第8話 授業中のお手紙
「青葉くん、おはよう」
校門を過ぎたあたりで、海斗の声が聞こえて振り返る。
昨日の購買部での一件を思い出し、もう一度謝っておくのが良かろう。
「……
一応、いわゆる神妙な顔つきで、頭を下げておく。
「まだ言ってるよ」
少しやりすぎたのか、海斗は苦笑いしている。
昨日、購買部を出た後、俺は砂上と別れてから海斗の行方を探したが、結局のところ会えなかった。
午後の授業が始まる前、海斗にどこにいたのか、と聞くと、図書館でジュースを飲みながら勉強していたと言う。
やはり、一人だったか。俺も結局、中庭のベンチで、一人で食う羽目になったのだが。
少しでも責めらたり、文句を言われた方が楽なんだが、海斗の怒りの沸点は低く、むしろ笑顔で「大丈夫だよ、気にしないで」と優しく返されてしまう。
今日は一緒に食おうな、と改めて海斗と約束し、ちょうど打ち解けているところへ、突然、俺の横に砂上桃子が現れた。
「おはよう、星くん、湯島くん」
女の子のセーラー服姿はいいね。ブレザーを見飽きた俺には、眩しいほどに新鮮に映る。
彼女のことは可愛いなあ、と常々思っていたので尚更だ。
俺と海斗は、それぞれ「おはよう」と返すと、砂上桃子は歯を見せてニッと笑い、足早に校舎の方へ行ってしまった。
「
遠ざかる彼女の後ろ姿を視線で追いながら、ぼそっと呟くと、海斗は色のない声で「そうだね」と言った。
その優しくない物言いが意外だったので、海斗の横顔を横目で見ながら、様子を伺ってみたが、顔には何も書いていない。
代わりに、前から言ってやろうと思っていたことが、ポロリと口からこぼれた。
「お前、モテるよな。俺、知ってるから」
「何それ。別にモテてないけど」
澄ました顔の中に、嫌悪を感じる。思ったままを言ったまでだが、やはり嫉妬と嫌味が絡んだ匂いは消せなかったか。
海斗が否定しようが、これは紛れもない事実。休み時間に海斗を一目見ようと、女どもが群がって、教室に顔を
廊下で二人が歩いていると、時折、勇気ある女生徒が、手紙を持って現れることもあった。下校時に、海斗が下駄箱を開けると、サラサラと何通もの手紙が、滝のように落ちてくるシーンも、俺は隣で見ている。
女たちの中には不可侵条約があり、例え撃沈覚悟でも海斗に告白することは絶対にならん、と定めている一派がある、という噂も聞いた。
背もすらっとしているし、学力は学年でも十位に入る実力もある。教師たちとの関係も良好で、穏やかな性格な上に礼儀正しい優等生だ。
加えて、顔も良いときた。
モテる理由を並べてみると、この黒眼鏡の優男に欠点や問題点は見当たらない。何が問題でこの世界に来たのか、俺には想像できないのだ。
あまりに完璧で隙のない海斗を、勝手に少しだけ心配している。彼よりスペックの低い俺が、考えることではないが。
「青葉くん?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
俺が妙な心配をしていることが、海斗にバレていないことを心から祈る。
と、まあ、毎日、こんな風に俺はごく普通に登校しているわけだ。能天気に暮らしているように見えるたとしても、それは内心を隠しているに過ぎない。
帰る方法さえ分かれば、元の暮らしに戻るに決まっている。何も分からないのは、今はまだその時ではないのだろう。
さて、本日最後の授業中に、ちょっとしたイベントが発生した。
俺の目の前に座っている安井は、俺を毛嫌いしている。
理由は、単に馬が合わない、というだけだと思う。普段から交流があるわけでもなく、席が近い、ということ以外、俺たち二人の間には何もない。
その日の授業中も、安井の振り向きざまの第一声はこれだった。
「なんで僕がいつもいつも……」
教師が黒板に顔を向けた瞬間を見計らい、ポイっと何やら折り紙のようなものを、俺の机に放り投げてきた。
居眠りしかけているところへ、俺を呪うような小声にハッとして顔を上げてみれば、安井が闘志むき出しの目で俺を睨んでいた。
突然の不可解な事案に、思わず眉を寄せ、
折り紙の表には『星くんへ』と書かれている。
ついに俺に想いを寄せる女子が、この教室の中に存在するかもしれない。そんな期待が膨らみすぎて、完全に目が覚めた。
複雑に織り込まれた紙を、慎重にゆっくりと広げていく。中を見てがっかりするより、真実を知る前の期待感を大事にしたい派だから。
何も書いていない真っ白なノートの上で、最後の折り目を開くときが来た。開けてみると、それは砂上桃子からだった。
なんて大胆なことをする女だ。
彼女の席は、最前列のど真ん中。つまりは、教師の机と向かい合わせという、どう考えても最悪の席に座っている。
あの位置から教師の目を盗み、この手紙を書いただけでなく、何工程もある折り紙にした後、クラスメートを巻き込んで、後方の俺のところまで手紙を回してくるとは。
手紙の通過ポイントに、たまたま座っていただけの、真面目に授業をしていた生徒には迷惑な話だろう。
しかし、俺は控えめに言って、今、すごく興奮している。
ちょっといいな、と思っていた女の子からの手紙なんだから当然だ。
「青葉くん、鼻がふくらんでるよ」
隣の席にいる海斗から、小声でツッコミが入った。
反射的に俺は両手で手紙を隠し、海斗の方を
だが、今はどう思われても構わない。とにかく、俺は彼女が俺に何を求めて、手紙を回してきたのか気になって仕方がないのだ。
手紙の上に置いた手をゆっくりと外しながら、何が書かれているのか想像してみる。
速くなる心臓の音が周囲に漏れているのではないか、と心配したくなるほど、鼓動がどんどん早くなっていく。
一度、目を閉じて、頭の中でカウントする。
一、二の三。
手紙には、こう書かれていた。
星くんへ
さっき寝てたでしょ。
それは良いとして・・・今日の夜、話せないかな?
夜八時に電話してくれると嬉しいな。
待ってるね。
砂上桃子
しかも、彼女の
繰り返しになるが、この世界にはスマホもネットもない。この申し出は受けたいと思うが、どこから電話すればいいのか考えておく必要がある。
ベストな場所は、やはり自室だろう。プライバシーを守るため、気兼ねなく電話で話をするには、自分の部屋だと断言できる。
残念ながら、今の部屋には、
しかも、夜八時くらいだと、じいさんは恐らくテレビを見てバカ笑いしている時間だろう。廊下は何気に声が響くだろうし、なんと言っても、夜の廊下は寒いに違いない。
同じ寒いのであれば、プライベート空間を優先させたい。となれば、児童公園の入り口に見つけた、あの電話ボックスに入るしかなさそうだ。
「青葉くん、先生が見てるよ」
突然の海斗からの警告に、急いで顔を上げる。
教壇から不審な目で俺を見ている教師と、バッチリと目があった。
何食わぬ顔で、ノートの上に適当にシャーペンを走らせる。ちゃんと聞いていましたよアピールは、最低限やっておくべきだから。
現行犯逮捕だけは、絶対に避けなければいけない。
この手紙ごと吊るし上げられるような事態になれば、砂上桃子もタダでは済まないだろう。万が一の時でも、道連れにするわけにはいかない。
教師は納得いかないようだが、首を傾げながらも、再び黒板に向き直った。真剣にノートを取っている雰囲気を醸し出す俺に、確信が持てなかったのだろう。
二度目はない。
今度は、作戦を考えている最中も、顔を上下させ黒板を見ている感を出しつつ、時折、ノートの上にペンを走らせるように心掛けた。
公衆電話から掛ける場合、約束の夜八時になる五分前には、ボックスを占拠できるのが理想的だ。
あとは、夜に家を抜け出すために、じいさんへの言い訳も決めておく必要がある。
犬の散歩?
飼っていない。
図書館に行ってくる?
閉館している。
風に当たってくる?
長時間は無理。
他に大人が納得できる言い訳、それは何だ?
迷宮入りした密室殺人事件の鍵を探す探偵のように、熟考を重ねている内に、俺はある結論に達した。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
もう、これしかない。
というか、これしか思いつかない。
コンビニがこの世に存在するかどうかは、この際、
授業が終わる頃には、俺の計画は完璧なものに仕上がっていた。
帰り道、海斗に手紙のことを打ち明けてみた。
砂上桃子からの手紙が嬉しくて、この昂ぶる気持ちを海斗にも共有して欲しかったのだ。
「いいんじゃないの」
その言い方は、「あっそう」と同義くらいの軽さだった。普段から女生徒に攻め寄られている彼からすれば、大したことではないのだろう。
「じゃ、また明日」
児童公園の手前で、海斗は駅方面へ、俺は住宅地の方へ、とそれぞれの家路に分かれた。
「淡白すぎるだろー、あいつ。もうちょっと、言い方があるだろう。友が一歩踏み出そうとしているというのに、あれはちょっとどうかと思うぞ」
海斗の後ろ姿を見送りながら、俺は腕組みをして、物知り顔で不満を口にしてみた。
吐き出して満足した後、ふと今夜の舞台となる公園の方に視線をやる。
晩御飯前のラストタイムを、子供達が目一杯に遊んでいる光景が広がっていた。
「子供の時間は
俺は薄ら笑いを浮かべ、「待ってろよ。三時間後に戻ってくる」と心の中で呟き、静かに児童公園を後にした。
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