幽霊少女と末期童貞

 ぼんやりと薄暗い校舎の中で、その教室だけは灯りがついていた。

 僕は引き寄せられるように、中へと足を踏み入れた。


 窓際に、誰かが立っていた。


 この学校の制服を着た、長い黒髪の女の子が、どこか物憂げな顔で窓の外を見つめている。

 僕の気配を感じたのか、女の子が振り向いた。


「きみ、誰?」

「そういうきみこそ、誰なんだ?」

「わたし?」


 女の子はゆったりとした歩調で僕のそばまでやってきた。

 全開に開かれた窓から、夜だというのにほのかに熱気を孕んだ初夏の風が運ばれてきて、僕はなぜか、ぞくりと背筋を震わせた。


「わたしはね、幽霊だよ? この教室でいじめが原因で死んで、復讐するためにここで待ってるの」


 そう言って、女の子は笑った。


 ――――マジか!? と僕は思った。


「ねぇ、わたしを殺したのは……きみ?」

「そんなことより、あれ! 見て!」

「えっ?」


 女の子が窓の外に目を向けた隙に、僕はそれとなくスカートの端に触れてみた。

 さわれなかった。

 ちょっ……マジで幽霊だ!!

 ということは、つまり!?


「別になにもないじゃない」

「そんなことより、ちゅーしてもいい?」

「……なに言ってるの?」

「いいよね、どうせ幽霊なんだし」


 僕は幽霊女に迫った。


「ちょっ、待ってよ、なんなのいきなり!」


 だが、幽霊女は後ずさる。

 僕は無言で距離を詰める。


 幽霊には試験もなければ人権もないし、証拠だって残らない。つまりはちゅーし放題というわけだ。


「えっ、やだ、なにこの人怖い!」


 幽霊女は教室の外へ逃げ出した。僕はもちろん追いかけた。


 いつ女の子と裸を見せあう関係になるかわからないので、身体は常に鍛えている。だから体力には自信があった。


 すぐに追いつき、幽霊女と廊下を並走する。そっと唇を近づけようとするも、走りながらではなかなかうまくいかない。


「ちょっと一旦、止まってくれない?」

「やぁっ、来ないで! きもい!」


 あぁ、僕は今、久しぶりに女の子と言葉を交わしている。

 たとえ罵りの言葉だったとしても、女子と会話できるだけで僕にとってはご褒美だった。


「うそっ、嘘だからっ! 幽霊っていうの嘘だから!」

「いいから、ちゅーさせろぉ―――ッッ!! ちゅーを擬似体験させてくれ―――ッッ!!!」

「ねぇまって本気できもいんだけど! 死んで!」

「嫌だ! 女の子とちゅーできるまで僕は絶対に死なないぞ!!」

「きゃぁっ!!」


 幽霊女が足をもつれさせ、転倒する。ドジな幽霊もいたもんだ。

 僕は好機とばかりに覆いかぶさった。マジで嫌がる幽霊女の唇に、僕は問答無用で自らの唇を押し当てた。


 もちろん相手は幽霊なわけだから、感触はない。

 それでも。

 すさまじいまでの感動が、そこにはあった。


 唇と唇が重なりあったその瞬間、とても言葉では言い表せない感情の奔流が、心の奥底から怒濤のように噴出したのだ。


 ああ、これが……これが、ちゅー。

 それはあまりにも至福な時間だった。


「え……うそ」


 突然、幽霊女は驚愕したように目を見開いた。


「なんで……触れてるはずなのに、感触がないの?」

「なんでもなにも、きみが幽霊だからだろ?」

「そ、そんなの冗談に決まってるでしょ! わたしはただ、自分の教室に忘れものを取りに来ただけ!」

「え……?」


 幽霊女(?)はさっきまでとは別の怯えを、僕に向ける。

 これはいったい、どういうことなんだ……?


 そのときだった。


 僕の身体が、いきなり半透明になった。


「え……!?」


 驚く彼女とは反対に、僕の心は穏やかだった。

 ……そうか。そういうことだったのか。


「幽霊はきみじゃない、僕のほうだったんだ」


 ぜんぶ思い出した。

 かつてこの学校でいじめを受けていた僕は、ある日階段から突き落とされ、打ちどころが悪くて死んでしまった。


 だけど、僕は童貞だったのだ。


「死んでも死にきれなかったんだ。そう、せめて……女の子と、ちゅーをするまでは」


 僕は幽霊女――いやただの女の子に、僕が地縛霊となって校内をさまよっていた訳を説明した。


「つまり、童貞をこじらせすぎて成仏できなかったってこと? なにそれ、きもい!」

「だけどこれで、もう思い残すことはない。最高のちゅーをありがとう、名前も知らない女の子……」


 完全に消滅する間際、僕は笑顔で最後の言葉を口にした。


「……え、まって、ちょっと待って。じゃあわたし、幽霊にはじめてを奪われたってことになるの……? なにそれ、最悪なんだけど……」


 女の子はもう、僕のことなんて見ていなかった。

 それでも僕は、満足だった。


 僕は柔らかな唇の感触とともに、静かに天に召されていった……。



(2016年執筆)

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