第10話 放課後の理科室
昼飯で腹を満たし、級友との
時折、先生のバックスタイルを眺めたりしながら、海斗に相談したい事をノートの切れ端に書いているところだ。
昨夜は砂上桃子との電話が途中で切れてしまい、肝心のデートに誘えなかった話は、今朝の登校時に、海斗には話してある。
興味なさそうだったから、あくまで笑い話として軽く。
相談事というのは、砂上と二人っきりで話す絶好のスポットはないか、ということ。
高坂先生が背中を向けた瞬間、二つ折りにした紙を、ポイっと隣の海斗の机に放り投げた。
海斗は黒板を見つめたまま、器用に空いている方の左手の指で、俺からの手紙を開いている。視線だけでメッセージを読むと、呆れたのか小さく溜息をついた。
黒板を書き写すように見せながら、海斗は俺が投げた紙に、サラサラと何か書き始めた。そして、またポイっと何食わぬ顔で、俺の手元に紙を戻した。
答えを期待して開けてみれば、「分かんないよ」って何だよ。
良案が浮かばないまま、時間は過ぎていき、気づけば放課後へと突入している。
帰り支度をしながら、これみよがしに溜息を吐き出してみる。
すっかり帰る準備が整った海斗が、すくっと席を立った。
「あ、ちょっと待てよ」
慌てて、机の中のものを鞄にしまいながら、海斗を呼び止める。
海斗は何も言わず、静かに椅子を戻した後、俺の机との間に立ちはだかり、溜息混じりに、こうおっしゃった。
「普通に声掛ければいいじゃん」
「なんて?」
ちらっと海斗を横目に、教科書を鞄に詰め込む。
「話があるんだけど、とかさ」
俺は片付ける手を止めた。机に置いた鞄の上で、鞄の金具やらを弄びながら、海斗を見上げる。
「そうじゃなくてさ……どこで話すか、っていうのが問題だって、話なんだよ」
意味不明のふてくされたような俺の物言いにも、海斗は過剰反応することもなく、ただ涼しげな笑みを浮かべている。
「その前に、まず相手の足止めした方がいいんじゃない?」
瞬時に、最前列のど真ん中を見てみると、砂上桃子はまさに帰ろうとしていた。
「やばい! ちょっと行ってくる!」
漫画みたいに慌てて、勢いよく椅子を倒して立ち上がった。
狭い机の間を縫って、砂上桃子の背中に手を伸ばす。
「さ、砂上!」
教室を出ようとした
木内は、俺と彼女の顔を交互に見て、にんまりと笑うと、
「先に帰るね。本屋に寄りたいから。じゃあ、また明日ね、桃子」
「あ、うん……バイバイ、奈緒」
砂上は木内に手を振り、かくして念願のご対面となったわけだが。
まず、話があると誘い出せ。
そして同時に場所も考えるんだ。
体育館? いや部活中だろ。
校舎裏? 行ったことないよ!
人がいなくなるまで教室で待つ?
それまでどうするんだよ!
鳥の脳みそくらいしかない俺は必死になって考えてみたが、誘う言葉も答えも出てこないときた。
先に砂上が目をまん丸にして小さく叫んだ。
「そうだ、理科室なんかどう?」
ちなみに、俺はまだ彼女を誘っていない。
すでに二人で話すこと前提で、コトが進んでいることに驚いている。
思いは同じだった、ということでいいですか?
「い、いいと思う」
確かに、放課後に理科室を使っているケースは
善は急げ、と彼女の後をついて教室を出ようとした時、通りすがりの海斗が俺の肩をポンと叩いた。
振り向きざまに、俺の耳元で「頑張って」と
最高に爽やかな笑顔で「お先に、青葉くん、砂上さん」と言って、教室を出て行った。
砂上も海斗に手を振り、二人で海斗を見送った。
それから「行こっか」と俺は周囲の目を気にしながら、砂上に言った。
彼女は声を出さずに、ただ
俺が歩き始めると、少し離れて彼女がついてくる。
思春期の学生はこういう秘め事に鼻が効くため、放課後の生徒たちが移動を開始する時間帯は要注意だ。
近からず遠からずの不自然に見えない距離感で、二人で理科室まで無言で廊下を渡り、階段を歩いた。
理科室のある二階までやってくると、先ほどまでの喧騒は遠くなり、完全に二人だけの空間が出来上がっていた。
冬は陽が落ちるのが早い。夕方四時前だというのに、廊下の窓から見える空は、赤と青が混じり合った不思議な色をしている。
廊下の一番奥に見える部屋の入り口に、理科室と書かれた表示が視界に入った。試合開始のゴングが、頭の中でカーンっと甲高く鳴った。
後ろをついてきていた砂上が口を開いた。
「誰も……いないみたいね」
そんなことを言われたら、作り笑いが強張ってくる。ガチガチに緊張したまま振り向いて、俺は首を一回だけ縦に振った。
中で物音がしないか、ドアに耳を当ててみる。
この学校は教室も廊下側も、頭上付近に小さい窓があるだけで、廊下からは教室の中が見えない珍しい作りになっているからだ。
無人状態を確認した後、ドアノブを指差す。
俺は「よし」と心の声をもらし、理科室のドアをゆっくりと開けた。
ふくらむ鼻を抑えきれないまま、俺は言った。
「入ろっか」
彼女は「うん」とだけ言うと、俺に続いて誰もいない理科室に足を踏みれた。
学園ものに必要なものは何だ。
夕焼け、放課後の教室、可愛いクラスメート。
風に揺れるカーテン。
全ての準備が整ったことに感謝を。
校庭に面した窓から、運動部の生徒たちの賑やかな声がする。白いカーテンが夕焼けに赤く染まり、眩しいくらいに強い光がカーテン越しに差していた。
漫画みたい。
そんなことを思いながら、俺は入り口から黒板の方へ歩いた。特に意味はない。肩で小さく息を吐きながら、ゆっくりと振り返ると、少しはにかんだ砂上桃子が立っている。
公衆電話から彼女の家に電話を掛けた時の比ではない。過度の緊張感に包まれ、喉から心臓が飛び出しそうだ。
デートに誘うとした矢先に、彼女がススっと俺に近づいて来た。
スカートの右ポケットから白い何かを取り出し、それを両手で俺に突き出す。
「え、これ俺に?」
砂上は俺の目を見て、ゆっくりと
「でも、家に帰ってから……読んでね」
それは、ハート形に折られた手紙だった。
形状からして、いわゆるラブレターと受け取っていい気がする。
恐ろしいのは、可愛いから折ってみた、というパターンも考えられること。
どうしよう。
好きです、と書かれていたら。
「今、読んじゃダメ?」
念のため聞いてみる。
「絶対にダメ。今、読んだら……」
口ごもる彼女の目は座っている。
「読んだら……?」
念の為、もう一度だけ聞いてみる。
「絶交する」
今度の彼女は、ちょっと口を
それは困る。
では中身を確認せずに、デートに誘うことは暴挙になるのか?
「ええ! ちょっと勘違いしないでよ! 気持ち悪い!」
などと、最悪な展開を想像してしまうと、やはり今はまだ、誘うべきではないのかもしれない。
帰宅後、このハート形の手紙を確認してからでも、デートの誘いは遅くないのでは?
いやいやいやいや。
思い出せ、青葉。
昨夜の公衆電話のように時間切れとなり、思っていることを伝えられない事態こそが最悪なんだ。
二人っきりで最高のシチュエーションが、今、目の前にある。こんなチャンス、いくらでもある訳じゃない、と俺は思うべきだ。
「分かった。約束する。家に着くまで、手紙は開けない」
「ありがとう、星くん」
「でね」と二人が同時に言った。
「砂上……お先にどうぞ」
「いいの?」
お先にどうぞ、と彼女は譲り合ったりしないのだ。
「じゃあ、私から言うね」
「お、おう」
俺は思わずゴクリと喉が鳴ったことに、ちょっと赤面した。
砂上は一瞬だけ目を閉じ、自分自身に言い聞かせるように「うん」と
そして一呼吸置いてから、ゆっくりと、こう言った。
「私、星くんのことが好きになりました。私と付き合ってもらえませんか?」
先にデートを申し込むつもりだったのだが。
「……俺?」
「そうだよ。私のこと、嫌い?」
好きか、嫌いかの二択しかないなら。
「好き」
砂上が意図して俺を操っているわけではないだろうが、いつの間にか相思相愛が確定している。嫌ではない。むしろ物凄く嬉しいが、困惑していた。
交際経験は、中学の時に付き合ったのは一度きり。友人関係から始まり、徐々に交際に発展するスロースタートだった。それ以上のイベントもなく、気づけば終了していた短い春だった。
なのに、この進展スピード。
早すぎやしませんかね。
俺はまだ、心の準備ができていないというのに。
「これから、青葉くん、って呼んでもいい?」
いつもは元気に笑っている砂上が、大人っぽく見えるのは何故だろう。
口角をきゅっと上げて、静かに俺の目をじっと見据えて微笑んでいる。
正視できない可憐さと普段の元気印のギャップに、完全に俺は落ちてしまった。
「もちろん……も、桃子ちゃん……」
告白の衝撃で存在を忘れ掛けていたが、彼女がくれたハート形の手紙は、彼女の家までの地図が書いてあった。もちろん、手書きである。
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