交換日記は下駄箱の中に
くにたりん
第1部
第1話 プロローグ/ 賽は投げられた
ここに扉がある。
現実と夢の
入ってしまえば、戻れないかもしれない。
帰りたい、と望むこと。
それこそが鍵である。
扉の中に入り込んだ者たちの理由は、
ただし、踏み込んでしまえば、記憶の忘却が始まる。
記憶とは、視覚、触角、味覚、嗅覚、聴覚といった、バラバラに分散した知覚情報のモザイクが結集されたもの。それこそが脳裏に浮かび上がってくる、いわゆる思い出である。
加えて言うならば、五感で刻まれた思い出というものは、良くも悪くも簡単に消えることはない。
それは、父、星宗介が若い頃から愛用していた香水である。カルバンクラインのエタニティ・フォーメン。亡くなった母親が、宗介と迎えた初めてのクリスマスにプレゼントしたものだと言う。
香りは記憶とリンクし、あの日の居た
宗介は妻の亡骸を前に、小学六年生だった青葉と四つ下の弟、
ジャケットから香った匂いは、強烈に青葉の記憶に残った。涙をいっぱい目に貯めた弟と、
苦い記憶は封をして、大切に遠くへ仕舞うことにした。
そして、悪戯に月日を重ねるだけの高校二年、十七の冬に、それは起こった。
青葉は、二人の前から
――――――――――――――――――――
星青葉。
この物語の主人公、つまり俺の名前だ。
都内の私立高校に通っていた。
そう過去形である。
多摩川を挟んで橋を渡れば世田谷なのに、という便利だけど微妙に残念な町で、父親と中学一年生の弟、雪葉と三人で暮らしていた。
この世界に辿り着いた経緯は、改めて話す時間が欲しい。簡単に言えば、家に帰ったつもりで玄関を開けたら、秒で奇妙なこの世界にいた。
レンジでチンしてメシが出来るよりも、ずっと早かった。
不慮の事故でぽっくりと死んで、辿り着いた先はRPGの世界だった、というわけでもない。勇者もいなければ、魔法使いも女剣士も獣人も、ましてや魔王もいない。
ここは、ごく普通の見知った世界とも言える。少し前の時代へ、タイムスリップしたような感覚だ。
さて、今、どこで何をしているのか、と問われたら。
住宅街の一角に立つ五階建、オートロックなし、エレベーターなしのマンションの敷地を、住人に
時刻は真夜中。
目指す先はクラスメート、
女子から深夜の
積極的な彼女に言われるまま、こうして俺は人目を忍んで会いに来ている、というわけだ。
白壁に青い屋根、そして華奢な黒い鉄の蔦で装飾されたバルコニー。このマンションの外観は、都内のどこかで見た記憶がある。
ダラダラと敷地の中を、ただ徘徊している訳にもいかない。俺が来ていることを、部屋にいる彼女に伝える必要があった。
スマホもなければ、携帯も存在しない世界。よって、SNSもメールもない。
というか、現代の世界において、ライフラインとも言えるインターネットは、こちらでは、ファンタジーの類に分類されるだろう。
電話はある。
これが面倒だ。掛けると言っても、この世界で言う電話とは公衆電話か、或いは家や会社に備え付けられた固定電話のことを指す。
つまり、電話を使って桃子に連絡するのであれば、公衆電話か自宅から、彼女の
例えば、こんな風に。
「こんばんは。夜分に遅く申し訳ありません。クラスメートの星青葉と申します。桃子さんはご在宅でしょうか」
ここまでスラスラと話せるかどうかは別にして、桃子曰く、夜の電話は遅くとも九時までが礼儀、ということだった。
それ以前に、女子に電話をかけるといった高等技術を、俺は持ち合わせていない。
深夜に電話を掛ければ、彼女の家族に問答無用で怒鳴られ、受話器を叩きつけられ、取り次ぎ禁止となる未来しか浮かんでこない。
よって、今の俺の状況を考慮すれば、
残された手段は、ただ一つ。軽く握った右手に潜ませた小石を投げること。
賭博師のごとく、こぶしの中で小石を振りながら、目的地を探した。
漫画であれば、恐らく俺の頭上には、シーンと擬音が描かれているに違いない。そのくらい辺りは静かである。
ミッションの
桃子の手紙によれば、恐らくこの辺りのはず。
ジーンズの後ろポケットから、紙を取り出す。音を立てないよう慎重に事を運びたいが、折り目を開くだけのことが存外難しい。
桃子が放課後の理科室で渡してくれた、ハート型の特別仕様となっているせいだろう。四つ折りで良かったんじゃないだろうか。
試行錯誤の末、開封に成功。中に書かれた地図を速やかに確認する。
あっちだな。
立ち止まっていた地点から、二つ目のマンションの入り口を通り過ぎると、投石ポイントを発見。二階の角部屋が、どうやら彼女の部屋らしい。
緊張をほぐそうと、ゆっくりと首を回した。
もう寝ていますよ、という家族へのメッセージのつもりなのか、部屋に明かりはない。
部屋の真下に立ち、二階を見上げる。
なんだ、この高揚感は。
緊張と同時に、胸の高まりが全身を覆っていく。
一方で、彼女の微妙な手書きの地図には、
だが、ここまで来て逃げるという選択はない。
小石を命中させる確率を推し量る前に、俺の運動性能について少し語っておこうか。
こちらへ来る前の話だ。
大して裕福でもない父子家庭のくせに、都内の私立高校に通わせてもらっていた。中学、高校を通じて、俺に部活動の経験は一切ない。
一発勝負という局面において、こんな頼りない自分の経歴が今夜の勝敗を分けると知っていたら、俺はバスケ部に入部していたかもしれないのに。
ぐだぐだと言っても仕方ない。
覚悟を決めよう。
窓ガラスに照準を合わせ、胸中で成功を祈りながら、小石を放り投げる。ガラスに当たって、一瞬、音が闇に響いた。
桃子の部屋ではなかった場合も、想定しておく必要があるだろう。来た道を逃走経路に決め、体を若干斜めに傾けたまま、静かに次のステージを待つ。
そろりそろりと、申し訳なさそうに静かにゆっくりと、窓がスライドした。
「青葉くん」
押し殺した桃子の声は、少しエロかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます