第19話 二人の秘密

「もう泣かないでよー。私は大丈夫だってば。それよりも、青葉くんの方が心配だよ」


 俺はこのクソ寒い中、インナーにするはずだった白いTシャツ一枚で、ここまで来てしまった。もちろん、ジーンズは履いています。


 そして、あろうことか、感動して泣いていた。


 寝坊で三時間も遅刻してきたというのに、桃子はホッとした顔をして、俺が無事で良かった、そう言ったのだ。


 俺が桃子なら、二、三発殴っただけでは飽き足らず、飛び蹴りした後に、絶交を言い渡す事態だというのに。


 映画館に行くのを諦め、体を温めたら帰ろうということになった。時間もさることながら、何しろ俺はTシャツだから。


 そこで、温かい飲み物とエネルギーを補完するために、駅前にあるドーナツ屋に駆け込んだ。半袖の俺と連れの桃子が、店内の好奇の視線にさらされたのは言うまでもない。


 買い物客や学生やらで、店内は混雑している。


 トレーに甘いドーナツと熱いコーヒーをのせて二階に来てみると、ちょうど店の奥にある角席のテーブルにいた二人組が席を立つところだった。


 二人の女の子は半袖の俺を見て、くすくすと笑いながら横を通り過ぎた。


 桃子を奥の席に座らせると、


「ありがとう。これでやっと落ち着くね」


「本当に申し訳ないっ!」

 

 改めて俺はテーブルに額がつきそうなほど、頭を桃子に下げた。


「もう、いいって。それより私のコート、肩にかけておく? 寒くない?」


「大丈夫、大丈夫。俺は大丈夫……」


 椅子を引きながら、大丈夫を三回も言ってしまった。


 座ってからの俺はうつむき、マグカップを両手で抱え込んだまま黙りこみ、地蔵のようにじっとしていた。


 目の前に座る桃子は、それはもう菩薩のようで、俺の罪悪感は深まる一方である。

 

 桃子は角砂糖の包装を取り除くと、マグカップの中に一つ落とし、白いプラスチックのマドラーをゆっくりと回しながら、回想するように話し始めた。


「奈緒と待ち合わせする時は、遅れた時のことも話して決めておくんだ。三十分過ぎても現れなかった場合は帰って良し、とか。待ち合わせ場所を本屋さんにしたりね。青葉くんとも、ちゃんと話し合っておけば良かったね」


 ほら、また笑ってる。


 そういう彼女の優しい心根に俺は救われているが、その優しさに触れるたびにチクチクと、刺すような痛みを胸に感じる。


 この痛みを、俺は知っている。


 忘れてはいけない痛みであり、この世界に迷い込むことになった原因だと今は分かる。ここにいるのは、俺のごうだ。


「青葉くん」


「あ、うん?」


「さっきからずっと黙ってる。遅刻してきたこと、まだ気にしてる?」


 俺は無言で、桃子の問いに小さく頷いた。


「そっか。じゃあ……青葉くんには罰が必要ですね」


「罰?」


「そう、それ相応の償いをしてもらいます」


 意外な申し出に俺は目を見開き、桃子の嬉しそうに笑う顔を見た。


「喜んで」

 

 もう俺は生きる屍だから、気持ちはあるのに、声を出すと棒読みになってしまう。


「ちょっとお、コーヒー吹き出しそうになったじゃない。真面目に言ってるんだよ」


 俺は喜んで、その罰を受けたいと思う。


「分かってるって……なんでもするよ」


 桃子は目を三日月のようにして笑うと、


「今、なんでもするって言ったね? いいの? そんなこと言っちゃって」


 武士ではないが「二言はない。なんでもする」と反省の気持ちをこめて返す。


 何か支払えるものがあるなら、甘んじて受け入れたい。俺は固唾を飲んで、桃子の指令を待った。


 桃子は考えるフリをしている、ように見えた。


「決ぃめたっ!」


 弾むその声に、俺は背筋をピンと伸ばし、椅子に行儀よく座り直した。


「放課後、私を自転車に乗せて家まで送ること。毎日よ。湯島くんと帰れなくなるけど、いい?」


 それは罰ですか? 楽しそうに思えるんだが。


 海斗に何て言おうか。


 放課後の下校を一緒に、しかも自転車に彼女を乗せて帰宅するとなると、周囲に桃子と付き合っていることを公言することになるかもしれない。 


 そこで疑問が浮かぶ。


 学校に駐輪場ってありましたっけ?


「ほーら、考えてる。なんでもするって約束したのに」


「や、やるよ。連れて帰ってやる……毎日だろ? 造作もないわ」


「いい心意気ね。もう一度、言っておくけど、毎日よ。でも半ドンの日は許してあげる。女の友情も大切にしとかないとね」


 いつも一緒にいる木内奈緒のことだな。


「了解」


 二人で自転車に乗って帰る風景を想像すると顔が緩んだ。いかん、いかん。俺は罪人だ。笑ってはいけない。


「覚悟しておいてね」


「何を?」


「オタク、分かってないなぁ」


 いつの時代から来たんだ、桃子。彼女はそう言ってドーナツに噛み付くと、にやにやと思わせぶりに笑った。


「ちゃんと話してくれないと……分かんないよ」


 桃子は口元を手で押さえながら、もう一方の手のひらを俺に向けて『待て』をした。


 一生懸命に口の中のドーナツを食べ切ろうとしている。彼女のその姿に、何故だか柔らかな幸せを感じる。


「ごめんね。えっと、青葉くんは知らないの?」


 半ドン以外で、まだ俺の知らないことが学院にあったのだろうか。


「いや、なんだろ?」


「自転車通学は禁止だよ」


 俺は聞き間違いかと思い、えっ? という顔を桃子に向けた。


「知らなかったのね」


「うん。聞いてない」


 桃子から出されたクエストは、どうやら難しいものかもしれない。不可能を可能にする、何か良い案はないだろうか。


 駅前で震えながら、不安げに立っていた桃子の横顔を思い出すと、なんとか叶えてやりたい。


 こんなことで、失態を埋め合わせ出来るなら安いものである。


「……誰にもバレない場所に、自転車を隠さなきゃダメだ、ってことだな」


「そうよ。これは二人だけの秘密。叱られる時も一緒だよ」


「お、おう」


 桃子はトレーを少し横に避け、テーブルの上に覆いかぶさるように、前のめりに顔を近づけた。


「あとね」


 近いよ、顔。


 そんな黒目がちな目で、あまり俺を見ないでくれ。


「まだあるの?」


「あるよ」


「なに、かな?」


 桃子は前傾姿勢を元に戻すと、満面の笑みで、


「今から私を家に送り届けること。青葉くんの自転車で」


 送っていくことはやぶさかではない。しつこいようだが、今日の俺は半袖一枚である。


「だからね、これ貸してあげる」


 そう言って、おもむろに俺の目の前で服を脱ぎ始めた。


 おいおいおいおいおい、と止めようとしたが、桃子が俺に「はい」と元気よく差し出したのは、上に羽織っていた、長袖のチュニックと呼ばれるトップスだった。


「これを着て……自転車で家まで送れってこと、かな?」


「うんうん。外は寒いでしょ? せめて何か羽織った方がいいと思って」


 俺は「ありがとう」と苦笑いして、桃子の悪気のないオーダーを受け入れることにした。


 幼稚園児が着ているようなスモッグを思わせる形をしており、桃子が言うには「パフスリーブの袖が可愛いでしょう」だった。


 色は黒ではあるが、袖口に色とりどりの糸で刺繍されており、明らかに女物だ。


 まあ、いいだろう。これが俺の贖罪の一歩となるのであれば、願ってもないこと。


「では、参りましょうか」


 桃子は気取った言い方をして、にっこりと笑うと立ち上がった。


 彼女は帰り支度として、赤いコートに袖を通している。俺はジェンダレス男子ではないので、店内で桃子の上着を着ることは遠慮した。


 テーブルの上を片付け、ドーナツ屋の階段を降りようとした時だ。前にいた桃子が、急に立ち止まり、神妙な顔で俺を振り返った。


「先に……言っておこうかな」


 何やら話すのをためらっている。


 なんだか嫌な予感しかしない。


「……あのね」


「お、おう」


「家の近くでお兄ちゃんと遭遇するかも。ちょうど帰ってくる頃なんだ。嫌んなっちゃうね」


 俺は目を閉じ、心中で唱えた。

 心頭滅却すれば火もまた涼し。

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