第5話 世界が馴染んでいく
なんだ。
遠くで聞こえる。
チチチチ、チュチュチュ、って。
スズメか?
いいフローだ。
心地よい小鳥たちのビートに誘われ、
しかし、カーテン越しからでも感じる、朝の光が
もう起きろ、ということか。
朝なんだなぁ。
あぁ学校……行かなきゃ……って。
今……何時?
もやが掛かった視界が、徐々にクリアになっていく。
寝起きの糸目に映る、見覚えのない天井。
なんだ、この
天井の電灯から蜘蛛の糸のごとく、長い紐がぶら下がっていた。
体を起こせば、すぐに手が届きそうだ。引っ張りたくなる誘惑に
「待てよ」
自分の置かれた現状に、再び目をむく。
目玉を見開き、寝たまま眼球だけで周囲を見渡す。
見知らぬ和室。
布団?
「ここは、どこ……?」
あるはずのない腹筋で、俺はガバッと上半身を起こした。
習慣とは恐ろしい。どこで目覚めようが、朝起きたら学校へ行く、というルーティーンが体に染み付いているらしい。
布団の上で
あのオレンジ色の丸い物体はアレだ。
俺は昨夜のことを全て思い出し、軽く舌打ちした。
やはり、どこかは分からないが、75億の人間が住む地球上ではなさそうである。でも、言語も含めて日本としか思えない。
決定的に俺の世界とは違うと言える理由は、あのじいさんだ。あの扉から現れた俺に、これっぽちも驚きもしなかった。
その上、妙なことも言っていた。
耳を澄ませば、廊下の奥の方から、テレビの音が微かに聞こえてくる。じいさんは、もう起きているらしい。
「行ってみるか」
ふと目に留まった、足元の敷きっぱなしの布団。
「どうやって
中学まで弟と二段ベッドだった俺には、布団のしまい方が分からない。掛け布団は四つ折り、敷布団は二つ折りにして、部屋の隅っこへ追いやることで、適当に決着をつけた。
それから、最初から部屋にあったパジャマを着たまま、部屋を出ようとした。
「おいおい、プライバシーなしかよ」
自室と廊下を隔てる
途中、小さな庭を通り過ぎようとした時だ。花が咲き乱れている訳でもないのに、立ち止まり見入ってしまった。
マンションの窓から見る風景に慣れているせいか、庭の土にホッとしている自分に気づいて、少々驚いている。
土を見て癒されるなんて、俺の精神は想像以上に、すり減っているのかもしれん。
そこへ居間の障子が開いて、ひょっこりとじいさんが顔を
「青葉、だっけ? よく眠れた?」
「おはよう。うん……まあ、そうだな」
なんだ、俺、凄くふわふわしている。
じいさんは振り子時計を見てから、当たり前のように言った。
「もう七時過ぎてるよ。早く支度して学校に行かないと、遅刻するんじゃない?」
「ああ、そうだな……急がなくちゃ」
じいさんの定型文のような言い方に、俺は自然とそう答えた。
居間には入らずに洗面台に向かって顔を洗い、寝癖を適当に触って、歯を磨いて、そして自分の部屋に戻る。
この流れは、これまでと何ら変わらない。
変わっていたのは、ここからだった。
「これな」
いつ誰が用意したのか。俺はハンガーに掛かっている、
よく見ると、詰襟の左右に取り付けられた金色の校章には、桜の中に五芒星が入っている。
「私立っぽいな」
そう思いながら、同じ黒のズボンを足を入れた後、白シャツの前ボタンを一つずつ留めていく。
第一ボタンまで閉めると、ちょっと苦しい。
シャツを着ていれば、首にカラーが当たらなくていいか。
「って、おい! 誰か止めろよ……」
思わず、口に出してしまった。
順調に通学の準備をしている訳だが、それこそが可笑しな話。
俺は中学、高校、どちらもブレザーだった。詰襟を着たこともなければ、首元のカラーが当たって痛い、なんて裏事情も知らない。
部屋の角っこに、細長い姿見が壁に立てかけらていた。鏡の中で、詰襟を着た自分を見ても、違和感をほとんど感じない。
「今日よりも明日のほうが世界に
制服は俺のために仕立てられたように、体にしっくりとくる。しかも詰襟だけでなく、ウールのロングコートまでタンスに入っていた。こちらも黒だ。
「面白い。腹は空いているが、このまま学校に行ってみるか」
どうせ、帰りたくなかった俺だ。
しかも、帰る手段も今はない。
この状況、楽しまずにどうする。
カバン、カバンと呟きながら、部屋をぐるりと見渡すせば、机の横に黒い革の学生鞄が置いてあった。
持ち上げてみると、重い。
ずっしりと何か入っている。
詰襟の校章を指でなぞりながら、俺はにやっと笑った。
「教科書まで揃っているとは驚きだな」
となると、当然のことながら、疑問が一つ湧いてくる。
「で、学校どこよ」
恐らくだが、家を出た所から俺は知っているはず。
どこに行き、何をすべきか。
じいさんに行ってくる、と声を掛けた後、玄関へ行ってみると、土間に黒の革靴を見つけた。
それも、俺の足のサイズだ。
「制服、鞄、教科書、靴。学生の俺に必要なものは全て揃った」
状況が変わってゆく様が楽しくなってきて、次の展開がどうなるのか俄然興味がわいてきた。
玄関の引き戸をガラガラと後ろ手で閉め、朝の空を見上げる。晴れちゃいるが、外気の冷たさは冬のそれらしい。
初めての場所を、俺は知っているようだ。
しばらく歩き、住宅街を抜けると児童公園が見えてくる。その先を左へ曲がると長い坂を上る。
二、三の角を曲がり、傾斜の少ない坂の上まで行けば、目標の学校があった。
革靴のソールに感じる路面の感触、詰襟の下に来た白シャツの息苦しさ。右手に持っている鞄の重さ。
架空の世界のものとは思えない、リアルな感覚に奇妙な興奮を覚える。
校門前まで来ると、通学してきた多くの学生たちが目に飛び込んできた。
「さてと、職員室に行けばいいんだよな。しかし、その職員室がどこにあるのか、さっぱり分からん」
俺はなんでも知っているはずじゃなかったのか?
早く連れていけよ、それが決まった道だというのなら!
脳内でイキっても仕方ないので、黙って校門をくぐる。
校舎の正面入り口まで来たが、そこから先が分からず立ち止まった。こっちだ、あっちだ、あれだ、と自然に発生してくる直感が湧いてこない。
どういうことだ?
いつもの倍くらい不機嫌そうに眉を寄せ、一人で
「転校生?」
初の村人イベント発生。
そうか、俺は転校生という設定か。
振り返ると、村人とは程遠い存在が立っていた。俺より少し背が高く、黒縁眼鏡をかけた見るからに好青年。成績優秀、品行方正な優等生とお見受けする。
女生徒じゃないのか、と少し肩を落としたことは許してほしい。ラブコメなら、最初に転校生に声を掛けるのは、学園一の美少女と相場は決まっている。
冗談だが、がっかりしたのは本当で、どうやら顔に出ていたらしく、そいつは苦笑いして俺に言った。
「僕で良かったらだけど、職員室まで案内しようか?」
俺は即座に「頼む!」と答えた。
「すぐ顔に出るタイプなんだね」と好青年はくすっと笑った。
彼は俺と同学年で、名前は
ここに現れる人間は時系列ではなく、同じ日に明治時代から来る者もあれば、俺の時代から来る者もいる、とじいさんに聞いていた。
名前は時代を反映しているらしいから、彼と俺は同じ時代の人間である可能性は高い。
話をしたい、と思ったが、昨夜、じいさんの言葉を思い出す。
「ここで自分の過去の話をする人なんていないよ」
無粋な質問は心に留めておくことにした。
気さくで話しやすい湯島くんと雑談している間に、目当の場所に到着。
「ここが職員室だよ」
眼鏡が似合う男前の湯島くんは、職員室の引き戸を静かに開け、行儀よく職員室に一礼すると、アラフォーと思われるグラマラスな女先生のところへ俺を連れていった。
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