ほら、始業まで時間あるし。本でも読んでようかなー、って初めて図書館に来てみたんだ」


「ふうん、そうなんだ。ビックリした」


「いやぁ桃子ちゃんがいるから、こっちがびっくりだよ」


 するすると俺は嘘と事実を混ぜて、桃子に軽快に話した。


 嘘を混ぜたことは失策だ。


 これで、何が置きているのか聞けなくなってしまった。


「そう」


 静かに笑む桃子に、上手く俺は笑えているだろうか。


 いつもどうりを装い、桃子の隣に歩み寄る。


「何、読んでんの?」


 テーブルに広げられた大判の本は、外国の絵だった。


「スペインのプラド美術館の本よ。所蔵されている絵画を全部見ることが出来るの」


「インテリだな」


 桃子はくすっと笑い、本を俺の方へ押しやりページを指差した。


「これはヴェラスケス。宮廷の王女様のポートレートを描いているところね」


「ほう、ほう」


「この小さな王女様は、本物のプリンセスよ」


 さっき言い訳めいた嘘をついたせいで、桃子に何も聞くことができない。俺は王女様を見ながら、別のことを考えていた。


 突然、桃子が俺を見上げ「自転車」と言った。


「え?」


「自転車で二人で帰る約束、駄目になっちゃったね」


「ああ、あれか。桃子ちゃんが謝ることないよ。ありゃあ、仕方ないわ」


 昨日、帰り際に怖い兄貴から、かなり太い釘を刺されてしまったので。


「でもさ、またこっそり乗せてくれる? そうだなあ。桜が咲く春もいいし。あと夏も気持ちいいだろうなあ」


 俺は苦笑いした。


 昨日のじいさんじゃないけど、俺はどうしたい?


 冬が過ぎて、春も超えて、夏休みを迎えて。


 きっと一年なんてあっという間だ。


 それも悪くない、そう思い始めている自分と、帰りたかった理由が思い出せないことに、ずっともやもやしている。


「青葉くん?」


「あ、うん」


「また、考え事してたでしょ?」


「ごめん、ちょっとね」


「良かったら話してみない?」


 桃子の顔を見ていると、猛烈にこみあげてきた、不安を打ち消す答えを求める自分。誰かに聞いて欲しかった欲求。


「実はさ、今は一緒に暮らしてないけど」


「うん」


「俺には父と弟が一人いる。母さんは、俺が子供の頃に病気で死んでいない」


 桃子は驚いたようで、まあ、と口を開けて、俺を見ている。


 唐突に、俺は何を話しているんだろうか。と外から自分を眺めている気分だ。


「寂しい? 会いたいんじゃない?」


「どうかな。帰りたいとも思うんだけど、帰りたくない、っていうか」


「喧嘩してるの?」


 喧嘩? 違うな。自分のことなのに、上手く説明できずにもどかしい。


「いや。うーん、喧嘩はしてない、かな」


「じゃあ、お父さんと弟くんのこと、好き?」


「父さんのことは尊敬しているし、弟の雪葉は俺より優しくて、しっかり者だ。そうだな、好きかな」


 そうだ、俺は二人のことが好きだ。


 嫌いになる理由がない。


「聞いてるだけで、お父さんも弟くんも青葉くんにとって、とても大事な人だって分かるよ」


 気恥ずかしくなった俺は、少し照れくさそうに、同意するように頷いた。


「どうして、一緒に暮らさないの?」


「うーん……」


「何か問題ある? あ、これは立ち入りすぎね。ごめんなさい」

 

「いや、確かにそうだね。なんでだろうね……問題はないけど、ただ見てるのが辛くて……苦しくって」


 独り言のように俺はそう呟いて、一つの答えが唇からこぼれた。


「そうか……あの場所から、俺は逃げたんだ」


 ヤバい。


 そう思った途端、大粒の涙がヴェラスケスの王女の顔に落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る