第9話 夜の公衆電話

 これまでの人生で、電話ボックスの存在を気にかけたことは一度もない。まさか、今夜、あの中に入ることになるとは夢にも思わなかった。


 子供の頃から、親のスマートフォンかパソコンを借りて、動画やゲームで遊んでいた俺の世代にとっては、過去の遺産程度の認識しかない。


 現在、高校二年生で十七歳の俺も、その一人だった。しかし、今夜からは、公衆電話に世話になるかもしれない。

 

 四方を透明の壁に囲まれた、狭い空間から見る夜の公園。

 それはホラーかファンタジーか。


 特に人気ひとけのない夜ともなれば、自分と世界が分断されているような、なんとも不思議な感覚におちいる。


 街灯が少ない住宅地の一本道を、滑るように現れた一台の自転車。俺は、まさにその空間へ猛突進していた。


 授業中に考えたとおり、静かに玄関まで行き、スニーカーの紐を結び終えたところで、居間でテレビをみていたじいさんに、「ちょっとコンビニ行ってくる」と言い放ち、返事も待たずに口笛を吹きながら、家を出てきた。


 薄暗い児童公園の入り口に立つ電話ボックスが視界に入った。約束の時間ぎりぎり、といったところか。


 自転車から降りると、すばやく電話ボックスの横に駐車した。


 全速でペダルを漕いできたせいか、体は温まっている。


 アップは十分とみた。


 約束の午後八時まで、あと二分という時間が差し迫っている中、ブランコの側で寝そべっている野良犬が、俺の様子をうかがっているのがボックス越しに見えた。

 

 野良犬なんているんだな。

 目が合っちゃったよ。


 野良犬とにらみ合ったまま、ダウンジャケットのポケットから授業中に回ってきた砂上桃子からの手紙と、海斗が無表情でくれたテレホンカードを取り出す。


 煌々と光る電話ボックスから外の様子を見ると、どうやら野良犬は俺に興味を失ったらしく、尻尾を鼻先までまるめて眠りにつこうとしていた。


 襲撃される可能性は低いと判断し、今は本来の目的に専念することにした。


 海斗が教えてくれたように、まずは受話器を上げ、名刺サイズのカードを公衆電話に吸い込ませる。


 度数が赤く表示された。


 リミットは四十分。

 十分である。


 受話器を耳と肩で挟み、コートの袖口から時計の盤面が見えるように、手首を顔に引き寄せた。


 よし、時間どおり。

 時計の盤面に指された数字は8。

 どうやら間に合ったようだ。


 思わず口元に笑みがこぼれた。


 砂上の話ってなんだろう……高まる期待に体が震える。


 ポケットから取り出しておいた手紙の紙を、凍えた指先で不器用に開き、番号を打ち込んでいく。


 海斗の話によれば、よく掛ける先の電話番号は、誰でも十件くらいは覚えているのが普通らしい。スマホが記憶媒体だった俺には、考えられないことだ。


 トゥルルル、と呼び音が鳴り始めた。


 彼女の応答を待っている間も、野良犬への警戒は怠らない。


 ポケットの中でホッカイロをぎゅっと握り、短く息を吐く。


 時間にして三秒。

 

「はい。砂上です」


 桃子じゃない、だと。


 電話に出たのは、低い男の声だった。


 脳内で再生されていた声は、クラスメートの女子高生だったのに。


 こういうパターンも、あるわけだ。


 自宅の電話に掛けるということは、一つ屋根の下に住む、親兄弟、つまり家族の誰かが電話口に出る、そういう可能性もあるということだ。


 当然、彼女を呼び出してもらうお願いをしなければいけない。そんな面倒なことは、未だやったことないんだが、やるしかないのだ。


「あの、俺、いや、僕は星、といいます、同じ学校の……えっと桃子さんと……」


 もはや、何を言えばいいのか分からず、「変わってもらえますか?」と要件だけボソッと呟いた。


 受話器の向こうから、男のわざとらしい溜息が聞こえたが返事はない。若い男の声から察するに、これは父親ではなく、噂の怖い兄貴のほうだろう。


 兄という絶対的ポジションを有する軋轢あつれきの前に、俺の精神は完全に平伏状態。裁きを待つ罪人のように両目をぎゅっと閉じ、ただただひたすら祈った。


 どうか、寛大なご処置を!

 話をしたいだけなんです!

 アポも取ってあります!


 沈黙に耐えきれず、先に口を開こうとしたら、


「断る」と一刀両断された。

 

 受話器を落としそうになった。


 電話を掛けた時間も許容範囲だし、名前も所属も名乗ったわけだし、そこまで無下に却下される意味が分からない。


 じいさんに嘘までついて家を出て、自転車を飛ばしてきた。吹き抜ける風は、身体中を射抜くほど冷たかった。緊張と期待が交互に現れ、気持ちは熱く沸騰し、番号を押す時の緊張感といったら。


 しかも、この世の者ではない何かが現れても可笑しくない暗闇と静けさが広がる公園まで来ている俺に、なんたる仕打ち。野良犬まで近くにいるというのに。


 心身ともに完全に凍りつき、足元から崩れ落ちそうになった。


 俺はここで何をしているんだっけ?


 もういいや、明日、砂上に謝ろう、と諦めて電話を切ろうとしたその時、受話器の向こうから、男女が言い争う声が聞こえてきた。


 受話器の向こうに耳を澄まし、様子を伺っていると、どうやら受話器の取り合いになっている模様。


「星くん? 桃子だよ。ごめんね!」


 勝者は砂上だった。


 兄貴から受話器を奪還してくれたのだ。


 彼女の明るい声を聞いて、俺は放心状態から意識を取り戻すことが出来た。同時に、電話を掛ける前の緊張感も一緒に蘇ってきた。


「いや……俺はぜんぜん大丈夫、なんだけど……タイミング、悪かった?」


 かっこ悪いが、声が震える。


「そんなことないよ! ちょっとよそ見している間に、お兄ちゃんが私より先に電話に出ちゃったのよ。ごめんね? 失礼なこと言わなかった?」


 よし、ここからここから。

 一度、受話器から顔を離し、深呼吸してリフレッシュだ。


 そして、頭の中を瞬時に整理する。


 砂上は電話で話したいことがある、という要件だった。 


 付き合っているカップルの他愛ないイチャイチャ電話ではない、ということを肝に命じて始めることにする。


「えっと……俺に話がある、って手紙に書いてあったけど……何、かな?」


「うん。えっと」


 いつになく、彼女の歯切れが悪い。


 それが余計に、俺の心臓に負荷を掛けてくる。


「もしかして……話しにくい?」


 兄貴が後ろに立っている可能性はないだろうか。


「ううん、大丈夫だよ。私の後ろにいる人のことは、気にしなくていいから」


 いるのか。


 俺は足踏みしながら、体を小刻みに揺らしていた。


 受話器を握る手と反対の手は、ポケットに仕込んでおいたホッカイロで暖を取れるが、足元から吹き込んでくる冷気は、容赦なく俺の体温を奪っていく。


 じっとしてはいられないのだ。


「電話かけてくれてありがとう。寒いんじゃない? 外からでしょ?」


「まあね。でも平気、平気」


 とは言うものの、この寒さの中で長時間は辛すぎる。手短に要件を聞いて、早めにここを離れた方が良さそうだ。


「そう? あのね」


「うん……」


 俺の緊張を示すように、唾を飲み込む音が鳴ってしまった。


 ところが、向こうさんはちょっと違った。


「別に大した用事はないんだ」


 アハハハ、と朗らかな笑いまで聞こえた。


「え?」


 正直、俺は耳を疑った。ポケットの中で、ホッカイロを思いっきり握りしめるほどに。

 

 一方、あくまで朗らかに楽しげに、砂上は続けて言う。


「二人でおしゃべりしたいな、って思ったんだ。駄目かな?」


 思春期の男なんてチョロイものです。


 気持ちは一転して、テンションは爆上がり。


 全然OK、OKですよ。それって、俺のことが好き、っということになるんじゃないのか? そう思うのは時期尚早だろうか。


「だ、駄目じゃないよ。俺も……ちょっと話してみたいかなあ、って思ってたからさ。うん……」


「本当? ああ、良かったあ!」

 

 鈴の鳴るような、砂上の声が耳に心地よい。


 それから俺は、彼女との他愛のない会話に震えながら、想像以上に楽しい時間を過ごした。


 思い切ってデートに誘ってみよう、と思った矢先のことだ。


 いつのまにか野良犬の姿が見えなくなり、テレホンカードの度数は一桁になっていた。


「今度さ、映」


 ピーピーピー、と無情にも会話は終了。


「あ――――っ!」と叫んだが遅かった。


 せめて、「映画でも行かない?」と誘う意思だけは示したかった。


 早すぎないか?

 四十分あったはずだぞ。


「おいおいおいおい……」


 ポケットをさぐってみても、百円どころか十円玉も見つからない。


 ゲームオーバー。

 恐るべし公衆電話。


 高校生の小遣い程度じゃ、毎晩、外から電話を掛けるのは経済的に辛いものがある。あの兄貴が電話口に出るリスクも外せない。


 そうなると話の続きは、学校で会った時か。と思ったが、二人っきりで話をする機会なんかあるのか? 


 もう一度、彼女をデートに誘う機会は?


 いや、違う、そうじゃない。


 この世界では、チャンスは自分で作るべし。たまに現れるチャンスの神様が来たら、躊躇せずに積極的に捕まえるべき。


 と、海斗が言っていたっけ。


「くっそお!」


 受話器を叩きつけて戻し、野良犬もびっくりするような低く深い溜息を吐いた。


「まあ……勉強になったわ……」


 凍える体を引きずるようにして、俺は再び自転車にまたがると、まだ見ぬコンビニへと向かった。

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