第43話
三人を乗せた小舟は大川をゆっくりと進み、川端の小さな宿に辿り着いた。
宿の艀でこの屋の女将とおぼしき者が待っていた。そのまま中に通されると奥まった座敷に佐平が一人で座っている。座敷に通ったのは、一人だけ。それに佐平が声をかけた。
「小吉、待ってたぜ」
勝は、相手の顔を見て
「ここは、お前の持ち物か」
「いや、ちょっと無理を聞いてくれる店だ。今日は、他の客は誰もいない。まぁ、このご時世でこんな所で、吞気に泊まっている奴なんていないがね。明日の朝
まち籠を頼んである。下手に護りゃしねいから、ここからは一人で行ってくれな。
まぁ、そう言うことだ。今夜はここで、ゆっくり休んでくれ」
佐平は、そう言うとにっこり笑った。勝も笑って
「ああ、ありがとうよ。ありがとうついでに、せっかくこんな洒落た店に誘ってくれたんだ。旨いものでも食わしてくれないか」
「・・・そうだな。たしかにその通りだ。女将に頼んで、何かだしてもらおうか。その前に風呂に入って来い」
「ああそうだな。大店の主と飲む格好じゃあねいな」
「ばか、ただの隠居だよ」
風呂から上がると先程の座敷に膳が二つ用意されていた。
「酒も少し用意させた。少しやろう」
「ああ」
「新之助とお前の所の若いのは、どうした」
「寝ずの番をしてくれるそうだ」
「そうかい。有難いねぇ」
「ああ、有難い」
後は、二人で黙って酒を飲み、食事をした。食事も終わって寝るだんになって、勝が静かな声で呟いた。
「良いのか? 佐平よ」
「何がだ」
「戦が起これば、色んな物が売れるぞ。その商機を逃すが、良いのか」
「ふっ、そんな事かよ。小吉、俺は商人だ。色んな物を売ったり買ったりする。だがな、国だけは売らねえよ」
「そいつは、いいね」
早朝、目が覚めると襖の向こうから声がかかった。
「お食事の用意が出来ております。さしでがましい事でございますが、髪結いも控えておりますので、お食事の後にお声をおかけくださいませ」
質素だが、暖かい食事をとり、髪を結い直してもらうと、佐平が着替えの着物一式を持って座敷に入って来た。
「召し物は、こちらで用意させてもらった。言いたいこともあるだろうが、こいつで勘弁してくれ」
そこには、新しい下着から裃に至るまで全て用意されていた。そして、佐平が用意した裃には、勝の家の家紋が入っていた。それに気が付いた勝は
「ここまで、用意してくれたのかい。これは家の物より上等だな」
勝の用意が終わると、佐平は居ずまいを正して頭を下げ、大きな声で発した。
「勝様、ご武運をお祈りしております。御無事のお帰りを」
「うむ、痛み入る。数々の心遣い感謝申し上げる。・・・佐平、全部が片付いたら昼間から飲もうぜ。それまで共に達者であろう。さらばだ」
勝は、挨拶もそこそこに玄関をでる。そこには籠が一丁止まっていた。新之助は、玄関から飛び出し、今まさに出立しようとしている勝に深々と頭を下げた。勝は、そんな新之助を目に止めて
「新之助、ありがとうよ。何かあったら後はたのんだ。じゃあな、あばよ」
そして前を向くと、一言。
「薩摩屋敷まで頼む」
出立すると直ぐに、勝の乗った籠が小さな点になった。それでも、新之助はずっとそこに立ち続ける。
ここからの仕事は、俺の仕事ではない。もし、話がこじれてしまったらその時は、江戸を守る為に己が出来ることをしよう。そしてこの先に江戸が、新しく変わっても己が出来ること事を信じるままにやればいい。自分の中に有るものが何か変わるわけではないだろう。
その時、清々としたものが、道の向こうに見えたような気がした。
慶応四年三月十三日から十四日にかけて江戸の薩摩屋敷で執り行われた勝義邦と西郷隆盛の会談により江戸総攻撃は、中止された。
完
幕末でも空は青い 森 モリト @mori_coyukiko
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