第6話 私立桜光学院高等部普通科


高坂こうさか先生。おはようございます」


 湯島くんが声を掛けたアラフォー先生は書き物の手を止め、顔を上げた。担任がこのように妖艶な熟女とは。まあ、悪くない。


 アラフォー先生は回転椅子をくるっと回し、俺たちの方に体を向けた。


「おはよう、湯島くん」


「転校生の星くんです。さっき、そこで一緒になって」


 湯島くんの背後で、クソ真面目な顔で立っている俺を見た先生は、にっこりと笑った。


「ありがとう。あなたは教室に戻っていいわよ、湯島くん」


「はい。失礼します」


 湯島くんは先生に会釈すると、俺に振り返り「じゃあ、また後で」と爽やかな笑顔を残して職員室を去っていった。


 先生は湯島くんの背中を見送ると、視線を俺に向け直し微笑んだ。


「初めましてね。さて、お名前は……えっと」


「ほ、星、青葉、です」


 どもってる、かっこ悪い! 

 しかも声、低すぎ!


「ありがとう、星青葉くん。私は高坂エリです。英語の教師で、あなたのクラスの担任よ。今日からよろしくね」


「あ、はい」 


 テンションひくっ! 


 緊張を隠そうと斜に構えてみたら、思わず気の抜けた返事になってしまった。


 誰が転校手続きをしたのか、そもそもこの世界でそんな手続きが必要なのかは知らないが、尋常ではないスピードで周辺が固まっていく。


 世界が馴染みすぎている。

 いや、俺が馴染んでいるのか?


 こうして、二日目にして俺は、私立 桜光おうこう学院高等部普通科二年に、在籍することとなった。


 アイボリーのふんわりとした素材の女らしいシャツに、深いスリットが後ろに入った濃紺のタイトスカート。歩くたびに、左右に盛り上がる腰と細いウエスト。


 俺がついて来ているかを確認するように、時々、ちらっと振り返り微笑んでくる。


 いやらしい発想は、止めていただきたい。

 俺は前を歩く女教師、高坂先生の話をしている。


 これは、一分以内に俺を待ち受けている転校生の挨拶、というイベントを滞りなく取り計らうため。言うなれば、儀式のようなもの。それ以上でも、それ以下でもない。


 リラックスするために、関係のない事柄に意識を集中させることは、どの世界でも常套手段である。


 努力の甲斐もあり、肩の力が抜けてきた気がする。教室に着くまでの間、この学園のことを話しておこう。


 桜光学院は同じ敷地の中に中等部と高等部があり、どちらも男女共学。制服の色で中学生か高校生か、見分けることができる。


 高等部の男の制服、詰襟は黒だが、中等部のガキどもは濃藍こいあいと言って、なんでも藍染の一番濃い藍色だそうだ。


 女子は紺色のセーラー服に付属するスカーフの色で分かる。JCは純白の白、JKは大人になった証かは知らんが、金属の赤銅しゃくどうのような暗めの赤だから、赤銅しゃくどう色。


 和色の名前を、この俺が知っているわけがない。


 全て黒縁眼鏡の湯島くんの説明で聞いた単語だ。雅な物言いに彼の育ちの良さを感じて、俺も真似することにした。


 続き。


 高等部は普通科と音楽科の二つに分けられている。


 音学科は特殊で、各学年に二十人くらいの音大志望の学生で構成され、ピアノ、ヴァイオリン、声楽があるという。普通科はその名のとおりに、五教科を履修する一般的な高校生のカリキュラムだ。


 普通科はA、B、C、Dの四つのクラス、各クラスの生徒は四十人。音楽科はEクラス。音楽科の二年生は、他学年より少なくて十五人。


 全体で言うと、高等部だけで五百三十五人が在籍。中等部を含めれば、千人を超える超マンモス校である。


 話の途中で恐縮だが、ここで公開処刑のカウントダウンが始まった。


「星くん、私が名前を呼んだら教室に入ってきて。その後に自己紹介、って流れでいくわよ。趣味の話でもいいわ。三十秒あげるから、思う存分、自己アピールしてね」


 五秒で十分なんですが。


 交渉する間も無く、高坂先生は俺を一人廊下に残し、教室にさくっと消えてしまった。


 三十秒って長いのか、短いのか?

 名前と、あと何を話せばいい?


 ダメだ、頭が真っ白だ。

 準備が足りない。


「星くん、教室に入ってください」


 白目になる寸前に、先生からお呼びが掛かった。浅い呼吸はダメだ。目を閉じて、大きく肺を膨らまし、ゆっくりと吐き出す。


 整った。


 俺はカッと目を見開き、思い切って教室の戸をガラガラっと開けた。


 つもりだった。


 ちょ! 開かない! お前もかよ!

 なんたる醜態。


 わずかな隙間から、教室の中で湧き上がった生徒たちの爆笑する声が、脳を直撃。


 学校の教室は普通、引き戸だろ。


 教壇から先生が苦笑いしながら、戸口で顔面蒼白となっている俺のところへやってきた。


「ごめんねぇ。職員室以外の教室は全て "開き戸" なの。ほら、ここにドアノブがあるでしょ?」


 確かにあるね。

 そんな些細ささいなこと、どうでもいい。


 両手で顔を覆い隠したい衝動に駆られたが、男の子だからグッと我慢した。今なら、顔から火を吹き出すことも可能な気がする。


 高坂先生にリードされ、爆笑の渦の中へ俺は飛び込んだ。


 みんなが笑うのは仕方ない。

 あれは噴飯ふんぱんものだったよね!


 自己紹介どころではない。


 初日なのに、俺は伝説を一つ作ってしまった。あだ名が「引き戸」になったらどうしよう。しばらく、俺はクラスの笑いのネタになるに違いない。


 教室をまたぐたびに、きっと言われるんだ。俺ならそうする、と悪い想像を山ほど頭で巡らせた。


 高坂先生がうつむく俺の隣で、「静かに、静かに」と大きな声で騒ぎの沈静化を図っているが、治る気配はない。


 クラス中の笑い声やらヤジやらがごちゃ混ぜになって、台風のように俺の頭から体を取り囲んでいるように感じる。


 もう泣きそうだ。何が悲しくて、訳も分からない世界まで来て、しょっぱなから笑われなければいかんのだ。


 だが、その悲しみは、すぐに怒りへと変わり、俺が夜叉になりかけた時だ。


 ヒーローはやってきた。


「星くん、同じクラスだね」


 天使いた! 


 よく通る声で自分の名前を呼ばれ、俺は顔を上げる。目を皿のように丸くして教室内を見渡し、声の主を探した。

 

 君だったのか。


 教壇から向かって窓際の右端、一番奥の席にヒーローはいた。


 俺に軽く右手を上げる好青年と目が合う。

 優しげな笑みを浮かべるその青年は、湯島くんだ。


 湯島くんの前に座っているモブっぽい女生徒が、振り返って彼に尋ねた。


「えー、海斗かいとくん、知り合い?」


「まあね。今朝、職員室まで案内したんだ。彼、すごく良い人だったよ」


「……そうなんだあ」


「おい、みんなー静かにしよーぜ」


「ねえ、ちょっとカッコよくない?」


「お前、笑いすぎだろ。もう止めろよ」


 流れ、変わったな。

 クラス全体にウエルカムな空気が満ちてきた。


 湯島くんに感謝の意を評して、精一杯の笑顔で俺はうなずいた。俺が女だったら、確実に落ちていたであろう。


 ハプニングはあったが彼のおかげで、しどろもどろながら自己紹介を終えることができた。


 で、俺の席はどこかな? できれば消しゴムを貸し借りしたくなる、優しくて可愛い女の子の隣がいいのだが。実際は湯島くんの隣の席だった。


「僕たち縁があるね」


「さっきは、ありがとう。ホント……助かったわ……ハハ」


「教科書、持ってる?」


「ああ、これ? なんだか知らないうちに、全部そろっ……あ」


 と言いかけて、俺は口を両手で押さえた。


「まあ、そうだよね」


 湯島くんの意味ありげな返しに驚き、彼の表情から読み取ろうとしたが、ほくそ笑むだけで確証を得ることは出来なかった。


 そこで、授業の鐘が鳴る。


「話はまた今度、ってことで、いいかな? 星くん」


「あ、ああ」


 学級委員の号令に合わせ、席を立ち上がった。

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