第4話 扉が開いた日
全ての始まりとなった、この奇妙な世界にやって来た日のことを話そうと思う。
あの日、学校から家に着いたのは、夜の七時を回ったくらいだったか。部活に所属もしていなければ、バイトもしていない身の上としては、放課後から寝るまでの時間が有り余っていた。
率直に言うと。
「なんもすることがねぇ」
当然のように、小遣いも言わずもがな。消去法により、学校の図書館で宿題をやってみたり、適当に選んだ本を開いて、ページとにらめっこすることになる。
友人の家に遊びに行けばいい?
いや、お宅訪問が許されるほどの友人関係を、誰とも築いていない。つまり、自分の家以外に行く当てはない、ということだ。
何も考えずに没頭できる趣味でもあればいいが、それもない。あとは遠回りして、帰宅するくらいなものだろう。
夕闇というやつが、辺りを支配してきた頃が帰り時だ。
制服のまま、いつまでも外をぶらついているわけにもいかない。結局、マンションを溜息混じりに見上げることになる。
俺は父親と弟という男三人で、この古いマンションに暮らしていた。母親は病気で死んだ。よくある話だ。
その日も、いつものように、本当にごく普通に帰宅した。
建物の中に入り、すぐ目の前にある3基のエレベーター前に立った。
いつもは待たされるエレベーターが、ラッキーなことに一階で停止している。上向きの三角ボタンを押すと、扉がすっと開いた。
毎度のことながら、やたらと眩しいエレベーターの照明が、俺は苦手だ。顔がむすっと不機嫌そうなのは、そのせいもあるんじゃないか、と思っている。
部屋がある五階に到着すると、大きな音を立てて扉が開いた。
カバンから取り出しておいた家の鍵を指に引っ掛け、ぷらぷらさせながら三軒ほど通り過ぎる。
我が家の前に立って尚、気持ちが二の足を踏む。
「もう着いちゃったよ」
ドアに鍵を差し込んだ瞬間、中に入るのを
ちょうど
帰る時間が少し早すぎた。
鍵を回した時、舌打ちまでして、思わず口に出してしまった。
「入りたくねぇな」
本気で言ったんじゃない。
口癖のようなものだった。
「ただいま」
いつもどおり、仏頂面でドアを開ける。
開けてすぐに、自らの目を疑った。
俺は生涯で、あれほど高速で
足元を見る。
あれ?
畳?
玄関は?
夢?
いや、感触はリアル。
目の前に広がる景色は、見知らぬ居間だった。ちょっと風情を感じる古民家か、しなびた温泉旅館の部屋に見えなくもない。
ふらふらと引き寄せられるように、俺は土足のまま上がり込んだ。
十畳くらいだろうか。入って正面奥には障子があり、部屋と廊下が仕切られている。障子の下部に
マンションの間取りではない。
というか、一軒家のそれだ。
部屋の右隅には、どっしりと鎮座する奥行きありすぎだろ! とツッコミ待ちのブラウン管のテレビ。古美術商の壁に掛かっていそうな、小さな八角形の振り子時計。
そして、俺の目をクギ付けにしたのは、背中を丸め、こたつに両手をつっこんで座っている、ムスッとした顔のじいさんだった。
レトロな花柄の掛け布団も、我が家ではないことを証明している。
じいさんは俺の顔をちらっと見ると、
「ようこそ、夢の世界へ」
これ以上ないほど、俺は目を細めて、人の良さそうなじいさんを
「何が夢の世界だよ。じじい、お前は誰だ。っていうか、ここはどこだよ?」
「まあまあ、お座りよ」
寝ぼけているのか、と何度か頭を振ってみたが、眼前の風景は変わらない。
他に手立てもなく、俺は一歩だけ前に進み、じいさんを
突然、じいさんが短く声をあげた。
背後で音がした。
じいさんの視線の先には、俺が入ってきた扉がある。恐る恐る振り返ると、扉はきっちり閉じているではないか。
急いで立ち上がり、待ってくれと言わんばかりにドアノブに手を伸ばしたが、遅かった。
鍵がかかっているのか、びくともしない。
「ありえねえ……どうしてくれんだよ!」
どうやら俺が座った瞬間に、勝手に閉じたらしい。
扉をこじ開けようと試みたが、
閉じてしまったのだ。
あっという間の出来事で、情報の整理が追いつかない。
ドアの前でへたり込む俺を、じいさんが面倒臭そうに見ている。
今は目の前の老人に、話を聞く他あるまい。
俺はしぶしぶ、じいさんの近くに座り直した。
部屋の角っこに、小型冷蔵庫のようなテレビがある。クイズ番組が流れていた。パネラーが豪快に笑うと、何が面白いのか、じいさんも釣られるように、プププっと笑った。
少しうるさいですね。
そう思った俺は、テレビの音量を下げようと、辺りを見回すが、リモコンが見つからない。
じいさんはテレビを見て笑っていたが、
「音? 下げたいの? 画面の横にあるつまみ」
「これ?」
俺は膝立ちでテレビに近づき、それらしきダイヤルを見つけた。
「そうそう、それそれ。回してみてごらんよ」
金庫を開ける泥棒のように、俺はつまみをカチカチと回すと、音量が段階ごとに小さくなっていった。
造作もないわ、と対話の舞台を整えた俺は、再び膝立ちで先ほどのポジションへ戻る。
じいさんは頬杖をついて、落ち着きのない俺を目で追ってくる。
気にせず、問答を始めた。
「で、じいさんは、ここの住民?」
「住民? うーん、まあ、そういうことになるのかな」
「なんだよ、その気の無い返事は」
じいさんはこたつの上にあった籐籠から蜜柑を一つ取り出すと、おもてなしのつもりか俺に差し出した。
折角の申し出だが、俺は大事な話をしている。意志を持って、右手をじいさんに向けると、結構だ、と無言で返した。
じいさんは残念そうに、手を引っ込める。
「私も、あの扉から来たらしい」
「らしいって、人ごとだな」
「来たばかりの頃に自分で書いた日記には、そう書いてあったんだ。今更、読み返したところで、私には、かつての記憶がないのだから、他人の日記を読んでいるようでね」
正直、じいさんの話していることが理解できない。
参考に日記を貸してほしい、と頼んでみたが断られた。
「じゃあ……いいよ。で、じいさんはいつ来たの?」
「日記からの推測だけど、四、いや五十年くらい前かな。早いよねえ、時間が過ぎていくのって」
楽しそうに笑っているじいさんには悪いが、俺は卒倒しそうだ。
「五十年……穏やかじゃあないね」
じいさんは「まあねえ」と頷いた。
蜜柑を食ってる、この目の前の老人は未来の俺なのか? 体の力が抜け、半開きの口を閉める気力も失った。
どうするんだよ!
実際、脳内で叫んでみたところで、現時点では背後にある奇怪な扉に
じいさんは食っていた二つ目の蜜柑を、こたつの台の上に置き、代わりに俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「これだけは、言っておこうかね。大切なことだから」
話はこうだった。
この世界に足を踏み入れた時点で、今ある自分の記憶は、手のひらから砂がこぼれ落ちるように消えてゆき、徐々に新しい記憶に塗り替えられるらしい。
「ただね、自分は、あるべき場所から逃げてきたんだ、っていう痛みだけは」
と言って短く息継ぎすると、じいさんは自分の胸にこぶしを当てて続けた。
「残っているんだ、ここにね。理屈は分からないけれど、しこり、みたいなものかなあ」
なんと息苦しい沈黙の数分間。
言うべき言葉を探している間、テレビ画面を見つめたところで、頭の中は空っぽで何も浮かんでこない。
そして思考することを止めた俺は、いつになく前向きな気持ちで、こう考えることにした。すぐに忘れてしまう訳ではないし、それまでに解決策を見つければいい、と。
安易だと思うが、明日からどうやって生きていくかも、直近の課題であることは明白な事実。
「明日から……俺はどう暮らせばいい? 学校はあるの?」
学校のことなど聞かなくていいのだが、つい聞いてしまった。
「学校? あるよ。うちから通えばいいじゃない」
あるのか、学校。
とりあえず、路上生活はしなくて済むことは確認できた。
「ここで生きていく覚悟、出来たの?」
俺は首をゆっくりと横に振り、じいさんに答える。
「いや、俺は必ず帰るよ。方法は……まだ分かんないけど」
じいさんは小さく二度頷いて、最後に変なことを言った。
「知りたいことは色々あるだろうけど、もう寝ちまえ。心配しなくても、明日の朝になれば色々と分かるから」
「意味わかんねぇ……」
「今日よりも明日の方が、君は世界に
いよいよ分からなくなってきた。じいさんの存在も、こうして空気を吸っているこの場所も、なんなのだ、と。
情報量が多すぎて理解の範疇を超えた時は、一度、頭を空っぽにして忘れるのも一つの手だ。
夢なら覚めるだろうし、そうじゃないなら、また、その時に考えればいい。
ということで、俺はじいさんに言われたとおり、とりあえず寝ることにした。
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