第16話 案ずるが生むが易し
今から、担任の高坂先生の英語の授業だ。
先生には申し訳ないが、今日の、いや今日も俺の頭には、何も入りこむ余地はなさそうである。
次の休憩時間こそ、朝から握りしめているこの日記を桃子に渡したい。
チャンスが通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、この日記を桃子に渡す機会は永遠に来ない。
一度失敗しているので、次は、そのくらいの気概で作戦に望みたいと思う。
ついに、終礼の鐘が鳴った。
高坂先生が「今日はここまでね」と言うと、学級委員の安井が号令をかけた。顔の割に、低音のいい声をしている。
「起立っ」
ガタガタと椅子を鳴らしながら、全員が席を立ち上がる。
「礼っ」
安井の声を合図に、俺も戦闘開始だ。
高坂先生が例の開き戸から、しなりしなりと教室を出ていくと、一気に全員の緩んだ声があちこちで聞こえてきた。
近づく午後の訪れのせいか、みなテンションが高い。
先程とは違い、今度は迷わず立ち上がることが出来た。机から取り出した二冊のノートを手にし、俺は宣言するかのように海斗に言った。
「行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
海斗の送り出しは、全く熱を感じない画一的な声で気が抜ける。もっと前のめりに応援して欲しい場面なのに。
気を取り直し、桃子の席に向かって歩き始めてすぐのことだった。
俺自身は落ち着いているつもりでいたが、気持ちが
安井の席を通り過ぎようとした時、制服の裾か何かが、安井の机の上にあった筆箱を引っ掛けてしまった。
「あああ!」
安井が絶叫にも近い声で叫んだ。
結構いい声で。
筆箱は見事に床の上にぶちまけられ、ケースには少し傷が入っている。
ドジっ子属性はないはずの俺が、何故、作戦中にこのような事態が起こしてしまったのか心外だ。
「悪いな、安井」
怒りに戦慄く安井を尻目に、俺はその場にしゃがみこみんだ。ノートを持っていた手とは反対の手で、床に散らばったケースの中身を手早く集めた。
「これで全部か?」
文房具が床に落ちていないことを確認し、立ち上がろうとした時だ。
いきなり安井が、勢いよく椅子から立ち上がり、
「前から言おうと思ってたんだけど!」と突然の告白タイムに突入した。
頭上から降ってきた大声に驚いて、横を見上げると、安井が顔を真っ赤にして怒っている。
「なんだよ」
何がそんなに不服は知らないが、安井の周囲への苛立ちは毎度のこと。安井といえば、眉間にシワを寄せている顔しか思い出せないくらいだ。
このクラスの学級委員を決める時、自ら候補に嬉々として名乗りを上げた、と海斗に聞いている。
他にやりたがる生徒はいなかったため、自動的に彼が学級委員となり、女子は投票で決まったそうだ。
女子の委員長は佐々木恵麻といって、エマちゃんという愛称でクラスの人望が熱く、人望のない安井にも
エマちゃんは背が低く華奢な女の子で、特別美人という訳ではないが愛嬌がある。なんと言っても、人の良いところを見抜き、嫌味なく褒めてくれる。
安井もエマちゃんから「真面目すぎ、でも頑張り屋さんなんだよね」と言われてからというもの、安井の彼女への信頼は厚く、彼女にだけは気遣いを徹底しているらしい。
俺に対しては非常に攻撃的で、今も謝っているのに、無駄に火種を大きくしようとしている。
「お、お前さ! いつもいつも授業は真面目に聞かないし! 授業中に手紙を回すの止めろよ! みんな迷惑してるんだよ!」
なるほど。安井はずっと、俺に対して、小さな不満を積もらせていた、ということか。意図的ではないにしろ、筆箱を俺が落としてしまったことで、着火したようだ。
すくっと立ち上がると、今度は俺が安井を見下ろして答えた。
「授業中の俺の態度で、お前に迷惑を掛けたとは思えないんだけど。でもまあ、手紙の件は謝るよ。勉強の邪魔してごめんな」
エマちゃんが言うように、安井の根っこは真面目でまとも。だから、こんな風に俺が素直に謝ってしまうと、何も言えなくなるのがヤツのいいところ。
日頃の
ぐぬぬぬぬ、と安井が苦しそうに
「安井くん、どうしたの?」
逃げ場を失った小動物のように、安井のヤツは小刻みに震えている。
「僕は、ただ……その……星のヤツが」
はいはい、ちょっと間に入りますよ。
「エマちゃん、ごめん。俺、慌ててさ、安井の筆箱を床に落としちゃったんだ。安井はびっくりしただけだから」
被せるように、安井はしどろもどろになりながら、エマちゃんに説明を始めた。
野次馬たちも、期待はずれの終焉にぼやきながら、それぞれ散っていった。
というか、もうすぐ次の授業が始まってしまうではないか。作戦を立て直そうと思った矢先、今度は俺にお声が掛かった。
「青葉くん、大丈夫?」
背後からの声に振り向いてみれば、桃子が口を尖らせて立っている。
「安井くん、悪い人じゃないんだけどねえ」
桃子は背伸びして、俺の肩越しに安井とエマちゃんの様子を伺っているではないか。
さっきの群衆の中にいたのであれば、安井の挑発を正面から受けなくて正解だった。
「桃子、ちゃん……」
ゆっくりと振り返り、桃子の正面に立つと、彼女も背伸びをやめて、俺に微笑んだ。
「私に何か御用?」
「え?」
チャンスが自分から歩いてきてくれたのか、それとも安井のイチャモンは、桃子を引き寄せるための神演出だったのか。
「用事があるって、なんで分かったの?」
と、俺が尋ねると、桃子は顔を少し寄せて、声をひそめて言った。
「だって、授業中にあんなにじっと見られたら分かるでしょ。さすがに」
空笑いするしかなかった。
桃子の背中には、目がついているのか?
自分がそんなに女子の背中を凝視していたとは、全く気づかなんだ。恥ずかしさのあまり、血の気が引いていく思いと共に、がっくしと
キモかったよね、俺。
「ごめんなさい……」
「ふふふ。それより、なに? その手に持ってるノート」
桃子はにっこり笑って、俺が持っていた二冊のノートを指差した。
「これ? ああ、あの……アレなんだ、アレ」
あれって何だよ!
しかも、先生来たーーーーーーーっ!
「席につけー」と先生も叫んでいる。
周りから椅子を引く音や、机のガタつく音が聞こえてきた。
もう後がない。
「あの……借りてた……ノート、返そうと思って」
しどろもどろになりながら、用意していた二冊のノートを、桃子に素早く手渡した。
日記の上にはカモフラージュとして、別のノートを重ねている。
桃子はすぐに理解したのか、目を三日月にして微笑んだ。
「貸してたアレね。ありがとう」
そう言って、彼女は俺からノートを受け取り、何事もなかったかのように席に戻っていった。
俺も自分の椅子に
早速、海斗が俺の顔を覗き込んできた。
「簡単だったでしょ?」
「簡単じゃねぇよ」
「それにしても、さっきの青葉くんは、なかなかのイケメンぶりだったよ」
そんな風に愉快そうに言われても、全く褒められている気がしない。
「ああ、そうですか。お前ほどじゃないけどな」
妙に、にやにやと笑っている海斗は気にくわないが、なんだかやりきった気分は悪くない。ミルク多めのカフェオレでも飲んで、一服したいところだ。
腑抜けになっているところで、冷静さを取り戻した安井が、始業を知らせる号令に声を張った。
「起立!」
教壇に向かって礼をする時、海斗がほくそ笑みながら、顔を寄せてきた。
「本人には桃子ちゃん、って言うんだね。青葉くん、可愛いなぁ」
リアルに呼び捨てなんぞ出来るか!
礼をしながら、頭から湯気が立ち上ったのは言うまでもない。
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