第20話 インテリヤクザ
目覚めた時は、絶望しか感じなかった日曜日。
今は至福の中にいる。桃子に借りた上着の袖口から、常時、北風が吹き込んでくる以外は。
自転車の荷台に、女の子を乗せて走ったのは初めてだ。最初はバランスを取るのが難しくて、二人で大騒ぎしながら街を抜けてきた。
桃子はこのクソ寒い中に、えらく短いスカートを履いて来ていたから、荷台にまたがるのは
俺の体に手を回すのは、恥ずかしかったのだろう。ちらっと肩越しに、桃子が必死に荷台の端っこを掴んでいるのが見える。
なんと愛おしい。
「危ないから、ちゃんと掴まっててよ。ニケツは自信ないからね! ああああ、ああーーーーっ!」
警告している間にも、前輪をフラつかせる始末。桃子も笑いながらも、若干怯えているのが、震える声で分かるから辛い。
「わ、分かった……じゃあ、掴まるよ」
桃子が俺のウエストに両腕を回し、ぎゅっとしてきた時の感触と言ったら、それはもう。背中に柔らかいものが当たり、とても暖かい。
遠慮がちに腕を巻きつけてくるものだから、俺の体のやや左側にあるバスドラは、エイトビートから徐々にスラッシュビートにスピードを上げていった。
もう、BMP200超えそう。
要は心臓がドキドキしているってこと。
「桃子ちゃん、運転下手でゴメン。怖くない?」
後ろに座る桃子の顔を振り返る余裕はないし、俺の技量では前を向いて走ったほうが、事故を起こす確率がぐっと下がると判断した。
「怖くないよ、青葉くん。楽しいね」
あんな大失態しといて何だが、俺も楽しい、楽しい、楽しい、と何度も心の中で叫んだ。
住宅地をよろよろと抜けていき、桃子が家族と住む、白壁に青い屋根のマンションまで、あともう少し。楽しい時間というのは、何故こうも早く過ぎていくのだろうか。
懐かしや。深夜にこっそりと訪れ、二階にある桃子の部屋に小石を投げたのが、もうずっと昔のことのようだ。
「運転、慣れてきたんじゃない?」
「あたりまえじゃん。毎日、乗せてやるから任せとけ」
「うん」
前方から、チャリに乗った警察の兄ちゃんが現れる。
「ちょ、ちょ、ちょっとー、君たちー、はい、自転車、止めて止めて、はい、降りてー」
仕方なく自転車を止めた。桃子も荷台からひょいと飛び降りると、俺の後ろに回り込むと、俺の背中から顔だけを覗かせた。
「……なんですか」
「知ってると思うんだけど、自転車の二人乗りは禁止されてるよね?」
「え! うそ!」
全くもって禁止事項だと知らなかった。
「嘘じゃないよ。二人乗りなんて危ないことしちゃダメでしょ。大事な彼女なら尚更です。もし事故にでもあったらどうするんです?」
法的な問題はともかく、ある日突然、大切な人を病気で失うことだってある。事故で怪我をしたり、そして死んでしまうことだって、生きていれば隣り合わせだ。
いつも隣に存在するからと言って、それを当たり前に思っているのは馬鹿だ。大馬鹿なんだ。
ともかく、今は素直に謝るのが得策だろう。俺は真摯な顔をして、反省の色もなくペコリと頭を下げる。
「すみませんでした」
「今日は見逃すけど、家までは自転車を押して帰ること。二人乗りなんかしちゃダメだからね」
「はい。すみませんでした」
俺と桃子は神妙な顔をして、若い警官に二人で頭を下げた。
警官が去っていくのを見送り、桃子が舌をぺろっと出して「優しいお巡りさんで良かったね」と笑った。
俺は自転車を押して歩き始めながら、反対側を歩く桃子に聞いた。
「桃子ちゃん、知ってた? 二人乗りはダメだって」
「うん、知ってた」
いい顔で桃子は笑ったが、俺は苦笑した。
放課後に自転車二人乗りで下校する、という桃子のオーダーには二重の関門があったわけだ。そりゃあ、覚悟が必要だ。
ふと、桃子の手が俺の脇腹あたりに伸びてきた。さりげなく、俺の、正確には桃子の服だが、この黒い上着の端っこを掴んでいる。
手をつないでいるわけではないが、より親密さを感じる仕草。ニヤけるのは格好が悪いと思い、無表情に徹することにした。
だが、そろそろ楽しい時間も終わり。
青い屋根が見えてきた。
映画を観に行くことは叶わなかったが、二人の距離は以前より近くなった気がする。嬉しい気持ち半分、悲しい気持ち半分といったところ。
桃子も別れがたいのだろうか。それはそれは深い溜息をついた。
俺は下唇を噛みしめ、同意の意味で頷いたところ、服を引っ張る桃子の手に力が入った。
「どうした?」
「お兄ちゃん……」
彼女が見つめる先には、怖いと評判の例の男が、仁王立ちして俺たちを待ち構えていた。
「……あの人が、桃子ちゃんのお兄さん?」
桃子は掴んでいた服から指をそっと離すと、上目遣いで俺の目を悲しげに見て言った。
「うん。ついてないね」
ついてない、ってどういうことですか。
以前、聞いた話だと、大学二年生で工学部。下宿もせずに片道二時間を掛けて、通学しているらしい。
眼前に迫る兄貴は、外見の線の細さに付随して、神経質そうな目をしていた。
笑えば温厚そうに見えなくもないが、今は、俺に威圧するような視線を送り、過度な緊張を押し付けてくる。
家族との初対面は、好感度の高い爽やかな男子高校生を演じたかったが、俺は今、ものすごくフェミニンな服装をしている。
妹さんの服を借りています、と言ったら、ぶっ飛ばされそうな雰囲気を感じながら、俺は兄貴の前で自転車のブレーキレバーをゆっくりと引いた。
同時に『平常心』を五回ほど早口に心中で唱えた。
桃子も兄に気を使っているのか、努めて明るく振舞おうとしているのが分かる。
「ただいま、お兄ちゃん」
「デートにしちゃあ、帰ってくるのが早くねぇか?」
神経質そうな外見と、やさぐれた物言いのギャップに俺は度肝を抜かれた。触る神に祟りなし、というフレーズが脳内で渦巻いている。
「ちょっとね。で、こちらは同級生の星青葉くん」
俺は首をひょいと前に出して、淡々と挨拶する。
「初めまして、星です」
「青葉くん、こっちが兄の章之よ」
挨拶も終わった。
ここでお暇させていただこう。
と思ったが。
「ちょい待て。お前、星、って言ったっけ?」
「……はい」
「それ、桃子の服だろ? なんで、お前が着てんの?」
ですよね。
白目になりそうな自分を制して、もう一度『平常心』を心で唱えた。
桃子が俺に向かって小さく首を横に振り『言わなくていい』と目で訴えてくる。
「お兄ちゃん、あとで私が話すから」
兄貴は片眉を上げて横柄な口ぶりで、俺を見下ろしている。気に食わないのは、こっちもなんですがね。と言ってやりたいが、そうもいかない。
俺が見ず知らずのじいさんと暮らしているように、桃子と感じの悪い兄貴は本当の兄妹ではないはずだ。この二人の距離感が、俺には掴めない。
とりあえず、ここで余計な火種は産みたくない。
それにしても、腹たつな、この兄貴。向こうも、同じこと思っていそうだ。
「俺は、こいつに聞いてんだ」
隠し立てをするほうが、桃子に迷惑を掛けそうな気がした。覚悟を決めて、包み隠さず経緯を話した。
案の定。
「ほう。やってくれるねぇ」
目は一層鋭くなり、俺を射抜こうとせんばかりに睨んでいる。桃子が一触即発になりそうな二人の間に立ちはだかるが、兄貴は呆れた顔で言った。
「桃子、お前さ」
「な、何?」
「バッグの中に入ってんだろ? 出せよ」
この飄々とした態度と表情の裏に、嫉妬にも似た怒りを感じて、俺はゾッとした。妹に関与しすぎだろ。
兄貴が片手を桃子に差し出し、迫ってくる。
「いいから出せ」
桃子は肩に掛けていたバッグを両手で隠すようにして、低い声で答える。
「……やだ」
日記のことを言っているのだとしたら、いくら兄妹であっても、度が過ぎている。ありえない、と思わず声に出そうになった。
兄貴はもう一度、手を強く桃子に差し出した。
「出せ。何回も言わせんな」
これは嵐の前の静けさ。直感で感じた俺は、桃子の手を引っ張って、後ろに下がらせる。
波風を立てないように、俺は彼女の耳元で静かに言った。
「桃子ちゃん……早く」
桃子は即座に理解し、慌てながら日記をバッグから取り出すと、俺に押し付けてきた。
「青葉くん、今日はありがとう。本当に楽しかった。バイバイ」
少し早口で桃子は言い終わると、またあの笑顔を見せた。
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