オーバーラップ

美村ミム

第1話 COMMUNE 2084

 左耳のモニターからビープ音が鳴る。 

 仲間からの合図だ。

〈どうだ、システム侵入できそうか?〉

 ノイズの混じった通信を無視して、ラップトップを叩き続ける。

 雑居ビルの屋上が好きだった。人目につかない上に、見晴らしもよいからだ。

〈おい、聞いてんのかよ!〉

 熱のこもった声が耳を刺す。

「そう焦るなって。まずはこいつに探索させる」

 小型無人機ドローンを取り出して、屋上の床に設置する。

〈こいつってどいつだよ。もしかして、おれたちがお前を殺しかけたこと、まだ根に持ってんのか?〉

「当たり前だろ」

 ドローンの光学迷彩を有効化アクティベートしながら、当時を思い出す。

 二年前のことだ。殺されかけたことには違いないが、本音をいえば恨んでなどいなかった。口には出さないが、むしろ感謝さえしている。あのコミューンでの出来事がなければ、いまの自分はいない。

〈ふん、まあいいさ。唯川ゆいかわ、そっちは任せたぞ。適宜連絡しろ〉

「了解」

 エンターキーを叩き、ドローンが問題なく飛行するのを見届けると、唯川はヘッドセットを目元までずり下げて、ボイスコマンドで起動させた。システム侵入に最適化された仮想インターフェイスが視界に広がる。

 正気を確かめるために、何やら言葉を呟く。二年前、あの丘の上でリゲルが発した声明と同じ文言だ。

 だいじょうぶ。これはただの狂気なんかじゃない。

 インターフェイス越しに、ビル群の上空を進むドローンを眺める。

 その間だけは、二重写しの世界が一つになって見えた。


    * 


 目の前で、巨大な門が口を広げていた。COMMUNE 2084と銘打たれた眩いネオンが、音楽のビートに合わせて明滅している。門をくぐって中に入ると、まもなく受付の女性が出迎えてくれた。彼女の袖口からは、鈍色の関節がのぞいている。

〔唯川ユイ様、お待ちしておりました。これから私が当コミューンをご案内します〕

「ええ……」と生返事をする。

 彼女の背中についてコミューンを歩き回り、説明を受けた。その間、唯川はほとんど上の空だった。

 二〇八四ねえ、と彼は独りごちた。

 二〇八四年を目標に「分かち合い」を規範とする社会を実現すること。このコミューンがその第一歩になればいい。創設者ファウンダーたちは口々にそう語った。しかし、その数字にオーウェルへのオマージュが込められているのだとすれば、完全にネーミングセンスに欠けている。くだらないし、何より不吉だ。

 とはいえ、彼らにはある種の先見の明があり、計画が成功したことに疑念の余地はない。二十一世紀も半ば、UberやAirbnb、Lyftなどのプラットフォームをさきがけとしたシェアリング・エコノミーが、ようやく一つの終着点に辿り着いた時期だった。そんなムーブメントの最中で「分かち合い」をテーマに掲げたコミューン設立のクラウド・ファンディングに巨額の投資が集まることを、彼らは確信していた。

 また、彼らは広報活動PRに長けていた。一世紀ほど前のことだ。北米でヒッピームーブメントが生まれ、数々のコミューンが形成された。日本でも、国分寺や西荻窪にヒッピーたちの拠点があった。そこで人々は愛と平和を唱え、平和な生活を楽しんだ。

 しかし、それはもはや時代遅れだった。創設者たちはあらゆる広告手段を用いて、このコミューンがかつてのヒッピームーブメントと決定的に異なっていることを巧みに示した。コミューン全体のデザインはあくまでミニマルであり、洗練されていることが徹底された。同様に宗教的・非科学的なイメージを排除し、フリーセックスを匂わせる性的な表現は避けた。巧妙な宣伝により、この新たなコミューンが旧世代的というよりもむしろ超現代的であること、現存の価値観の否定の上に成立しているのではなく、着実に進歩する文明への適合のために設立されたことを表明した。ウェブメディアでは共産主義への回帰だと揶揄されたが、結果的にそれは宣伝効果を高める刺激剤となった。

〔こちらがセントラル・タワーです。食事や日用品など、生活に必要なものはこちらで支給されます。二十四時間オープンしていますので、お好きなときにご利用ください〕

 女性が手のひらで示した先には、灰色の塔が青い空に向かって屹立しており、その鈍く光るファサードは過剰なまでに洗練されていた。

〔――私からの説明は以上になります。何かご不明な点はございますか?〕

「いや、何も……」

〔それでは、よい一日をお過ごしください〕

 入居手続きチェック・インを済ませた後、すべての所有物を預け、代わりに洋服を受け取った。セントラル・タワーの更衣室で着替えながら、受付の女性が人間ではないことを、ふと思い出した。

 衣類は初めに一着だけ新品を支給されるが、その後はセントラル・タワーのワードローブから貸し出しされる。下着を除いたほとんどがコミューン入居者の私物だが、衣類をシェアすることでコミューンの利用料金がディスカウントされる仕組みらしい。赤の他人の服を着るのは少々はばかられるが、仕方がない。

 着替えを終えて、いきなり広大な敷地に放り出された唯川は、途方に暮れてしまった。敷地は円形に広がっているが、見渡す限り特別なものは見当たらない。いくつかのなだらかな丘と、本物と見紛うような人工芝の上に、舗装された道が開けている。輪になってくつろぐ男女の集団や、宿代わりのセルが点々と散らばっているのが見える。

 どこか遠くの異国の地へ訪れたような寄る辺ない心持ちで歩いていると、若い女性を見つけた。丸いサングラスをかけて、木陰で寝そべっている。さて、どうしようか。唯川は話しかけるべきかどうか思案してみた。というのも、周りの様子を見る限り、入居者の多くはすでにグループを形成していたからだ。まだ集団に属していない人間に早いところ声をかけて知り合いをつくることは得策のように思えた。とはいえ、相手は女性であり、自分のような男が入り込む余地はないかもしれない。このコミューンにおいてフリーセックスが推奨されていないにせよ、彼に一抹のいやらしい気持ちがないわけではなく、その隠れた下心が彼を臆病にした。

「あの……」

 逡巡しているうちに、うっかり口を滑らせた。女性がサングラスを上げてこちらを向いたので、彼は前後不覚になりながらも次に続く適当な言葉を探した。ついでにいえば、彼女はとびきりの美人だった。

「はじめまして。さっきここに着いたばかりなんです」

「へえ、あなた学生?」

 鋭い眼差しが唯川を捉えていた。

「大学四年です。ここで一ヶ月間過ごして、自分を見つめなおそうと思って。学生生活もこれが最後なので」

 底の知れた建前だった。断言しても構わないが、自分を見つめ直すために別の環境に身を置く行為は単なる甘えだ。だからこそ、益体もないことを口走ってしまった自分を嫌悪した。有り体にいえば、持て余していた学生生活最後の余暇を刺激的に過ごしたいだけだった。女性がこちらの建前を見抜いた様子でじっと黙ったので、

「それで……ええと、あなたはなぜここへ?」

「わたし?そうね、何も持たずに、一人きりで過ごす時間が欲しくて」

「珍しいですね。みんなここで仲間をつくるのに」

 女性が目を逸らし、束の間の沈黙が訪れる。唯川は意を決して「ところで」と彼女の注意を引いた後、こう訊ねた。

「お名前を訊いても構いませんか?」

 その直後、自分の犯した過ちを後悔した。彼女の顔には呆れた表情が浮かんでいた。

「……あのね、言ったでしょ。悪いけど、わたしは一人きりで過ごしたいの」

 その場から逃げ出したかった。居心地の悪くなった唯川は、顔に朱が差すのを感じながらも、平常心を装って立ち去った。


    *


 真っ白な空間に思わず目が眩んだ。

 セントラル・タワー内部は日が暮れても依然として明るい。

 フロアでせわしなく歩き回るリゲルたちを、スツールに腰掛けた入居者たちが目で追っている。仕草ジェスチャで合図を送ると、そのうちの一体がこちらへ歩み寄り、用を訊ねてきた。

〔ご用件をお伺いします〕

「そろそろ夕食にしたい」

〔かしこまりました〕

 合成音声で応え、近くのエレベータに乗りこんでいった。

 その後ろ姿を眺めながら、しばし時間を持て余す。

「――もう耐えられない、こんなところには居られない」

 突然、背後から震え声が耳に入ってきた。振り返って見てみると、中年の男性がリゲルに向かって退会手続きチェック・アウトをしているところだった。しかし、どうも様子がおかしい。さっぱりとした服装とは裏腹に、その表情だけに絶望的な影が横たわっている。一体何が起きたのだろうか。

〔注意:滞在予定日数が十八日間残っています。退会手続きを進めてもよろしいですか?〕

「ああ、もういい、もういいんだ……」

 消え入りそうな声で男が言う。

 対応を終えてリゲルが去ると、男は壁際に力なくしゃがみこんだ。様子が気になったが、自分に関係のないことに首を突っ込むつもりはなく、フロアを歩くリゲルたちに視線を戻した。

 プログラミング技術を見込まれてIT系企業に入社が決まっていた唯川は、テクノロジーに造詣が深かった。リゲル。フロアを往来するオートマトンたちの名前だった。正式名称はR-06。その愛称は「巨人の足」を意味する白色の恒星に由来している。白い筐体ボディから伸びている逆関節の二本足は、華奢な上半身に不釣り合いなほど太くたくましい。しかし、下半身が強靭でなければ上半身を支えるのは難しい。ロボット工学の基本だ。

 受付の女性とは系譜を異にするモデルだった。人工声帯の代わりに合成音声が、人工皮膚の代わりに樹脂やカーボンが使用されている。ほとんど完璧に人と見分けのつかないヒューマノイド型人工知能が登場したいま、中国の工場で大量生産されたリゲルの市場価格は下落の一途を辿っている。しかし旧型とはいえ、人間が日常的に行う作業であれば十分にこなす能力があり、基本的な文脈認知能力コンテクスト・アウェアネスの機能を備えている。

〔お待たせいたしました。食事をお受け取りください〕

 リゲルが食事のパッケージをトレイに乗せて戻ってきた。まるでアメリカのTVディナーみたいだな、と軽口を叩きながら唯川はタワーを後にした。


 降りてきた宵闇が空を染めていた。

 唯川は街灯の近くに腰を下ろし、早速食事に取り掛かった。サンドイッチに、サラダとスープが付いている。

 支給される食事には、三十年ほど前にフードロスを解決すべく開始ローンチされたフード・シェアリングサービスの後釜が絡んでいるらしい。街の食料品売り場やレストランなどで余った膨大な賞味期限間近の食材がコミューンに提供されているとのことだった。廃棄物。そう言ってしまえばそれまでなのだが、味は悪くない。メニューも毎日変わるらしく、現状では文句なしだ。あえて難癖をつけるならば、見てくれが良いとは言い難い点か。

 一人きりの夜は寂しくもあったが、ある意味で孤独を楽しむ程度の余裕を残していた。逆説的ではあるが、何もない場所で何も持たずに過ごす退屈な夜が刺激的に感じられたのだ。

 遠くから男女の嬌声がかすかに聞こえた。

 孤独を楽しんでいるとは言い条、これからの一ヶ月間、何もないこの場所でどう過ごせばよいのか皆目見当がつかなかった。ただ、まずは知り合いをつくるところから始めなければならない気がしていた。仲間と過ごすことは、このコミューンの不文律だ。

 夜闇に浮かぶセントラル・タワーを見上げながら、ワークショップが開催されていることを思い出す。きっかけとしては悪くないだろう。欲をいうならば、女性との出会いがあるといい。しかし日中の出来事で出鼻をくじかれてしまった。思い返すと悲惨な気持ちになるばかりか、怒りが沸々とこみ上げてくる。せめて名前くらい教えてくれても構わないはずだ。

 クソ、お高くとまりやがって。

 ひどく自尊心を傷付けられて、いつの間にか歯を食いしばっている自分に気がついた。しかしまだ時間は十分にある。何も焦る必要はない。だいいち、高飛車な女は嫌いなんだ。

 食事を終えたあと、タワーでシャワーを浴びてから、簡易型天幕ワーム・セルを借りた。ドーナツ状に縮まったセルを人工芝の上にセットし、スイッチを入れる。唸りをあげながら外気を取り込み、巨大な芋虫ワームのように膨らんでいく。

 中に潜り込んで横になると、眠りはすぐにやってきた。

 

    *

 

「いま、シェアリング・エコノミーは成熟期にある。きみたちは自分の車を買うことなどないだろうし、コワーキングスペースやテレワークを活用すれば、わざわざ会社に足を運ぶ必要もない」

 気怠い午後だった。大学の講堂で、恰幅のよい初老の教授がそう言ったことを唯川は覚えている。

 スクリーンに映し出されたスライドが次のページへ進む。

「つまり、あらゆる物、空間、時間、能力を共有することで、人はあえて所有する必要がなくなったわけだ。そして製造業の多くはロボティクス産業となり、かたや従来の製造業、特に自動車の国内製造量は大きく減少している――これはパラダイムシフトだ」

 教授が熱弁している中、ほとんどの生徒たちは机の下で携帯端末のゲームに興じている。

「あるいは、こう反駁するかもしれない。ぼくたちはまだいろんなものを持っているよ、と。その通り。コンピュータ、ロボット、デバイス、衣類品。きみたちはまだ、たくさんのものを所有している。だが、一つだけ確かなことがある。これから数年の間に、きみたちはますます物を持たなくなるはずだ。さて、ここで少し考えてみてほしい。そのとき、きみたちが最後の最後まで所有しているものはなんだと思う?」

 教壇を降りた教授が、最前列に座る生徒を指名して意見を仰いだ。

 不意を突かれた生徒はうろたえながらこう答える。

「えっと、家、ですか?」

 教授はふむ、と腕を組みながら教壇に戻った。

「想定していた答えとは違うが一理あるね。きみの言う通り、住む場所はある意味で最後の砦なのかもしれない」

 間違いを褒められた生徒が決まり悪そうに照れ笑いをする。

「他に意見がある人は?」

 教授が静まり返った教室を見渡したが、挙手する者は誰一人としていなかった。


    * 


 慣れない場所で眠ったせいか、前日の疲労感が身体の底にじっとりと残っていた。

 緩慢な動きでセルから抜け出すと、セントラル・タワーの近くに入居者の集団が立ち並んでいた。目をすがめて見てみると、どうやら〈発見〉のワークショップらしい。

 コミューンに入居する前、ウェブからある情報を仕入れていた。ワークショップとはすなわち、スキル・シェアリングだ。入居者ならば誰でも自らの能力や知識を活用してワークショップを企画することができるのだが、著名なクリエイターやアーティストの開催するワークショップに集中的に人気が集まっているのが実体だそうだ。

〈発見〉のワークショップは、ミニマリストとして名の知れた人物がインストラクターを務めている。何もない環境で、まだ見ぬ新しい価値を発見する訓練を行うらしい。参加者は物を所有せずとも、新たな喜びを発見することができるようになるという触れ込みだ。

 唯川はその日のワークショップの予定を確認するために、セントラル・タワーへ向かった。

〈共感〉をテーマにしたワークショップが数分後に迫っていた。子供騙しの遊び程度にしか期待していなかったが、迷わず予約した。決め手は、このワークショップが個人ではなくグループで行われることだった。友人を、あるいはパートナーを見つけるには絶好の機会に違いない。

 セントラル・タワー五階の一室に入ると、ワークショップはすぐにでも始まりそうだった。室内には十数名のメンバーがいて、何人かはすでに他愛のない会話を交わしている。もう少し早く来て、先に打ち解けておくべきだったか。唯川は乗り遅れたような焦りを感じた。

 すぐにインストラクターの男が部屋に入ってきた。

「本日は〈共感〉のワークショップへお越しいただきありがとうございます。さて、みなさんが所有物から完全に解放されたとき、人と人とのコミュニケーションはいままで以上に重要な意味を持ちます。これからの時代、相手の気持ちを慮るための共感力がますます必要になるはず――」

 身振り手振りを交えながら饒舌に語られる前説を控えめに聞き流し、唯川は周りを見渡した。ある者は目を輝かせながら、またある者はしきりに頷きながら話に聞き入っている。なんだこれは。くだらない。おそらくその界隈では有名な人物なのだろうが、唯川はその類に関してまったく興味がなかった。

「それでは、これからみなさんには四つのチームにわかれてもらいます」

 パワーポイントで座席表が映し出された。唯川はAチームだった。

 テーブルにつくと、唯川の他に二人のチームメンバーがいた。目の前には二十代前半と思われる男性が座っており、彼は中村徹と名乗った。

「フリーランスでライターやってます。よろしくっす」

 顔をくしゃくしゃにして笑う中村を見て、早速気持ちが萎えた。この男の脳みそが足りてないのは明らかだ。何も考えていない直情的な男だと一目でわかる。

「おれ、いつか自分自身を仕事にしたいと思ってるんです。ここの講師みたいに」

 インストラクターを指差して、中村が照れながら笑う。その笑顔イラつくからやめてくれよ。それでも彼の笑顔は屈託がなく、多くの人にとっては好青年に違いなかった。そんなところが尚更気に食わない。

 それに比べて、中村の左隣に座る女性は好印象だった。七瀬夏実と名乗ったその美しい女性は、普段はシステムエンジニアとして働いているらしい。ついにエンジニアでも長期休暇を取れるような時代になったのよ、と彼女は嬉しそうに話してくれた。自信に溢れた聡明な顔つきをしながらも、その表情に不遜な影は少しも見当たらない。

「それでは早速、ワークを進めていきましょう」

 インストラクターの合図と同時に、アシスタントのリゲルがテーブルに機材を運んできた。〈FIGURE〉と呼ばれる拡張現実AR向け触覚フィードバック型デバイスだ。仮想空間上の触覚再現技術は、ゲームや医療、プロダクト開発などの分野に応用されている。

 各々がヘッドセットとグローブを一斉に装着した。静かな起動音と共に、視界に半透明のインターフェイスが展開する。指先で机の上をピンチアウトして、格子状のワークスペースを広げる。

 まず初めに、とインストラクターの声が聞こえた。思い思いにいまの感情をゲシュタルトに変えていってください。ただし、あまり深く考え込まないように。直感を信じて、視覚パーツと触覚パーツを組み合わせるんです。レゴブロックみたいにね。

 唯川は手始めに、アイテムボックスからいくつかパーツを取り出し、柔らかく冷たい星型八面体ステラ・オクタンギュラを造ってみた。指で挟んで潰そうとすると、グミキャンディーのように押し返される。しばらく奇妙な感覚を楽しんだ後、ゴミ箱に捨てた。

 サイケデリックトランスが流れている。

 没入感を高めて、ゲシュタルトの感情反映精度を向上させる効果があるらしい。

――二〇分後、インストラクターの一声で我に返った。

「そこまでにしましょうか。次のステップに進みます。さあ、ここからが本番ですよ。完成したゲシュタルトをパートナーと交換して、お互いに触れてみましょう。ゲシュタルトには感情が詰まっています。目と手で感じてみてください。それから、言葉にするのは難しいかもしれませんが、パートナーに制作の意図を訊いてみましょう」

 大袈裟な語り口に辟易しながらも、唯川はまず、中村のゲシュタルトに触れようとした。それは赤色を基調とした歪な球体で、手を近づけるだけで熱を持っていることがわかった。愚直な奴だな、と唯川は思った。 

 手のひらに乗せて、地球儀のようにぐるりと一回転させてみる。外見以上の質量を感じる。地球というよりは、むしろ太陽に近い。まるで心臓が鼓動するように脈打っており、発散しきれない彼のエネルギーが伝わってくるようだった。

 一方で、七瀬のゲシュタルトは理解不能な代物だった。ほとんど無色透明と言っても過言ではなく、背景がはっきりと透けて見えるそれは、指の腹で撫でてみるとシルクのように滑らかで、人肌の温度を保っていた。様々な視覚パーツが組み合わさって複雑な形状をしているが、そこには整然とした秩序が見受けられる。彼女のゲシュタルトを猫のように持ち上げて優しく撫でると、心が穏やかになった。たとえそれが、グローブから伝わる微量の電気信号でしかないのだとしても。

「唯川さんのゲシュタルト、なんていうか、塔みたい見えるんですが、なにかワケがあるんですか?」

 突然中村に訊ねられたので、唯川は七瀬のゲシュタルトから手を離し、自分のゲシュタルトをまじまじと見つめた。気の向くままに作業を進めただけだったので、制作の理由を言葉にするのは難しい。しかし、無意識を言語化する努力にこそ意義があるのだとインストラクターは豪語した。……本当だろうか。

 特にはないのですが、と言い澱みながら、考える時間を稼ぐ。確かに唯川のゲシュタルトは縦に細長く設計されていた。しかしそこに理由などない。理由を考えること自体、馬鹿馬鹿しいと思う。

「たぶん、唯川さんは」

 何を話そうか考えあぐねていると、中村が閃いたように口を開いた。

「いまよりももっと、高いところに行きたいんじゃないですかね。だとしたら、これは向上心とか勇気のあらわれ……」

「そういう見方もあるかもしれませんね」

 口先でそう言いながら、インターフェイス越しに中村の顔を見る。やっぱりこいつは救いようのない正真正銘の能無しだ。一見もっともらしい理由にも思えるが、全く無関係な二つの概念の間に、相関関係を見出している。もはや微笑ましく思えるほど無理のあるこじつけだ。ライターよりも、占い師のほうが向いている。唯川にとって向上心や勇気といったキーワードは自身の人生にそぐわないものだった。

「あ、それと、七瀬さんが透明なパーツでゲシュタルトを造ったのにも、なにか理由が?」

 再び中村が訊いた。七瀬はしばらく考えた後、柔らかくほほえんで、

「ただ綺麗だと思ったから……」

「でも、それじゃ理由になってない」

 押し黙って、七瀬が考える。

「そうね。強いて言うなら、一番わたしらしい気がしたの。色をつけようとすると、どうしてもそこに何らかの意味が生まれてしまうから。たぶん、わたしは常に中立でいたいのよ」

 なんとなく彼女の言いたいことがわかるような気がした。このワークショップは、言葉よりもゲシュタルトに触れて感じたことのほうに、より大きな価値があると思えた。だからこそ唯川は二人に質問を投げかけず、黙って聞いていた。

 開始から二時間も経たないうちにワークショップは終了した。二人のゲシュタルトを触れたからだろうか、別れが名残惜しかった。奇妙なことに、中村に対してさえも愛着のようなものを感じていたのだから、〈共感〉のワークショップは十分に成功したのだろう。

 仲間をつくるにはこの上ない機会だった。唯川は、彼らと一緒に行動したいと密かに感じていたのかもしれなかった。しかし、彼にはこれ以上の関係を結ぼうとする勇気がなかった。だから、またどこかで会いましょうと言い残して、セントラル・タワーを去った。

 言葉にできない後悔が胸に残った。


    *


「働くこと、遊ぶこと、暮らすこと。あらゆる境界線が曖昧になった社会をきみたちは生きている」

 腕を後ろで組みながら、教授が教室内をゆっくりと巡回する。生徒たちの半数くらいが堂々と眠り始めていたが、お構いなしに講義は続行された。そもそも座席は三割程度しか埋まっていない。

「シェアリング・エコノミーの最大の障壁となっていた法規制を、IoTを初めとするテクノロジーで乗り越え、以前よりもずっと自由で便利な生活を送れるようになった。そんな中で、シェアすることによって半ば必然的に発生するものがある。それは何か」

 今度は誰にも回答を求めず、一呼吸してからこう言った。

「――コミュニティだ。何かをシェアすることで新しいタッチポイントが生まれる。すると、そこにはコミュニティができる」

 スライドがいくつかの事例を示した。いつまで経ってもパワーポイントは現役の最前線を走っている。

「つまり、物、空間、時間、能力が人と人を繋ぐんだ。IoTがモノとインターネットを繋げたのだとしたら、シェアリング・エコノミーは人と人を繋げた。わかるかな。ちなみに余談だが、一つだけアドバイスをしておこう。きみたちは学内での繋がりを大切にしておいたほうがいい。そうでないと、わたしのようになりかねないからね」

 最前列に座っている生徒たちだけが、失礼にならない程度に小さく笑い声をあげる。教室の後ろに一人で座っていた唯川は、肘をつきながらぼんやりとそれを眺めていた。


    * 

 

 灰色の塔が小雨に煙っている。

 こちらに来てからちょうど一週間が経ち、唯川はコミューンでの生活に順応し始めていた。孤独と退屈にもすっかり慣れていた。

 セントラル・タワーに昼食を受け取りに来たところだったが、おそらく雨天が原因だろうか、普段よりも混雑している。リゲルの案内を待ちながら、彼はこれまでの一週間を振り返った。

 あれからいくつかのワークショップに参加し、顔見知り程度の友人なら数名できたが、相変わらず一人きりで過ごしていることに変わりなかった。中村にも一度だけ再会した。彼は相変わらず楽しげで、仲間を増やしている様子だった。唯川は、様々な人々と出会ってはすれ違う日々の中で、自分なりに楽しむ方法を学んだ。

 ほとんどの場合、目が覚めるのは昼過ぎだった。それから遅めの昼食をとり、その日のワークショップをチェックする。興味深いものがあれば参加するが、めぼしいものがなければセルに戻って再び眠る。眠れなくなれば、散歩をして時間を潰す。可もなく不可もない日々だった。

「ねえ」

 ぼうっとしているところを、不意に背後から肩を叩かれたので、唯川は一瞬肝を冷やした。

 振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。

「あ、七瀬さん……」

 久々の自分の声に違和感を覚え、長いこと言葉を発していなかったことに気がつく。ほとんど吃りそうになっていた。

「唯川くん、久しぶり。覚えていてくれたのね。突然ごめんね、偶然見かけたから、つい声かけちゃった」

「いえ、いえ、とんでもない。何してるんですか?」

「お腹すいたし、お昼にしようかなと思って」

 知的で慎ましい笑顔が懐かしかった。

「ああ、それならぼくも同じです」

 それから訪れる決まりの悪い沈黙。いつものことだ。

「今日は雨、止まなそうですね……」

 気の利かない文句を言ってやり過ごそうとするのも、いつものことだった。

 これ以上間が持たなかった。別れを言って、どこか別の場所へ移動しようと決めた。

「……ねえ、もしあなたがよければだけど、一緒に昼食でもどう?」

 無様な姿を見かねて助け舟を出してくれたのは彼女だった。こればかりは、いつものことではなかった。

 女性から食事に誘われるのは、覚えている限り人生で二度目だった。大学に入学して間もないころ、クラスメイトの女の子と偶然自宅の最寄駅ですれ違った。唯川は気づかぬふりをして通り過ぎようとしたが、大きく手を振りながらこちらへ歩み寄ってくる彼女を無視するわけにもいかなかった。彼女の話から、お互い近所に暮らしていることがわかった。せっかくだし一緒に食事でもどうかと訊ねられ、近くの喫茶店に入った。彼女はロンドンへ留学に行きたいこと、学生でいるうちに起業したいことなど、たくさんの夢を意気揚々と語った。唯川はほとんど何も語らず、時折アイスコーヒーに口をつけながら黙って耳を傾けていた。彼女から二度目の誘いが来ることはなかった。


 リゲルから食事を受け取った二人は、唯川のセルまで小走りで向かった。七瀬が腰を下ろし、ふう、と一息つく。

 雨が天井を叩く音が聞こえる。

「一週間ぶりね。楽しく過ごしてた?」

 食事を包んだアルミホイルを指先で器用に剥がしながら、七瀬が言った。

「まあまあです。七瀬さんは……」

「わたしはそこそこ楽しんでるわ。あまり楽しめてない人も結構いるみたいだけど」

「そういえば、途中退会の手続きをしてる男の人を見ました」

 出来合いのラザニアをフォークで突き刺して口に運びながら、セントラル・タワーで見かけた男を思い出す。

「たまにいるらしいね、途中なのに帰っちゃう人。なんでだろう」

「たぶん、孤独と退屈に耐えられなかった……」

――もう耐えられない、こんなところには居られない。そう言った男の眼の窪んだ顔つきが蘇り、思わず顔をしかめる。

「でも、本当にそれだけの理由で帰るかしら?」

 意味ありげに、こちらの瞳を覗き込んだ。

「じゃあ、どうして……」

「わからないわ。けれど、きっと何か他の理由があると思う……」

 七瀬はフォークを運ぶ手を止めて顔を伏せた。

 雨が勢いを増してきた。

「とにかく、ぼくは七瀬さんに誘ってもらえてラッキーでした、本当に」

 呟いた直後、困ったように七瀬が顔を上げる。

「いまなんて言ったの?ごめんね、雨の音が邪魔しちゃって」

 どうってことはない。いつもこんな調子だ。唯川は同じ言葉をもう一度言い直す代わりに、小さくかぶりを振った。

 

    *


 まさに僥倖としか言いようがなかった。あの雨の日から一週間に渡って七瀬と生活を共にする中で、唯川は間違いなく彼女を愛していた。彼女ほど献身的に愛してくれる女性が今後の人生で現れることは到底期待できなかった。

「わたしたちが出会った日のこと、よく覚えてるわ」

 セルの中で寝そべりながら、七瀬は唯川の胸に頭を預けていた。〈創作〉のワークショップを終えたところだった。

「あの日のワークショップは悪くなかったよ。胡散臭いインストラクターがどうして人気なのか、ぼくにはよくわからないけど」

 多くの入居者たちは人気ワークショップのインストラクターたちを心から尊敬している様子だった。中には崇拝している者もいた。しかし唯川にとって、彼らはまがい物以外の何物でもなかった。このコミューンの中で、七瀬の存在だけが真実に思えた。

「唯川くん、どうしてわたしがあなたを気に入ったかわかる?」

「それがまったく」

 かぶりを振って、天井を眺める。

「あのワークショップで、あなたはわたしの造ったゲシュタルトに解釈を求めようとしなかった。そのとき、この人は他の人とちょっと違うって思ったの」

「どう違うの?」

「中村くんのこと、覚えてるでしょ?このコミューンは彼みたいな連中ばかりよ。それっぽいことを言うんだけれど、実際のところ中身は空っぽ」

「ああ、彼はきっと、蝿のたかった犬の糞からでも、ありがたい教訓を見出すだろうね」

 軽口を叩く唯川をなだめるように、七瀬が胸元を撫でる。

「ワークショップのインストラクターたちもみんな同じだわ。彼らは人の心を動かしたり、信用を得たりするのが上手かもしれないけれど、あんなのは全部インチキよ」

 彼女の話を聞いて、唯川はこう思った。本当の意味で他人を信用したり、あるいは信用されたり、そんな関係がこれまでの人生で一度でもあっただろうか、と。

 それでも、と七瀬が言葉をつなぐ。

「それでもきっと、これからの時代はそんな人たちが勝つ。間違いないわ。彼らは戦略的だもの」

 彼女が諦観の表情を浮かべた。

 七瀬の言う通りだ。でも、行きすぎた個人主義と競争原理の仕組みの中で、どうやって分かち合いの社会を実現するんだろうか。このコミューンは何か根源的な矛盾を抱えているんじゃないか。そんな想念を振り払うように、七瀬を抱き寄せた。唯川にとって、いまは七瀬を愛しているだけで十分に幸福だった。

「きみのゲシュタルトに触れたとき、すごく穏やかな気持ちになったんだ」

「やっぱり、触れるだけで十分なのよ」

「うん。言葉で解釈する必要なんてない」

 そう言うと、七瀬は何かを思い出したようにくすりと笑って、

「ねえ、もしもあなたのゲシュタルトをわたしの言葉で解釈するとしたら、何になると思う?」

「さあね。なんだろう」

「塔の形をしてたでしょ?あれはペニスよ」

 唯川の股間に手を伸ばして、おどけながら言った。

「フロイト流解釈ってやつか。冗談じゃないよ」

 笑いながら手を退けると、彼女も我慢できずにプッと吹き出した。

「でもね、真面目な話。あなたのゲシュタルトに触れたとき、思ったの。なんて寂しい人なんだろうって」

「別にいまは寂しくないよ、きみがいるし」

 嘘よ、と七瀬が言葉を制して真剣な表情を見せる。

「この一週間で、その理由がはっきりとわかったわ。あなたには本質を見抜く洞察力がある。この社会が本質とはかけ離れた欺瞞で成り立っているってことをよくわかってる。だけどね、それじゃいつか壊れてしまう。あなたはまだ子供なの。もっと図太く、賢く生きなきゃダメよ」

 彼女の指先が唯川の髪にそっと触れた。


    *


「最後に、タレント・エコノミーの話をしよう」

 講義も残すところ数分程度だった。眠りから覚めた生徒たちが、軽く身体をストレッチしている。

「難しい話じゃない。シェアリング・エコノミーの一環だと考えてほしい。人間の労働がロボットにも可能になったいま、価値を生み出すのはクリエイティブな仕事だけだ。だからこそ、才能のある個人、つまりタレントの力は大きな価値になる。天然資源や労働力の代わりとして、個人の才能を資本とする経済をタレント・エコノミーと呼ぶんだ」

 以前にも少しだけこの話を聞いたことがあった。CEOやインフルエンサーなど、高額な報酬を受け取る人間が増した反面、その他の人々の賃金が下落することもあり、その負の側面が指摘されてきたのだ。

「これまでシェアリング・エコノミーとしての市場は小さかったが、今後はその人にしかない才能や思考や経験を、理想的な条件で共有する場が増えると予想されている」

 唯川は、眉間にしわを寄せている自分に気がついた。わけもなく嫌な気分になり、さらに顔を歪める。

「タレント・エコノミーのキーワードは信用だ。知っての通り、信用経済の時代がやってきている。貨幣と同様に、信用が経済活動の中で大きな役割を果たすってわけだ。信用の取引が個人レベルでも行われるようになったのだから、お金のみならず信用を稼ぐことも必要になる。これから先、お金ではなく、信用をかけた市場競争が展開される」

 言葉にならない違和感があった。その理由を頭の中で整理しようと試みるが、うまくまとまらない。心にわだかまりだけが残った。

 思い出したように、教授が腕時計を一瞥する。

「おっと、そろそろ時間だな。話を少し戻して、最後にもう一度だけきみたちに問いたい。将来、きみたちが最後の最後まで所有しているものはなんだと思う?」

 講義終了のチャイムが鳴った。生徒たちが一斉に散っていった。


    *

 

 他人の気持ちは手に取るようにわかっても、自分自身の気持ちはまるでわからない。純粋に愛していたはずの七瀬のことを鬱陶しく感じ始めるまでに、長い時間はかからなかった。

「ここでの暮らしも残すところあと三日か」

 突き抜けるような青空だった。唯川は丘の上に寝そべりながら、セントラル・タワーの天辺を見つめていた。右隣で肩に頭を寄せている七瀬のことは考えないようにした。代わりに、どうして人を愛せないのか考えた。

「ねえ、普段の生活に戻ったらまた会いましょう」

 七瀬はあと一週間ここに残るという。彼女は相変わらず美しく、献身的で、慎ましい。しかし――。

「もちろん。また会おう」

 口ではそう言いながら、内心これ以上彼女との関係を続ける気はなかった。出会ったときには間違いなく彼女を愛していたはずなのに、いまでは会話すら億劫に感じており、そんな自分にも嫌気がさしていた。

「すごく長い時間、あなたと一緒にいた気がする」

「うん。ここには何もないからね」

 何もない。唯一あるのは人と人の繋がりだけだ。携帯端末も、ラップトップも、お気に入りの洋服も、貨幣も、何もない。だからこそ、人との繋がりはより強固なものになる。唯川は、七瀬との繋がりに耐えられなかった。

 天候だけは心地よい昼下がりだった。タワーから何かが猛スピードで近づいて来るのが見えた。人工芝を越え、強靭な足で丘の上を駆けるそれは、一体のリゲルだった。リゲルは寝そべる二人の前で立ち止まり、小さな頭部についた二つの画像センサーが彼らの姿を捉えた。突然の出来事に二人は体を起こして、顔を見合わせた。

 ドッ、ドン。次の瞬間、遠くから爆発音が二度連続して聞こえた。

 唯川は七瀬の腕を反射的に掴み、こちら側へ思い切り強く引っ張った。

 平衡感覚を失い、青空と地面が交互に見えた。

 分かち合うよりも、奪い合うのだ――。

 無我夢中で丘の上から転げ落ちる直前、確かにそう聞こえた。しかし喋ったのは唯川でも七瀬でもなく、リゲルだった。それははっきりとした声明だった。

 ドッ、ドン、ドン。丘の下まで転がる間に、三度続けて爆発音が聞こえた。

 頰に人工芝が当たる感覚があった。何かが焦げる臭いがした。気が動転したまま地面に伏せている間にも、四方八方から爆発音が聞こえ続けた。


    *


 ぼくが最後の最後まで所有しているものは、ぼく自身だ。

 コミューンでの生活で、唯川は教授の問いに答えを出した。所有なき時代に、価値になりうるのは人間だけだった。

 爆発が止んだ後、唯川は病院に運ばれた。幸いなことに怪我は擦り傷程度だったが、念のため検査を受け、一日だけ入院していた。

 病院の廊下を歩いているとき、〈共感〉のワークショップのインストラクターを見かけた。うなだれながら車椅子に乗る彼は、両足を失っていた。可哀想だとは思わなかった。病院への搬入が追いつかないほど多くの者が負傷し、五十名以上が命を落としたが、同情の念は湧かなかった。

「覚えていることをありのままに話してください」

 事情聴取にやって来た警察にそう言われたが、覚えていないと押し通し、ほとんど何も喋らなかった。リゲルが喋った言葉だけを正直に話した。警察の妙に優しい対応が気持ち悪かった。

 病室のテレビ番組にコミューンが映っていた。上空からの映像だ。セントラル・タワーが倒壊しかけている。SNSではついに人工知能が人間を襲ったのだと皮肉めいた噂が流れていたが、警察はリゲルをクラッキングしたサイバーテロとみて捜査を進めているらしい。リゲルのクラックは不可能とされていたが、それは嘘だった。

 テロを実行したグループやその動機は不明とされていた。しかし唯川は間違いなくコミューンの元入居者が関わっていると確信していた。そしてこうも思った。犯人たちは、ぼくによく似ている、と。セントラル・タワーで見かけた男の表情が忘れられない。コミューンを出ていった人々は、決して孤独や退屈に耐えられなかったのではない。冗談じゃない。まったくの正反対だ。彼らはきっと、人と人を繋げる優しい仕組みに耐えられなかったのだ。そして、その仕組みの中で生まれる欺瞞の競争原理を壊したかったのだ。

――これはパラダイムシフトだ、シェアリング・エコノミーは人と人を繋げた、タレント・エコノミー、信用経済の時代。教授の言葉が奔流となって、走馬灯のように駆け巡る。

 もはや、テロへの恐れはなかった。

 唯川が感じていたのはむしろ、希望だった。

 テレビ番組を観ていると、親切な看護師に七瀬に会うかと訊ねられた。彼女の話によれば、爆発したリゲルの破片が身体中に突き刺さっていたので大規模な縫合手術を行ったが、命に別状はないらしい。七瀬はぎりぎりのところで唯川に助けられていたのだった。しかし、唯川は彼女に会わないことにした。きっと愛とは、奪うことではなく与えることなのだ。おそらくこの先も、一生会うことはないだろう。彼女もぼくも、すぐにお互いを忘れるだろう。

 二重写しの世界を見ていた。すべての価値を共有する優しい世界と、個人の価値を争う厳しい世界が、互いに矛盾しながらオーバーラップする。

 分かち合うよりも、奪い合うのだ。やるべきことはもうわかっている。

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オーバーラップ 美村ミム @memejene

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