第30話
その時、廊下の方でせわしく走る音がする。大番頭の源治が襖の向こうで声をかけた。
「旦那様、申し訳ございません。飛脚の新八が、急いで旦那様に取り付いでくれと申しまして・・・」
「ここにいらっしゃるのは、身内同然 入ってもらっておくれ」
新八が源治に抱えられるように座敷に入ってきた。腰が抜けるように座り込むと自分の元結いをほどいて、源治に渡した。
「これを大旦那さんに渡してくだせい。佐助の旦那がこれで行けと・・・」
源治はそれを受け取ると佐平に差し出した。普通の要件は、状箱に入れて持ち歩くがここ一番大事な要件は、こうやって元結いに書き込んで運ぶ取り決めになっていた。受け取った佐平がそれをゆっくりと開く。一瞬、目を見開いて絶句した。
「なんてことを・・・」
皆が佐平の顔をじっと見つめている。
「ここにいらっしゃる方々は、勝先生とお付き合いのある方ばかりですな。・・・では、土佐の坂本様もご存知でしょう」
皆、一様に頷く。佐平は、一息おいて
「坂本様がお亡くなりになりました」
咄嗟に声が出なかった。他の者も何も言わない。新之助は、錦之助と一緒に笑っていたあの大きな男のことを思い出していた。自分のような年若い者にも気さくに声をかけていた。もし、また会えることがあるならその時は、あの時の非礼を詫びて話をしてみたかったと思っていた。
「源治、すまんが坂本様のところと今なにか商いがあるか調べてくれ。店を閉める段取りをしていたのでそれ程あるとは思えんがな。それと新八に風呂と飯を用意してやってくれ。新八、ご苦労だったね。あちらでゆっくり休んでおくれ。」
二人が座敷をでると、佐平は皆の方に向きなおって
「このままお開きとも思いましたが、よければこのまま坂本様の弔い酒にいたしませんか・・・あのお方は、明るい事がお好きでしたから・・・」
皆、静かに頷き杯をあげた。
何刻か過ぎて、新之助は厠に立った。
こちらにはもう来ないと佐平に告げて距離をおこうと心に決めていたのに、言うことが出来なかった。それにこちらの思いを知ってか、気軽に酌をしに来た佐平に
「新之助様、こちらの店はこの霜月に閉めてしまいます。横浜の方に居を移しますので、必ずそちらの方にはお越し下さいませ。あなた様は、良吉の大事な人でいらっしゃる。ご心配は無用です。どこぞの誰かに何を言われても、この佐平はびくとも致しません」
と言われてしまった。自分よりも年嵩のまして男としてもずっと大きな男にこう言われてしまえば何も言えなくなってしまった。佐平がいいと言うならその通りなのだろうが・・・
今日はこの辺りで失礼しようと思って、清二を探すが姿が見えない。厠かと思い自分も用を足すために席をたった。廊下で顔見知りの女中と会って
「あら、新之助様。帰りは清二さんとはご一緒ではございませんのですね」
「何言ってんだよ。ご一緒だぜ」
「えっ、先ほど清二さん。帰って行かれましたけど・・・でも何か様子がいつもと違う感じで、声を掛けたのにうわの空でした。何かあったんでしょうかね」
女はそう言い残して、奥に消えていった。なんだ何にも言わないで、帰っちまったのか。子供ではないので別段一人でも帰ることは出来るが、一言ぐらい声をかけて行ってもいいだろうが・・・そう思いながら新之助も井筒屋をあとにした。
帰ってから清二を驚かして文句の一つも言ってやろうと清二の屋さに忍んでいったが、夜遅くなっても清二は帰ってこなかった。主水から新之助付きを言い渡されてからは、それまでのように女遊びや博打場に通ったりと夜、色々出歩くことは無くなっていたのに、もしかしたら主水になにか仕事をたのまれたのかもしれんそんな風に考えると、主水に確かめたくなってたまらない。ちょうど良い事に、主水は仕事が忙しいと言って使ってない座敷の一つを自分の部屋にしてそこで寝起きをしている。夜遅いが構わんだろうと、主水の所に行くことにした。部屋の灯りは付いていた。
「なんですか新之助様、こんな時刻に、夜這いをかけてもこちらは仕事が多くて、お相手は出来ませんよ。」
「なんだまったく、そんなんじゃねいよ・・・なぁ主水、清二になにか仕事を頼んだか」
「いえ、最近は何も用など頼んでおりませんが、何かございましたか」
「いや、大した事ではないんだが、一緒に出たのに途中で姿を消したんだ。なんか気になってな・・・」
「清二が、新之助様に何も言わずに姿を消したと・・・」
「いや多分そんな大袈裟なことではないと思うのだが、少々気になってしまってな」
「あの者が消えるときは碌な事がないはずです。今日は、お二人で井筒屋に行かれましたね。そちらで何かございましたか。」
「井筒屋で、あった事って・・・店を閉める話と・・・土佐の坂本さんが亡くなったって話と・・・どちらにしても清二には、関係ない話だろう」
「えっ、坂本さんが亡くなったんですか」
「あれ、主水は坂本さんを知っていたのか」
「いえ、お名前をお聞きしていた程度です。面識はございませんが・・・清二は
よく存じ上げていたと思います。そうですか。お亡くなりになられたのですか・・・」
新之助は、驚いたように主水を見た。その後、俯いて部屋をでようとすると
「行先で一所、検討がつく所がございます」
「俺は、何にも知らないから・・・こんな時も何も出来ないよ」
「新之助様がそれで良いならかまいませんが、連れ戻さないとあの者は又、馬鹿なことを考えて戻ってこないかも知れませんよ・・・子供のように拗ねるのはおよし下さい」
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