第17話 フラグ乱立はご注意を
授業終了の鐘とともに、午後からは自由だ! という謎の開放感のせいで、俺は意図せず半ドンを楽しんでしまった。
海斗の家に行き、例の宇宙船のコックピットを思わせるコンポを使い、マイベストテープを完成させる、という充実した午後を過ごした。
今夜はデート前夜。
念入りに風呂で体を洗い上げ、隅々まで磨いておくことは当然だが、待ち合わせの午前十一時から帰ってくるまでの流れも、最終チェックしておきたい。
着ていく服は、清潔でこざっぱりしていれば良しとする。
以前、「生理的に無理!」という感覚が女子にあることを聞いて、俺は
私服と言っても、数える程しか持っていない。じいさんが気を利かして、商店街で店員に選んでもらい、服を買ってくれていた。
個性よりも清潔感を重視したいのだから、それで十分である。
爽やか風味を出せる、白っぽいアイボリーの丸首ざっくり編みセーターの下に何を着るべきか悩んでいた。
「映画館の暖房で汗をかくのは嫌だなあ」
汗を吸ってくれそうだし、インナーは白いTシャツにしようと思う。下はジーンズでいいだろう。というか、これしか持っていない。
「悪くないんじゃないか」
そう、このくらいありふれた服装の方が、俺にとっては気分が落ち着いて良い。
着るものは決めた。
「よし、次は持ち物チェックだな」
机に広げた数々の小物に向かい、車両点検でもするように、一つ一つを指差しながら、声に出して確認していく。
「財布OK、ハンカチOK、マイベストOK、靴下OK、あとセーターもOK」
最後にもう一度、カーテンレールに掛けておいた、白いTシャツ、ダウンジャケット、ジーンズを確認し、明日のデートの準備はこれで完了。
全ての用意が整い、並べたモノたちを眺めていると、待ちきれない明日への歓喜が、腹の底から湧き上がってくる。
「青葉、入るよ」
突然、襖の向こうから、じいさんの声が聞こえた。
「どうぞー」
振り返って俺が返事をすると、襖がゆっくりと開き、じいさんが部屋に顔を覗かせた。
「ちょっと、いいかね」
「うん」
「今朝、話しそびれたんだけどね」
「ああ、あの時はごめんな」
じいさんは、顔の前で手をひらひらさせながら、「それはいいんだよ」と言った。
「実はね、明日、町内の老人会でバスツアー行ってくるから」
馴染んでるなぁ、じいさん。
「へえ。で、どこ行くの?」
儀礼的に聞いてみただけなんだが、じいさんはフフフと笑った。そして、いつものように「内緒」と嬉しそうに答えた。
だから、なんでだよ。
別に興味はないが、なんかムカつくな。
「それでね、朝が早いんだわ」
「そりゃいいけど」
俺も桃子とデートだし、出かけてもらっても問題ないが?
「朝八時には家を出るよ」
「うん。で?」
何を言いたいのか、要領を得ない。
「青葉、お前も出かけるんだろう?」
「お、おう」
ますます何を言わんとしているのか掴めず、俺は腕組みして、つい難しい顔になる。
「青葉、一人で起きれる? ちょっと心配になってね」
おいこら、じじぃ!
変なフラグ立てんじゃねぇ!
冷静に考えると、フラグは感心しないが不安要素には違いない。
朝十一時に、駅の改札付近で、桃子と待ち合わせをしている。
九時には起きようと思っていたが、その時間にじいさんは不在。
これからゆっくりと風呂に入り、あれこれやって十二時に寝たとしても、九時間も睡眠が取れる。
九時間も寝て寝過ごすなんて。
そんなことはないだろう。
目覚ましもあるわけだし。
今、自分で一本フラグを立てたような気がした。じいさんのフラグを足せば、二本目である。念のために、保険を掛けておくべきだろう。
「じゃあ、出かける前の八時でいいからさ、起こしてくれる?」
「あい分かった。そうしよう。私はもう寝るけど、お前も早く寝なさいよ。おやすみ」
「おやすみ」
静かに襖が閉じられると、俺も早めに寝ることを決め、先に風呂に入ることにした。
これで問題ないだろう、と三本目のフラグを立ててしまったが、保険は掛けた。
風呂に入って、なんだか気分も上がってきた。そのまま寝る直前まで、鼻歌交じりに過ごすほど、全てが順調だった。
ところが寝付けない。
布団の中に丸まって、必死に目を閉じていても、身体中の神経が騒ついて眠気がやってこないのだ。
興奮しているのか?
緊張しているのか?
寝返りを打ってみても、布団を頭からかぶってみても。
「駄目だ……全く眠れる気がしねぇ……」
頭が冴えているというか、感覚が研ぎ澄まされているのを感じる。体の中で
ばっちりと開いた両目のまま、布団から起き上がってみる。興奮気味に壁時計を見れば、時刻は午前一時。
もう一度、布団にもぐりこみ、硬く目を閉じてみる。眠りに落ちる気配がない。
今の俺は、リラックスする必要がある。そこで、何か気持ちやが安らぐ風景を、想像してみることにした。
以前、弟の雪葉と一緒に見た、テレビ番組のヨガも効果がありそうだ。
まず、布団の中で大勢を変える。ダンゴムシのように丸まっていた体を、仰向けにするのだ。両腕と両足は、自然な状態で投げ出し、全身の力を抜く。
宇宙の真ん中に浮かんでいるイメージを頭で描き、ゆっくりと呼吸を重ねていく。
『屍のポーズ』である。
次は、想像の翼を広げる番だ。
駅のロータリーへ向かう。
噴水のある広場。
地から弧を描きながら吹き出す水。その先にはグリーンの銅板葺き屋根が美しい、木造二階建て、ルネッサンス風の桜光駅。
噴水越しに見えてくるのは、赤いコートを着て、俺に手を振る桃子。
「ああ……可愛いなぁ」
妄想の中の彼女に、にんまりしている間に、いつの間にか眠りについていた。
「じいさんが……八時に起こしに……来てくれる……」
四本目のフラグを立てた後、どのくらいの時間が経ったのだろう。
催眠術が解けたように、急に目が覚めた。
布団から目だけを覗かせ、明るくなった部屋の天井が目に入る。
「じいさんは、まだ起こしに来ていない、ということは……まだ早かったか」
早めに起きることは問題ない。
ゆっくりと体を起こし、ふぁわああと間抜けな
「朝風呂でも入るか」
寝起きのしょぼしょぼする目をこすっていると、ふと枕元に落ちている紙切れが目に止まった。
何とは無しに、ゆっくりと紙を拾い上げ、開いてみる。
そして、ムンクの叫びを彷彿させるほど、絶叫の声を上げた。
それはゴミでもなければ、俺のメモでもなく、先に家を出たじいさんからの置き手紙だった。
「嘘、だろ……」
紙がはらりと手からこぼれ落ちる。恐る恐る壁時計に目をやると、心臓が五秒くらい止まった。
時刻は二時。
朝ではない、昼の午後二時だ。
置き手紙によると、じいさんは一度、起こしに来たが「分かってる、分かってる」と俺は答えたらしい。
しかも「もうちょっとしたら起きるから」と俺は宣ったそうだ。
二度寝、というやつです。
じいさんは『集合時間があるから、私は行きますね』と手紙の中で締めくくっていた。
待ち合わせの時間から、既に三時間が経過している。
「…………」
俺はすくっと立ち上がり、まず、じいさんに教わったように布団を畳み始めた。それから、喉が異常に乾いていることに気づき、水を求めてフラフラと台所へ向かった。
廊下に出ると、冷え切った板張りの冷たさが足裏から伝わってきて、下から上へと体がぶるっと震えた。
台所のテーブルには、じいさんが作った弁当の残りだろう。おかずやおにぎりが皿に盛って、ラップがしてある。
「お茶、飲もう……」
やかんに水を入れようとした時、廊下から、電話の甲高い音が鳴り響いた。水道の水を出しっぱなしにしたまま、玄関に向かって走る。
飛びつくように受話器を掴み上げ、
「もしもし?」
期待外れもいいところ。
売り込みの電話だった。
受話器を握ったまま、愕然として、俺はその場に力なく座りこんだ。
玄関から流れてきた隙間風が、体をすり抜けて行った時、今、目に映る全ては現実だと認識した。
「もしもーし」と誰かの声が聞こえてくる。
俺は受話器を放り投げた。
玄関に飛び降り、ガチャガチャと音を立てながら内鍵を開け、引き戸を思いっきり開け放った。
全身を締め上げるような外気の冷たさに、涙がこみ上げてくる。
裸足のまま敷居をまたぎ、見るからに寒々しい曇天の空を見上げた。自分に対する怒りが、頭と体に充満していくのが分かる。
同時に、とんでもなく怖くなった。
桃子の顔を見るまで、生きた心地がしない。
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