第7話 林檎の見方
日々、全てが馴染んでいく。
ここが本当の俺の世界なんじゃないか、と時々思ってしまうほどだ。
クラスメートの顔と名前も少しずつ覚え、当たり前のように学校生活を送っている。当然のことながら、楽しいことばかりではない。
ちょうど今は、俺の嫌いな数学の授業中である。
隣の湯島海斗は、必ず正解が現れる数学が好きだと豪語していた。授業中、黒板を見つめるヤツの口元が、時折、緩むことを俺は知っている。
難解なパズルを解いた時のような達成感と爽快感が、たまらないと言う。俺には、その感覚が理解できん。
初見では、醸し出すおっとりした所作と眼鏡のせいか、海斗のことを文学少年だと勝手に思っていた。実際は、やったった、という悪い顔で数学を解いているヤツに尋ねてみると、文学には特に興味がわかないらしい。
ヤツのちょっとしたエピソードを話そう。
美術の時間に、一つの林檎を描くという授業があった。
教室の真ん中に置かれた小さなテーブルの上に、林檎が一つ置かれている。これを自由に描け、という内容だった。
時間制限は、終業チャイムが鳴るまでの五十分。
生徒たちは林檎が乗ったテーブルを取り囲むように、好きな場所に座り、思い思いに描き始めた。
俺も海斗と並び、デッサン用の鉛筆を握る。
「なあ、海斗」
「うん?」
「林檎はなんでさぁ、物語のキーアイテムになるんだろうな?」
海斗は描いていた手を止めて、俺の方を不思議そうな顔で見る。
「どういう意味?」
不思議そうな顔をする海斗のことが、俺は不思議だよ。言葉そのままなんだが、通じてないか。
これは、見方や価値観が違うことで生じる、すれ違いってやつである。
「林檎って言えば、白雪姫の殺害アイテムになってるし、アダムとイブにとっては禁断の果実でもあるじゃん? 何かと物語に登場してくる機会が多い果物が、林檎だと思うわけよ。他のじゃダメだったのかな、ってね」
と、思ったままを語ってみたが、海斗は理解が追いつかないのか、神妙な顔で頷いただけだった。
「いや、まあ……どうでもいいことなんですが」
海斗は何やら感心したように、首を縦に振りながら言った。
「確かに。言われてみればそうだよね。面白い視点だよ。青葉くんは芸術肌なのかも」
「視点はどうだか分からんが、画伯としては最低レベルだけどな」
じゃあ、海斗はどうだ。
ヤツは
出来上がった海斗の画用紙を
「すげぇな、海斗。写真みたいじゃん」
褒めたつもりでいたんだが、本人は違うんだよなあ、と言いたげな顔をしている。
「ありがとう。こういう描き方しか出来ないんだよね。感じるままに描いたり、イメージをふくらませて創造することが、僕は苦手なんだ」
「ふうん、そんなもんかね」
「自由でクリエイティブな人間ではないことは、確かだよ」
俺は海斗の手から画用紙をもぎ取り、絵を眺めながら一丁前な評論家のように言った。
「贅沢なやつだなー」
「なんで?」
海斗は珍しく驚いた様子で、黒縁眼鏡の奥で、何度も瞬きをした。
「うーん、いやほら。見た物を正確に描くっていうのも、いわゆる才能の一つだろ。海斗らしい絵じゃないの」
「どのへんが?」
絵画の知識はないが、「この辺りか」と言いながら、海斗が描いた絵を
「この、なんてーの。繊細な感じっていうの?」
海斗は目を丸くして、きょとんとした顔で俺を見ている。
「いいから、自信持てよ。お前の描く絵は綺麗だと思うよ。俺はね」
満面の笑みで「ジュースおごる」と海斗は、俺に約束した。
とまあ、こんな風にスクールライフを満喫し始めている。あとは彼女が出来れば言うことない。
帰る方法を探るべく、俺なりに情報収拾は心がけているつもりだ。
俺と同じように「転校生」として、ここ一年以内に学院へ来た生徒であれば、恐らく記憶も残っているんじゃないかと踏んでいる。
手始めに、海斗に尋ねてみることにした。
このクラスに、該当者が三人いることが判明した。
一人は、
二人目は、安井ツトム。
小児科の開業医の長男で、何故か俺は嫌われている。
三人目は桃子と一緒にいる木内奈緒。
口癖は「一生のお願いを聞いて」。
ただ三人とも転校してきてから、既に一年が過ぎている。
となると、以前の記憶がどれほど残っているのか、不安は残る。
海斗は「僕は転校生じゃないよ」と笑っていたが、本当かどうか怪しいものだ。転校生でないのであれば、お前は俺の想像の産物なのか? とはさ、さすがに聞けない。
じいさんが言うには、この世界の住人たちは、何かしら
一つ、元転校生の話をしよう。
ある日の昼休みの出来事。
俺は海斗とゆったりとした足取りで、購買部に昼飯を買いに行った時のことだ。その日は月に一度のスペシャルサンドの販売日ということで、いつも以上に人だかりが出来ていた。
食にこだわりのない俺たちからすれば、迷惑な話じゃないの。
「人多すぎ。これどうすんの。ランチ難民になったりしない?」
俺よりも5センチほど背の高い海斗が、背伸びして前方の戦況を伺っている。
「今から食堂に行ってもいいけど、席があるかなぁ」
「急がば回れ、だ。このまま待とうぜ。そのうち順番が回ってくるだろうよ」
実際、慌てて食堂に行っても、海斗が言うとおり、このタイミングだと席を見つけるのは難しそうだ。
そこへ後ろから「ちょっとごめんなさいね」と言いながら、確実に前線へ乗り出そうとする
俺たちの横に現れたのは、砂上桃子。
「あら」と言って微笑んでいる。
「
彼女は目を輝かせ、うっとりした表情で、
「星くんたちも? あれ、美味しいんだよね」と
俺は顔の前で手をぷらぷらと振り「違うよ」と答えた。
「三人で参戦しようよ。これも学院イベントなんだよ?」
やんわりと拒絶したことが納得できない、と彼女の顔に書いてある。
海斗と俺は顔を見合わせ「いやいや無いでしょ」と苦笑いした。が、彼女は一番近くにいた俺の手を掴んで放そうとしない。
「じゃあ、行くよ! 湯島くんも、はぐれないようにね!」
「おーい、話、聞いちゃいねー!」と俺は叫んだ。
しかし、俺の意思とは関係なく、彼女は絶妙な隙間をぬいながら、俺を前線へと引っ張っていく。
振り返ってみると「行くね」と海斗がジェスチャーで言っている。
俺は空いている片手で「すまん」と拝む振りで返すと、海斗は片手をあげて、爽やかに立ち去ってしまった。
人に流されやすい性分のせいか、俺の前を行く小娘のせいか。あっという間に、俺は前線に近づき、海斗の後ろ姿も見えなくなった。
砂上桃子は人垣の間に存在する隙間を見つけるだけでなく、その先の道筋までを読み取りながら、戦略的に効率よく移動しているからだ。
頭いいなあ、と変なことに関心しながら、彼女に全てを預け、導かれるままにスペシャルサンドへの道を進んだ。
彼女がイベントだと言っていたことが、少しだけ分かった気がする。女の子のリードで、というところが、また悪くないのである。
「まだある! 良かった!」
先ほどまで後方にいたはずの俺の前には、例のブツがプラスチックの平たいパン箱の中に、若干だが残っていた。
「ほら! 星くんも、早く注文して!」
隣の砂上桃子を見ると、すでに戦利品を納めたビニールの手提げ袋を持っている。
いつのまに。早いな。
「えっと……じゃあ、スペシャルサンド二つと……メロンパンとクリームパン。あー、あとカフェオレと牛乳、ください」
財布から購買部のおばちゃんに二千円を渡し、釣りを待っていると、彼女が俺の制服の袖を引っ張った。
なんだ、その幸せそうな微笑みは。
「星くんって、優しいんだね」
彼女が何を指して優しい、と言っているのか理解できず、思わず顔を見つめてしまった。
「よそ見しない。お釣りだって」
彼女に言われて前を向けば、おばちゃんが俺を待っていた。
「はい、どうぞ」
俺はパンと釣り銭を受け取ると、おばちゃんにペコっと頭を下げ、速やかに戦線を離脱した。
「ね? なかなか楽しかったでしょう?」
「まあね。でも、あんま無茶するなよ、昼飯ごときで」
帰りの廊下で、偉そうにイケメンぶった会話をフツメンの俺は楽しんだ。
「折角だから、一緒に食べない? 同じクラスなんだし、交友を深めようよ」
「ああ……悪いけど、今日は先約あるから、また今度でもいい?」
初めて女子からもらったランチのお誘いは、後ろ髪を引かれる思いで辞退した。
「そっかあ。残念。じゃあまた今度。バイバイ」
意外にあっさりとしたもので、砂上桃子は手を振りながら、笑顔で去っていった。
「湯島海斗くんを探しに行きますか」
廊下を行く彼女の背中を見送った後、俺は踵を返して、まずは音楽室を覗いてみることにした。
「あいつ、友だちいなさそうだしな……」
今頃、どこかで一人でパンでもかじっているんじゃないか、と想像すると、俺が女子ときゃっきゃ言いながら、ランチするわけにはいかないのだ。
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