第31話
何も考えないで井筒屋を出て来てしまった。新之助様のことも考えずに又、逃げて来た。年をとってもやっている事は変わらない。でも、これだけは逃げてはいれない。伝えないと、ちゃんと伝えないと・・・足はちゃんと向いている。
数年前に新之助さんと向かった場所に今日は一人で出向く。あれ以降やっぱり顔を出すことは、出来なかった。昔と変わらぬ看板を見上げて、そっと門をくぐる。
夜も更けて静まり返っている道場を覗くとそこにその人はいた。
昔から、その人は夜半に一人稽古をしていた。男勝りであったが、男ではない。昼間の稽古では気を使うので、日も暮れた頃から一人で稽古をするのがあの人の習いであった。やはり変わらぬ、そのままそこに居る。幼い頃の自分は、遠慮なくそこに居座り共に稽古をすると何度もごねた事がある。その度に
「もそっと大きゅうなったら付き合ってやる」
と言われていたのを思いだした。そっと道場の戸を開けると、その人は静かに振り返った。
「何者です。名のりなさい。無体な事を考えているなら容赦はしません」
いきなり辺りに、立ち込めるような殺気を感じる。ああ、この人は何も変わってはいない。
「お久しぶりです」
僅かな灯りが、清二の顔を照らした。殺気がほどけて、暫くじっと見ていたその人が、強い声で呼びかけた。
「清二郎殿ですね」
「はい、長らくご無沙汰致しました」
「うむ、久しいな。さすがに大人になられた」
「さようですね。色々とございましたから・・・さな姉さまは、お変わりなく何よりです」
「馬鹿なことを、私も年をとりました」
互いに見つめ合って、言葉もない。するとさなが、清二を手招きする。招かれるままに近寄ると避けるまもなく、頬を打たれた。
「この馬鹿者め、なぜ直ぐにここに来なかった。ここは、お前の家であったろう。我等は、お前の家族であろうが・・・はぁ、すっとした。ずっとお前に言ってやろうと思っておったは、で何か言いたい事があって、ここに来たのであろうが・・・いつも大事な事を言う時はとんとお喋りがしゃべらなくなる。小さい時から変わらんな」
清二は、打たれた頬を押さえて俯くと
「そうでした。大先生の大事な茶碗を割った時もこうやって、さな姉さまに叱られました。男ならはっきりしろと・・・坂本さんが、龍馬さんが、・・・亡くなりました。先程、確かな筋から聞きました。暴漢に襲われて・・・」
「・・・そうか・・・亡くなられたか・・・お前は、私に知らせる為にここに来たのか・・・」
「はい・・・いずれは、何処からかお耳に入ると思いました。でも、これは・・・知ってしまっては、他の誰かに任せることでは出来ません。俺が、さなさんに知らせる以外は・・・」
俯いて答えると、さなは、長刀を構えなおして清二に対峙した。
「・・・清二郎、用意を ・・・相手をしろ。今から稽古をつけてやる。まともに帰れると思うな」
「・・・」
着物の裾をはしょり、たすき掛けをして、木刀を握る。ああ、覚えている。俺はここで幼い頃いつもこうやって、過ごしていたんだ。十年前の事が、なければ俺は、ここでこうやって今も過ごしていたんだろうか。それが、くだらぬ感傷であったとしても考えずにはいられなかった。
新之助が道場に到着すると、灯りが漏れるのが見えた。惹きつけられるよに窓によると、清二と女師匠が打ち合っている。と言うか女師匠に打ち伏せられている。
声を掛けようとすると後ろから肩を叩かれた。
「そのままにしておいてやってくれんか」
「師匠・・・」
何も言わずに肩を押して、母屋の中に連れて行かれる。お勝手の板の間に座るように言われて腰を下ろす。
「少し寒いが、ここでいいか。酒の用意をするから少し待ってくれ」
「・・・」
「聞きたい話が、あるんだろ。その前に何があったか教えてくれぬか。あんな風に二人して打ち合うのだ・・・何があった。清二郎を迎えにきたんだろ。お前は何を知っているんだ」
「それは・・・おそらく・・・坂本さん 坂本龍馬さんが亡くなった事と・・・」
「龍馬が・・・」
師匠は、手を止めて暫くの間呆然としていた。
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