第2話 恋の暴走列車
桃子は窓から身を乗り出し、大きな目を更に見開いて、無言で手を振っている。
俺は戸惑っていた。
笑えばいいのか?
出した結論が、無表情、無言とは、我ながら情けない。分かっていることだが、経験値が圧倒的に足りないのだ。
何より情けないのは、緊張がもたらした不甲斐なさよりも、自分の安いプライドを優先してしまったことだろう。桃子を喜ばせることより、はしゃいでいる本心を知られるのが恥ずかしかったのだ。
どこに飛ばされようが、人の本質というものは、早々変わらないらしい。
俺の不愛想にも、桃子は動じることはなく、声を最小限に抑え気味に努めながら、見上げる俺に何かを伝えようとしている。
おいおい、桃子ちゃん、何が言いたいのか全然分からないよ。視力は良い方だが、夜の住宅地で読唇術を読み取ることは至難の技である。
目を凝らして、桃子の唇に注視した。
はい、読めました。
い、ま、い、く、ね、とメッセージを送ってきやがった。
「く」の時に、すぼめた唇が最高である。
足元に視線を落とし、ニヤける顔は隠すしかあるまい。顔を上げた時には、いつの間にか窓は戸締りされていた。
しばし彼女を待つことにした。家族に見つからないように、こっそりと玄関を出てくるには、少し時間が掛かるとみた。
それにしても、彼女からの申し出とはいえ、女の子を深夜に連れ出してもいいのだろうか。俺は三秒くらいだが、道徳めいたことを考えたりもした。
しかし、正直そんなことはどうでもいい。
こうして腕組みして待っている時間さえも嬉しすぎて、楽しくて、心臓が外に飛び出しそうなくらい弾んでいるのだから。
こんなところを誰かに見られたら、というスリル。加えて、真夜中に女子と一緒に、親にも内緒で出かける背徳感。しかも、向こうからのお誘いである。
男子高校生たるもの、この一夜を期待しないで何とする。
「こんばんは、青葉くん。お待たせ」
横から桃子のひそひそ声が聞こえた。声の方に顔を向けると、桃子がコートに腕を通しながら近づいて来た。
身に
「じゃあ……行こっか?」
少し上目遣いで、桃子が
天に感謝をするかのごとく、俺は空を見上げる。
真冬の夜空は、本当に星がきれいだ。
いや、君の方がもっときれいだ。
生涯、口にすることはないだろう言葉まで、思わず発してしまいそうなほど、夜空も深夜の
歩くたびに揺れる桃子の髪から、ほのかに洗い髪のいい匂いがする。俺は真面目な顔で鼻をふくらませたまま、隣を黙って歩いた。
寝静まった住宅地での人の声というのは、厄介なほど響きやすい。気持ちが高揚しているからと言って、おしゃべりは禁物である。
そこで、桃子曰く「お口にチャック」だ。
俺と桃子は、十分ほど歩いた場所にある児童公園に向かうことにした。無言で歩かざる得ないが、道中も楽しすぎる。
時折、桃子がわざと肩をぶつけてきたり、ちらりと俺を見て微笑んだりするせいで、チョロ火だった心の炎も
俺は中肉中背の身長173cm、彼女は160cmくらいだろうか。そこまでの身長差ではないものの、桃子が俺を少し見上げている感じ。
凄く、いい。
そうこうしているうちに、児童公園の入り口にある電話ボックスが見えてきた。まだ使ったことはないが、今後は世話になりそうな予感。
誰もいない夜の公園には、独特な雰囲気がある。
俺は怖いと感じたのに、桃子は落ち着く、そう言った。
桃子は入り口で立ち止まると、満面の笑みを俺に向けて、公園の奥の方を指差した。
暗闇の中から顔を出すように、公園を取り囲む木々が薄っすらと見える。外灯もあるにはあるが、やはり薄気味悪い。
どういう神経で、この風景が落ち着くのか、俺には理解が追いつかない。
「ねえ、あれが私たちの基地、ってことにしようよ」
「え? あれに入るの?」
桃子が能天気に指差したのは、赤、青、黄色のペンキが剥げかかった、古い連結車両の遊具。中が空洞になっていて、トンネルになっているようだ。
繊細な心の持ち主である俺には、恐怖列車にしか見えない。
あの中に先客がいたら、一体どうするつもりなんだ。この子は女の子だというのに、警戒心が皆無である。
桃子は常に、未知への好奇心に
ここの住人は、社会から逃げてきた人間ばかりだと聞いていたが、タイプが違わないか? それとも彼女は、俺が生み出した幻想か?
とても彼女にいわくつきのバックストーリーがあるとは思えないし、考えたくもない。
「あのトンネルの中で並んで座って、おしゃべりしようよ。ワクワクするでしょ?」
そりゃあワクワクするけれども。
両頬にエクボを作り、悪戯っぽく笑ったかと思うと、彼女はペンキの
「元気だよな」
俺は冷気に体を縮こまらせ、ダウンジャケットのポケットに両手をつっこんだ。小刻みに震えながら、ゆっくりと歩きながら彼女の後を追う。
あまり悠長にしているわけにもいかないようだ。トンネルの側で、桃子が早く早く、と手招きしている。
「……期待しても、いいんですかね」
外灯が指し示すスポットライトの下で、桃子が微笑んで立っている。俺は思わず小走りになった。そして、一緒に冷気を避けるように、列車の中へ飛び込んだ。
停車中の青葉号は真夜中発、大人の階段行き特急となっております! 尚、恋の暴走列車のため、発車の際は激しい揺れを生じることがございます! 振り落とされないようご注意ください!
ノリのいいアナウンスが、出発のベルと共に頭の中で勝手に鳴っていた。
何も列車型トンネルの中で、いかがわしいことを計画している訳ではない。もしかしたら、何かあるかもしれない、という淡い期待を列車に例えたにすぎない。
実際のところ、俺たちは早々に児童公園を立ち去ることになる。
最初は、狭いトンネルの中で並んで座っている状況だけで、二人は笑いが止まらなくなり、くだらないことで盛り上がったのは確かだ。
しかし、大切なことを失念していた。
季節は冬。
長時間、外でおしゃべりしていて、体が無事でいられるほど、生易しい気温ではなかった。
「寒いね……青葉くん、大丈夫?」
ちらりと横目で、桃子を見た。
トンネルの小さなのぞき窓から差し込む月明かりが、桃子の顔の下半分を照らしている。唇は半開きになったまま、震えているのが分かった。
もう少しなら、俺は頑張れそうだったが、彼女は家に帰した方が良さそうだ。無理な作り笑顔は、まったくもって彼女には似合わない。
「俺は平気だけど……」
「本当? 大丈夫?」
「うん、平気。男は女より体温が高いらしいから。でもさ、やっぱ外は寒いよ。風邪を引く前に、今夜は帰ろう?」
もっともらしい紳士的な助言に、俺自身が満足している。
桃子は小さく
桃子を家まで送っていくことになり、二人で児童公園を出ようとした時だ。
少し生気を取り戻した桃子が、俺を見上げながら、にっこりと微笑んだ。そして、そのまま俺の左手の指に、そっと触れてきた。
俺にも
一つ贅沢を言わせてもらうなら、ちょっと手袋が邪魔だった。
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