第21話 じいさんと松花堂弁当
自転車を玄関の脇に停め、寒さに震える手で戸を引くと、するすると開いた。
「……開けっぱだった」
鍵も掛けずに家を出てきたことを、今更ながら思い出した。
「ただいまー、ってじいさんはまだ帰ってないか」
玄関で靴を脱いでいると、電話から垂れ下がっている受話器が見えた。
「あーあ」と言いながら、ツーツーツーという音が聞こえてくる受話器を取り上げ、元の場所に戻した。
一息つく間もなく、俺は思い出した。
「ヤバい!」
水だ。
ドタバタと台所へ駆け込むと、結構な勢いでシンクタンクに水が流れている。置きっ放しにしていた、やかんから水があふれ、排水溝に垂れ流し状態になっていた。
「世界には水不足の国もあるっていうのに、罰当たりなことをしたもんだぜ」
俺はブツブツと独り言を言いながら、水道の蛇口を締め上げ、安堵の息を吐いた。
台所は底冷えする。ぶるっと震えた。
薄着であることを思い出し、着替えるために自室に行くことにした。
部屋に戻ると、机の上にあるじゃないか。
渾身のマイベストテープが。
テープを見つめながら、悩ましい問題が頭をもたげた。
この世界を去りたい俺が、置き土産にテープを作ってプレゼントすることは、間違っているように思えるからだ。
「良かった、のか? でもなぁ……聞いて欲しいよなあ」
そんなことを考えていると、頭がぼうっとしてきた。
雪山の遭難者が陥る「寝たら死ぬ」状態に近い。着替えに戻ったつもりが、強い眠気と疲れから、畳んだ布団の上に俺はダイブした。
「桃子ちゃん……大丈夫だったかな……俺がいれば、ややこしいことになりそうだったけど……心配だなぁ……電話するのもなぁ」
布団に顔を埋めてぼやいていると、沼に沈んで行くように、知らないうちに深い眠りに落ちていた。
しばらく意識を失った後、誰かが、俺の背中をゆすっているのを感じた。
「青葉、起きなさい」
この声はじいさんだ。
薄っすらと目を開けてみる。
部屋が真っ暗だ。
そうか、もう夜になったんだな。オレンジがかった白熱灯の照明が目に入ってくる。
「うたた寝なんかしちゃって。起きて起きて」
開け放った襖から廊下の明かりが射して、じいさんに後光が見える。ありがてぇ。仏様みたいじゃないの。
「夕飯を買って来たから、一緒に食べよう」
じいさんに体を起こされ、俺は目をこすりながら、寝ぼけたまま、こたつのある居間へ行った。バスツアーって、どこに行ったんだろうな。と、どうでもいいことを考えながら。
この家の照明は、全て白熱灯だ。光に赤みがあり、灯りが柔らかくて俺は気に入っている。寝起きの俺の目にも優しい。
こたつの上には、松花堂弁当とお茶の入った湯のみが二つずつ用意されていた。
俺が座ると、じいさんが嬉しそうに手を合わせ、
「いただきます」
急いで俺も手を合わせ続いた。
「いただきます」
かぶせ蓋を開けると、たくさんの仕切りの中に並んだ、様々な色や形で調理された美しいおかずが食欲をそそる。
煮物にお造り、梅肉和えのご飯、焼き物、揚げ物、かまぼこ、仕切りのおかげで味が混ざることなく、それぞれを美味しくいただける、という画期的であり、合理性にもとんだ上に、見た目に美しい弁当だ。
日本最高だな。というか、ここが国としてあるのかどうかも不明だ。
しかも、冷めているのに上手いってどういうことよ。
俺は食にこだわりもなければ、どちらかというと思春期にあっても食が細いままなので、この弁当のボリュームは多すぎるくらいだ。
「美味いか?」
「ん? ああ、美味いね。どこで買ってきたの? 商店街じゃないでしょ」
じいさんは俺を見て、ふふふ、と笑い「内緒」とお約束のセリフをはいた。
だからなんで内緒なんだよ。
「どうしたの? 年頃のお悩みかな?」
呆けているようで、たまに鋭い。
「違うよ」とぶっきらぼうに答えると、俺は手前にある湯のみを持ち上げ、ちょうどいい温度になっていたお茶をぐびっと飲み干した。
「年寄りに話してみんかね? 意外と良い答えを出せるかもしれんよ。伊達に長くは生きておらんからね」
じいさんは自分で言って、ちょっと吹き出したりしているんだから世話ないや。
箸を置いたじいさんの弁当を見ると、米を中心に揚げ物や比較的重たいものが残っている。どこも調子が悪そうには見えないが。
「もう終わり? 結構、残してるけど」
「歳だからね。そんなに食べられないよ。ふふふ」
そもそも何歳なんだよ。健康そうではあるが、見た感じでは結構なお年であることは分かる。
「じゃあ、残ったのは俺が食うよ」
「無理しなくていいんだよ」
若干、腹はいっぱいだが「無理してないよ。このくらい平気、平気」と無表情で食べ始めた。
じいさんは、ただ嬉しそうに微笑んでいる。そんな風に見られると、まるで、俺が善行を率先してやってるみたいじゃないか。
照れていることを隠そうと、少し不服そうな顔をした。
じいさんは、そんな俺をちらっと見て、お茶を一口飲んで言った。
「何を恥じることがある?」
じいさんの言葉に、カリッと揚がった白身魚の天ぷらを、箸からポロっと落とした。
「な……何、言ってんの?」
こういう流れは苦手だ。
仏心を出して、言うんじゃなかった。
じいさんが嬉しそうな顔するから、つい手をだしてしまったんだ。
「私が選んで買ってきた弁当を、青葉は美味いと言って食べてくれて、そうして私の分まで平らげてくれようとしている。その気遣いが嬉しいじゃないの。ありがとう」
じいさんが珍しく長文で語っている。
「いやいや、そんな大それた話じゃないから……美味かったから食ってる。それだけだから」
「そうかい。それでも、私は嬉しかった、という話だよ」
「…………」
実のところ、じいさんの弁当に手をつけた辺りから、満腹信号が遅れて脳に届いたらしく、腹が苦しくなってきていた。
「青葉、食べながらでいいよ。少し話をしようか」
今日はやたらと話しかけてくる。いつもは、テレビを見ながら食べて、一人でくすくす笑っているのに。
「面と向かって言うことじゃないんだけどね」
俺は一気に食ってしまおう、と次々と口の中でおかずを放り込みながら、じいさんの満足気な表情を不可解な目で見ていた。
「あっちの家族のことは覚えているかね?」
口の中のものを全部、吹き出しそうになった。
思いとどまり飲み込むと、今度は喉の気管いっぱいに松花堂弁当が詰まり、残っていたお茶で流し込んだ。
「ぷはーっ! 急に何を言い出すかと思ったら」
「覚えているかね」
穏やかなじいさんの口調に、冗談や勢いで答えてはいけないと感じた。咳払いを一つして、俺は慎重に言葉を選びながら答えた。
「……覚えてるよ。家族のことも、学校のことも……って、俺はまだこっちに来て」
「そうだね。まだ、と言うべきか、もう、と言うべきかは個人差があるけど、二ヶ月目に入ったよね」
「まあね。でも、いつも頭のどっかにいるから忘れてないよ」
「うんうん」
心の内は隠しておくつもりが、誰かに話したい衝動が表に出てくる。気持ち裏腹に、ペラペラとしゃべってしまう。
「学校に行ったり、好きな子に会ったり、友達と話していると……それが自分の日常のような気がしてくるんだ。楽しくってさ」
止まらない。止まらない。
「……俺、薄情なのかな? その時は……二人のこと、忘れてしまうんだ。っていうか、この扉はどうしたって開けられないんじゃないかって。どっか諦めている気がする」
止まらない。止まらない。
「そう思ったら……仕方ないことなんだ、と諦め、じゃないけど。うん。それはそれで、というか。ああ、もう何言ってるか分からん」
じいさんはゆっくりと目を閉じると、少し考え込むように唸った。
「それが世界に馴染んでいる、ということになるのかな。それで? お前はどうしたい?」
「どうしたい、って。そりゃ帰るよ……いずれは」
「いずれは、か。どうやって?」
痛いところを突いてくる。
俺は難しい顔をして、じいさんから目を逸らす。
「なあ、青葉。もう、ここで暮らしてはどうだろう? 本当はこのままでもいい、と思い始めているんじゃないのかね」
いきなり斜め上から来やがったな、じじぃ。俺の家族は、父さんと雪葉だけだ。
実際、俺はこの世界を楽しんでいるのは確かだ。
これが逃避なのか、それとも忘れかけているのか。あれ、逃避って。俺は何から逃げていたんだったっけ?
「よく考えてみるといいよ」
そう言って、微動だにしない俺から視線を外し、じいさんはテレビから流れるバカ番組を見て笑っている。
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