第18話 曇天の待ち合わせ

 玄関先でスニーカーを履き終わった後、無意識のうちにジーパンの後ろポケットを探っていた。


 そして、気づいて肩を落とす。


「あ、そうか……何やってんだか」


 スマホは電源を切った状態で、ブレザーの胸ポケットにしまってある。


『今、どこ?』


 これだけを知りたいのに、なんとも面倒な話だ。


 とにかく足を使って、彼女を探し出すしかない。すぐに答えを得られない、もどかしさに苛立ちと不安が募る。


 ないものはない。

 あるものでなんとかする。


 だから、今は愚痴ったり、ないものに悩んだりせず、すぐに家を飛び出そう。愛車にまたがり、猛スピードで駅に向かうこと以外、出来ることはないのだから。


 全速力で漕ぎながら、「居ませんように、居ませんように」とひたすら祈っていた。


 叶うことなら、桃子は怒って家に帰っていて欲しい。暖かい自室でふんぞり返り、悪態をついていて欲しい。


 どれも俺の身勝手な願いでしかなく、覆いかぶさってくる罪悪感にぶつけてみても虚しいだけだ。


 頭に浮かんでくる桃子の顔は、どれも笑っている。怒った顔も、悲しそうな顔も、泣き顔も見たことがない。俺には彼女が怒っている姿が、想像できないでいた。


「まじ泣きそう」


 ペダルを漕ぐ足に力を入れてみるが、気持ちと裏腹に、自転車は鉛のように重く、ちっとも前に進まない。気がする。


 あれほど楽しみにしていた初デートの日に、緊張して、興奮して、挙句あげくの果てに遅刻しているのでは本末転倒である。


 今朝の自分をぶんなぐって、桃子から罵声のシャワーを浴びたいくらいだ。


 全て俺が悪いとは言え、全く最悪の気分だぜ。


 桃子の日曜日を、最悪にした自分に腹が立つ。もう一時間もすれば、日が落ちてくるような季節に、あろうことか三時間だ。


 思慮が足りなかった。

 ネットもSNSもないのだ。


 リアルタイムで相手と安易に連絡を取り合えない世界だからこそ、こういう万が一の時のために、桃子と事前に決めておくべきだった。せめて待ち合わせ場所は、どこか店の中にすべきだった。


 俺は何もしなかったんだ。


 ちょうど児童公園ん横を通り過ぎ、大通りに近づいた辺りで、見覚えのある顔が目に飛び込んできた。


「あれ、青葉くん、どうしたの? デートは? っていうか、その格好……風邪ひくよ」


 誰かと立ち話している場合ではなかったが、俺はブレーキを掛け、海斗の前に自転車を止めた。


「よう……」


 息切れがひどく、喉も焼け付くように乾いている。


「遅刻……した、三時間も」


「ああ……それはやっちゃいましたね」


 さすがの海斗も呆れたのか、苦笑いもしない。


「まあな……で、お前はこんなところで何してんだよ」


 海斗は、肩に引っ掛けたトートバッグを指差した。


「僕? 借りてた本を、図書館に返しに行くところ。それより」


「ああ、もう最悪な気分。死にたいよ、マジで」


 海斗は一呼吸置いてから「急いだ方がいいね」と神妙な声で呟いた。


 俺は伏し目がちに、小さく頷いた。


 立ち止まったのは、誰かに話すことで、この罪悪感を軽くしたかったからだ。


 お先真っ暗な顔をした俺を、励ましたつもりか、海斗は俺の背中を思いっきり叩きやがった。


 背中にずん、と走った痛みが心地良い。


 俺は「じゃあな」と言葉少なに、ボソッと言うと、また自転車を走らせた。振り返ると、海斗はじっと立って俺を見送っている。


 バカヤロー! 泣きたいのは俺のほうだってーの!


 大通りに出て右へ曲がる。しばらく直線を走り信号を渡れば、駅のロータリーが見えてくる。通り過ぎる家族やカップル、友人同士が目につく。おのおのが日曜日を楽しんでいた。


 本当なら今頃、俺だってこの中の一人だったはずだ。


 二人で映画を一緒に観た後、どこか雰囲気のいい店で飯を食いながら、映画の感想を言い合って、時々、意見が衝突したりして、それで……ちょっと喧嘩になるのも悪くない。


 後で俺が桃子に謝って、許してくれて、また仲直りして。


 いっぱい考えていたんだ。


 着て行く服も選んで、マイベストも作って。


 駅のロータリーを目前にして、反射的に人差し指と中指で思いっきりブレーキレーバーを引いた。後輪がふわっと浮き上がり、前のめりに転倒しそうになるくらいに。


 一瞬ひやりとしたが、なんとかバランスを保ち自転車を止めると、予想以上に大慌てで家を飛び出したことを知る。


「ない……俺、どうかしてるわ」


 渾身こんしんのマイベストテープは、机の上に置いてきたままだった。


「マジかぁ……やらかしまくりだな……ちっくしょおおっ!」


 俺はハンドルにこぶしを叩きつけた。


「切り替えろ、切り替えろ、切り替えろ、今は駅に向かうこと。それだけを考えろ」


 早口で自分にそう言い聞かせ、周囲の空気を全部吸い込むくらい、勢いよく深呼吸した。


 収まりそうにない憤りは内へ内へと沈ませ、今は桃子のことだけを考えることに集中するべし。


 再び自転車を走らせ、もうすぐそこだ、と思ったら、落ち着けと言わんばかりに、今度は最後の信号が黄色から赤に変わった。


 この三車線を渡り、駅のロータリーに入る。その脇を通り抜け、噴水のある広場まで行けば、待ち合わせの場所が見えてくるはずだ。


 信号を待っている間、もしかしたら噴水の向こう側が見えるんじゃないかと、一心に目を凝らして桃子の姿を探してみたが、行き交う車やバスに視界を遮られている。


 信号が変わりそうだ。


 俺はペダルに片足を乗せ、青に変わるのを待った。


 ハンドルを握る両手に力が入る。

 青に変わった。


 一斉に駅からの人波が、俺に向かって流れてくる。邪魔だ。人を避けながら進もうとするも、どうやら自転車に乗っている俺の方が邪魔らしい。


 仕方なく自転車から降りると、手で押しながら、また祈り始めていた。


 どうか、桃子はいませんように。


 信号を渡りきると、また自転車にまたがり、ロータリーを抜け、噴水の広場まで一気に走る。


 本来であれば、自転車は駐輪場に駐めなければいけないが、そんな時間はない。自転車から降りると、ゆっくりと自転車を押しながら駅の正面へ進んだ。


 全神経を集中させ、赤いコートを探す。


 正面に近づくにつれ、周囲に聞こえるんじゃないかと錯覚しそうなほど、緊張の高まりと一緒に心臓の音もでかくなっていく。


「いない? いない……よね?」


 行き交う乗客たちの中に、桃子の姿が見当たらない。


 そう思った途端、緊張が解け、少しだけ安堵に笑った。念の為、もう一度、人混みを見ていたが、やっぱり居そうにない。


「家に電話してみるか」


 そう呟き、肩で息をしている間に、密だった人の垣根が少しづつまばらになっていく。


「あ……」


 閉ざされた門が開くように、人並みが左右に散らばった後、両目に刺さったのは赤いコートだった。


 鼻を真っ赤にした桃子が、不安そうに立っている。


 俺は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受け、足がすくみ、自転車を支えていた手が震えた。


 呆然と彼女を見ていた俺に桃子が気づき、手を降って駆け寄ってくる。思わずハンドルから手を離し、自転車がその場で倒れた。


 どうして嬉しそうな顔をしている?  


 開口一番は「あぁ、会えて良かった」だった。


 青白い桃子の顔が笑っている。


「何度かお家に電話したんだけど、ずっと電話中みたいだし。受話器が外れてたのかな? ああ、でも、本当に無事で良かったよ」


 つぼみが一気に花弁を広げ、咲き誇る大輪の花のように、桃子は顔をほころばせた。


「どうしたの? いろいろ……大丈夫? それに、自転車、倒れてるよ」


 血の気が引いて白くなった桃子の頬に、俺は無意識に手を伸ばしていた。手のひらに伝わる、氷のように冷え切った頬。


 ナイフで胸をえぐられるようで、「ごめん」の一言が言えないまま、先に涙がポロっと落ちた。


「……寝坊したんだ。あれこれ考えてたら、眠れなくなって……」


 言い訳するなんて、俺は本当にズルい。


 それに馬鹿だ。


「そっかあ。それで上着も着ずに、Tシャツで着ちゃったんだね。風邪、ひくよ」


 桃子は手袋を取り、その冷たい指を俺の手に重ねて言った。


「最初はね、映画に間に合わなくなっちゃう、って焦ったけど、三十分過ぎたら段々頭にきて、絶対に許さない! って叫びたくなったんだから」


 それでいい。

 なんでそんなに優しくする。

 責められた方がマシだ。


「でも、待てど暮らせど青葉くんは現れない。途中で事故に巻き込まれたりしてないかなぁ、って思ったら、なんだか怖くなってきたのね。そうしたら、待ってる間にどんどん悪い方に考え始めちゃって」


「……ごめん」


「だからね、こうして青葉くんに会えて、私、嬉しいんだ」

 

 苦笑する女の子の前で、俺は目を伏せたまま、声を殺して泣いてしまった。

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