第3話 交換日記

 桃子を家まで送り届けた後、土産を手にし、ほくほく顔で帰路についた。


 心は充足し、気分は上がりっ放しである。一人で帰る道のりは遠く、二人でいる時より寒く感じた。


 鼻をすすりながら児童公園まで戻ってくると、近所の見知った風景が見えてきた。


 思わず口元が緩んで、白い息がもれる。


 児童公園から家まで歩けば、十五分ほどだろう。走れば五分かな、と根拠のない計算を基準に、住宅地を一気に駆け抜けることにした。


 何故って?

 そりゃあ、ものすごくいい気分だから。


 胸を突き上げる衝動が、俺を走らせている。


 楽しい! 楽しい! 


 そう歓喜した自分を表現するかのように、鼻息荒く全力疾走した。


 しかしながら、一分も経たないうちに呼吸が乱れてきた。それでも、俺はまだイケる! と胸の中で叫びながら、あらん限り足を回す。


 二分が経過すると、先ほどまで脳を支配していた、生きる活力で有名なドーパミンが、体から跡形もなく消えた。


 足が、心臓が、絶叫している。


 まだ若い肉体のはずなのに、あまりに脆弱すぎて悲しくなってくる。せめて、ウルトラマンのように、制限時間いっぱい、三分は十分に戦える体力が欲しい。


 結局、気持ちに体がついていけなかった。上がった息を整えながら、足の弱った老人のごとく、片手を腰に当てて歩くはめになる。


 今夜は頭も体も、馬鹿馬鹿しいほどに忙しかった。


 寝静まった彼女の家の周辺を忍び足で歩き、ロミオとジュリエットのように両親の目を盗み、彼女を迎えに行った。夜の公園ではトンネルを根城として、二人で凍死しそうになったり。


 ついでに、初めて、恋人繋ぎをしたり。


 息切れはひどいが、今、俺は破顔している。


 今夜は寝る前に、今夜のことを五回は思い返すつもりだ。気持ち悪いかもしれないが、そのくらい嬉しかった。


 呼吸も整い始めた頃、目の先に目標の一軒家が見えてきた。突然、入り込んだ先が、この家だった。今では、ここに住んでいるというわけだ。


 なかなか趣のある木造建ての古民家で、マンション暮らしだった俺は結構気に入っている。


 当然、夜中に抜け出してきたわけだから、居候の身で、正面玄関から「ただいま!」とはいかないのが道理である。


 最初の関門である小さな鉄の門を、ゆっくりと押し開く。無情な細い金属音が、夜の帳が落ちた住宅地に響いた。


 寝静まった家に、目を凝らす。

 家人が起きてくる気配はない。


 ほんの少し安堵して、次は門を入ってすぐ左にある庭を、そろりそろりと横切る。ここも難なく通過。


 マイルームの開け放した窓の下まで辿り着くと、胸に小さな達成感さえ感じる。


 ミッションコンプリート。


 思えば、女子に誘われたからと言って、褒められたものではないが、こんな危険な賭けによく乗ったものだ。


 マンションの住人に通報される可能性。

 桃子の両親に激怒される可能性。

 野良犬もしくは不良に絡まれる可能性。

 警察に補導される可能性。


 全て起こり得る可能性のオンパレードだった。何事もなかったかのように、二人は温かい屋根の下へ帰還することが出来たことに、心から感謝したい。


 自然と頬が緩んでくる。


 その理由は色々あるが、皆まで言う必要はないだろう。


 木枠の窓を慎重に開けると、顔を撫でるように部屋のカーテンが風に揺れた。窓枠に両手をつき、思いっきり飛び上がる。


 顔にへばりついてくるカーテンが、どうにもこうにも邪魔だ。鬱陶うっとうしいカーテンをにらみつけ、部屋の畳に片足をつけた時だ。


 乗り越えたカーテンの向こうには、胡座あぐらをかき、腕組みした眼光の鋭い痩せた老人の姿があった。


 悟りを開いた仙人のような顔で、まんじりともせず、じいさんが俺の帰りを待っていた、というオチが用意されているとは。


 思わず窓枠に後ろ手をつき、ギョッとした顔でよろめく。


「び、びっくりさせんなよ、じじい……」


 この老人は、俺が居候している家の主だ。今の所、無下にしていい相手ではないことを言っておく。


 じいさんは俺の姿を見てうなずき「よっこらせ」と言いながら立ち上がった。


「お風呂、沸いてるよ」


 とだけ言い残し、ふすまを静かに閉めて、まさに風のように去っていった。


「な、なんだよ……」


 部屋に一人残された俺は、悪事を見透かされていたことに赤面したまま、冷気が吹き込んでくる窓をそっと閉めた。


「風呂か……入ってくるか」


 寒々とした廊下を渡り、風呂場の脱衣所に入った。


 身が縮まる思いをしながら、急いで脱衣し、追われるように風呂の中へと体を沈めた。


「ああ……あったけえ」


 ほどよい熱さの湯が柔らかに体を包み、手足の末端からじわじわと温めてくれる心地よさ。凝り固まっていた筋肉が、ゆるゆると解放されていく。


 立ち昇る湯気の中、一度目の回想に入っていた。


 彼女に期待しすぎたのだろうか。


 いな


 何故、女は男の想像の遥か斜め上の提案をしてくるのだろうか。断じて、俺は怒っているわけではない。


 真夜中の狭いトンネルの中で、分厚いダウンジャケット越しとはいえ、桃子と体を寄せ合い、他愛のない話や自分語りをするのは楽しかった。


 ああ、とても楽しかったんだ。


 寒いね、などと言って、じゃれあいながら公園を離れ、桃子をマンションへ送っていき、最後に向き合って「今夜はありがとう」なんて言われて、二人とも照れながら下向いちゃったりして、ふと顔を上げると、お互いの目が合ってさ。


 あっ、なんて同時に声が出たら、普通、するもんじゃないんですか?


 ちゅ、って。


 別れ際に突然、桃子がくれたもの。

 それは、A4サイズの新品のノートだった。


 俺が求めていたものは、形のないものだったのに。


 彼女は恥ずかしそうに、コートの上に斜めがけしていたバッグからノートを取り出したかと思うと、俺の胸に押し付けるようにして渡してきた。


 プレゼントなの? 

 勉強しろってこと? 


 意図が掴めず困った顔をしていたら、彼女は背伸びし、俺の耳元に頬を寄せささやいた。


「ね、交換日記、しよ?」  


 もちろん、答えはイエスだ。


 しかしながら、部活動同様、日記を書いたこともなければ、ましてや女子と日記を交換したことなどない。そもそも、そんな面倒なことをしているカップルを俺は知らない。


「ノートの最初のページに、ルールを書いておいたよ。ちゃんと守ること。青葉くん、いい?」


「わ、わかった」


「記念すべき最初のページは私が書いたから、次は青葉くんだよ」


 俺は字が汚い上に、文章を書くことに慣れていない。


 こりゃまいったね、と頭をいていると、桃子が更に追い討ちをかけてくる。


「書き終わったら」


 はい。


「明日は半ドンだからお昼までに、私の下駄箱に戻しておいてね」


 俺、仕事を安請け合いし過ぎた、下請け業者のようになっていないか?


 ちなみに、半ドンとは、午前中だけ授業がある土曜日のことだ。


 桃子はいいパンチを持っている。強烈な甘い連打には、さすがの俺も膝を屈してしまった。思い出しているだけで、顔がニヤけてしまう。


 風呂で十分に温まった体を拭きながら、今夜の桃子のファインプレーを脳内で繰り返していた。


 洗面台の鏡に映る俺に、小さく溜息をつく。

 三分もたないのでは、全くお話にならない。


 いざと言う時のために、細マッチョを目指すべきだろうか。

 

 腹筋に力を込め、両腕を高く持ち上げる。上腕二頭筋をぷるぷるさせながら肘を曲げ、こぶしをちょっと耳に近づけてみた。


「それより先に、やっぱチュウだろ」


 そんな日は来る。来ない。来る。来ない。いやきっと来る。俺は花をむしって占ったりしない。桃子を信じているから。


 まあそれはともかく、俺は腕を下ろした。


 頭にタオルをのっけて髪をゴシゴシと拭きながら、弟の雪葉ゆきはには、まだ早い話だな、と兄らしいことを思った自分にハッとして顔を上げる。


 鏡の中のあほヅラに、ケッと笑った。


 自然と浮かんだ名前に、胸がうずいて眉根を寄せた。痛い、と言った方が正しいか。あいつ一人で父さんを世話できているんだろうか。思い出すたびに、自己嫌悪におちいる。


 自分の不注意で来てしまったとは言え、あの扉が開かないんじゃ、どうしようもない。


 許せ、雪葉。


 脱衣所の壁に掛かっている年間カレンダーに目が留まった。年号は書かれていない。


 じいさんの家に住み着いて、約一ヶ月が経とうとしていた。


 竜宮城にでもいるような気分だ。いつの間にか、当たり前のように日々を過ごしている不思議さ、恐ろしさがごちゃ混ぜになっていた。


 もう一度、鏡に映る自分に目を向けた。


 さっきから頭の片隅で、ベソをかいている俺に言ってやる。


「心配すんな。俺はまだ、お前のことを覚えている」

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