第4話 『壁と咀嚼と晴れた日の雨』

 私がその国の現地の言葉で「晴れた日の雨」という意味の名前を持つホテルに泊まっていたのは夏の日の4日間のことだった。

 その当時、私は仕事でその国のその地域に来ていた。仕事が終わるまでは4日間。

 と言っても、私の仕事なんてほぼ待つのが仕事で、4日間のほとんどのをそのホテルで過ごした。

 私の部屋は5階の角部屋だった。シーズン中のリゾートホテルなのに、その部屋だけ妙に安い部屋だった。

 ベランダからは海が眺めることができた。夜には近くのレストランに行き、私はシーフードパスタを食べた。波の音を聞きながら夜は寝た。

 仕事とはいえ、まるでリゾート地にバカンスに来たようで私はいい気分だった。

 しかし、気になることがあった。

 壁から音が聞こえることだ。震えるような低い音。

 最初は空調の音かと思った。しかし、どうやら違う。

 私は音の出所を探っていった。どうやら壁のようだ。

 隣の部屋かと思ったがここが角部屋だと思い出すといよいよ「音の正体」がわからないくなった。

 震えるような低い音は常に聞こえるわけではなかった。

 不定期に、だが、突然に。

 そしてその震えるような低い音に小さなノイズが混じることがあった。

 まるで小さな子どもがこっそり話しているようなノイズが。

 なるほど、安いわけだ。



 特に私に危害があるわけではなかったし、音がある方が気兼ねなく生活音を出せるので別に気にしてはいなかった。

 角部屋に止まったら変な音が聞こえた。お土産話としては十分すぎるほどだ。

 3日目の半ば、カラカラカラと回る小さな扇風機の風にあたりながら読みかけの本を読むのも飽きた私はホテルを散策し始めた。

 私は自販機で買った甘ったるいオレンジジュースを飲みながら、木陰のベンチに座っていた。

 遠くからプールではしゃぐ子どもたちの声が聞こえる。あいにく水着を持ってきていない私にはプールに入るという選択肢はなかった。

 そのときヴィクトルが通った。ヴィクトルはロシア出身のホテルマンだ。初日のフロントにいた男だった。

 私はヴィクトルに話しかけた。少し暇を潰したかったのだ。

 ヴィクトルという男は30代半ばであるようで、仕事をやりなれた人間特有の余裕が漂っていた。

 私はヴィクトルにこのホテルの感想を話し、ヴィクトルは笑顔で答えた。それから2,3とこのホテルについての話を交わした。

 そして私はあの壁から聞こえる音について話した。

 するとヴィクトルは神妙な顔になった。

 「お客様を怖がらせるつもりではありませんが、このホテルにはある話があります」

 退屈していた私はその話の導入に強く興味を引かれた。

 「聞かせてほしいな。なんなら血が流れる話でもかまわないよ」

 ヴィクトルはにやっと笑った。



 「1年前、私どもはあることに悩んでいました」

 「あることって?」

 「食べ物が無くなるという事件が多発したのです」

 ヴィクトルが言うには、貯蔵している食べ物が度々減っていたというのだ。

 ここはリゾート地だ。どんな奴が紛れていたっておかしくない。

 「でも、奇妙でした。食料を盗んでいる奴がいれば、カメラに写るはずなのです。でも」

 「でも?」

 「写っているのは小さなカゲだけだったのです。とても小さなカゲだけが」

 食料を盗む幽霊か、面白いじゃないか。

 「そして、それと同じ頃からある苦情が入るようになりました」

 「どんな苦情だ?」

 「壁から変な音がするというものです」

 ヴィクトルはにやりと笑った。

 「苦情は全て同じ5階の角部屋からでした」



 「幽霊だろうと、食料を盗まれているのに何もしないわけにはいきません。私どもは交代で食料貯蔵庫を見張ることにしました」

 ヴィクトルもその見張りの一員だったそうだ。

 交代で見張り始めて5日目の夜。ヴィクトルはちょうど当番だった。

 「深夜2時ぐらいですか。音が聞こえました」

 床の上をぺたぺたと何かが歩く音。音だけだがわかった。この足音は人間じゃない。

 「誰かいるのか?」とヴィクトルは大きな声をあげて、その音がする方向に懐中電灯を向ける。

 しかし、何もいない。

 ヴィクトルはほっとした。その瞬間、視界の奥の隅の方で、何かが動くのが見えた。

 カゲだ。

 あのカメラに写ったのと同じ小さなカゲだ。



 「見張りを始めてから、食料が盗まれることはなくなりました。あのカゲを見たというのも、私以外おりませんでした。それと同時期にあの角部屋の音の問題が深刻になっておりました」

 変な音が毎晩聞こえはじめた。

 低く震えるような音。

 「その部屋に泊まったお客様が私にまねてくれました。ぐるうる。ぐるうる。そう聞こえたそうです」

 その音は次第に大きくなっていった。あるときからその音にあるノイズが混じるようになったそうだ。

 「それって」

 「はい。小さな子どもが話しているようなノイズです」



 その音のことで、その部屋に客が通されることは減っていった。しかしホテルに繁忙期が近づいていた。毎年繁忙期は部屋がいくつあっても足りないほどだった。

 「だから仕方なく、我々はその部屋を解放したのです。しかし、まさかあんなことが起こってしまうとは」

 ヴィクトルは苦い顔をした。



 事件が起こったのはある夏の日だった。その日は見回りを始めて3週間目のことだった。

 深夜にあの角部屋から電話が鳴った。どうせいつもの音の苦情だろうと思った。でも違っていた。

 「警察を呼んで、じゃないと旦那が私と娘を殺すって」

 電話の向こうでは女の泣き声。そして、その要求の後、物が壊れる音と、叫び声が聞こえた。

 その男はアルコール中毒だった。アルコールを飲めば暴力を震う。そんな男の悪癖に家庭は崩壊寸前。しかし男は家庭を「復活」することを望んだ。男はアルコールを必死に絶った。

「もう俺はかつての俺じゃない」男は変わった自分と家族との旅行を希望した。その旅行を家族の復活にしたかったのだろう。

 でも、男はそんな日にアルコールを飲んでしまったそうだ。

 「どうして、自分から幸せを壊してしまうのかね」私はぬるくなったオレンジジュースを飲む。

 「さあ、わかりません。しかし警察がその部屋に集まったときにはもう、あの家族は完全に壊れ果てていました」

 ドアの向こうからは女と子どもの泣き叫ぶ声が聞こえた。

 「なんで、警察がいるんだよ!」と男の叫び声の後に何かを殴る音が聞こえ、女が泣き叫ぶ声が一層大きくなった。



 「それでどうなったんだ」

 「我々は男に要求を聞きました。男の要求はこうでした。家族旅行を続けさせてくれ」

 「無茶だ」

 「そうです。無茶でした。でも我々にはどうすることもできません。時間だけが過ぎていきました」

 5階の角部屋。ホテルの従業員と警察官。ドアを挟んで男と泣き叫ぶ女と子ども。

 何時間も硬直状態が続いた。

 「深夜2時頃でしょうか。私たちはある音を聞いたのです」

 「ある音」

 「はい。低く震えるような音です。それは私にはこんな風に聞こえました。ぐるうる。ぐるうる」

 「それから?」

 「みな、何の音か訝しんでいました。そして我々ホテルの従業員はついにその音を聞いたという顔をしていました。ドアの向こうから男が叫びました。おいなんだこの音は!って」

 ぐるうる。ぐるうる。

 ぐるうる。ぐるうる。

 「音は次第に大きくなっていきました。そして」



 木が割れるような音が聞こえた。

 そして男と家族の叫び声が聞こえた。「なんだこいつは!」と男が叫ぶ。ドアの向こう側からぐるうる、ぐるうると聞こえる。物が壊れる音がする。それからヴィクトルはある声も聞いたと言う。

 「だめだって!だめだって!」と叫ぶ声。

 「まるで、小さな子どもが叫んでいるようでした」

 立てこもっていた家族の子どもは10代半ばだった。

 あの家族に小さな子どもはいない。



 「あぎゃあああ」と男の叫び声がした。

 「いやあ!いやあ!」と泣き叫ぶ家族の声。

 「ぎぃぃぃ!ぎぃぃぃ!」男の悲痛な叫びが耳に突き刺さる。

 物が落ちる音。壊れる音。

 「だめだって!だめだって!!」小さな子どもの叫ぶ声

 警官隊は事態の急変にマスターキーでこの部屋を開けることを指示した。

 ドアにマスターキーを差し込む。ドアを開く。

 ドアから男の家族が飛び出す。表情は完全におびえきっている。しかしこの恐怖は「男」に向けられたものではないことはその場にいるもの全てがわかっていた。

 家族を逃がし、警官隊が部屋に入る。

 そこで警官隊は見る。



 「何を見たんだ?」

 「・・・ちぎれた男の右足です」

 「・・・それが、今、私が泊まっている部屋の床に落ちていたんだな」

 「さようでございます」

 「やれやれ。床に寝転ばなくてよかったよ」

 「クリーニングは念入りにしております」

 「だろうね。とてもきれいだったよ」



 警官隊はそれからあるものを発見する。

 「壁の下の方に穴が空いているのを発見したのです」

 その奥からあの小さな子どもの声が依然として聞こえる。

 「誰かいるのか?」

 「壁の中からの返事はこうでした。ぐるうる。ぐるうる」

 「それからどうしたんだ?」

 「壁を壊したのです」

 「壁を?」

 「はい」

 「・・・それでどうなったんだ?」

 「壁の中は驚くことに空洞の空間がありました。と言ってもそれほど大きな空間ではありません。大人が1人歩けるくらいの幅です。その空間には誰かが生活をしていた痕跡がありました。そしてその床に落ちているゴミには見覚えがありました。貯蔵庫から盗まれた食料の缶詰や袋のゴミでした。ずるずるずると移動音が響きます。その誰かの逃げる音です」

 「それで?」

 「警官隊はその壁の中を進んでいきました。音のする方にです。壁の中はそれほど広く無い空間ですからゆっくりと。でも、確実に音のする方に近づいていました。そして警官隊のライトがその音の出所を照らしました。赤く染まった歯。そしてちぎれた男の腕。ぐるうる。ぐるうる。そう、その正体は」



 「あ、ヴィクトルさん。ヴィクトルさん。」

 突然別の声が聞こえた。まるで小さな子どものような声だった。その声の方を向くと、二本足で歩くホテルマンの格好をしたねこが歩いてきた。うん?ねこ?

 「まち子さん。どうされましたか」ヴィクトルは平然とそのねこと会話をし始めた。

 「305号室のサイトーさんから苦情が入りました~」そのまち子と呼ばれたねこは困った顔をしている。

 「そうですか。ではまち子さん、仕事を交代しましょう。まち子さんはこの方の話相手になってあげてください」

 「え、ちょっと」と私が言う前にまち子と呼ばれたねこはうなずき、ヴィクトルはホテルへ戻っていった。

 まち子と呼ばれたねこは私の顔をじっと見ている。

 話相手になれと言われたものの、何を話したらいいかわかってないみたいだった。

 私もねこと話したことはないから困ってしまった。

 私は自分が持っているオレンジジュースのことが気にかかり、まち子に尋ねた。

 「なあ、このオレンジジュースを飲むかい?」

 「いえいえ!お客様のものを頂くなんてそんな!」と言いながらまち子の目は輝いていた。

 「いいよ。黙っておいてやるから」

 「いいんですか!」と喜ぶまち子に私はジュースを渡した。

 まち子は喜んで飲んでいた。

 まるで小さな子どものようだった。



 その後、私の元に電話が入った。仕事の時間を告げる電話だった。 私はまち子に「ヴィクトルに伝えておいてくれ。面白い話をありがとうって」と伝えた。

 まち子は「あっわかりました」と言う。

 私がその場を離れようとすると何かを言いたげな顔をまち子はしていた。

 「ジュースは全部飲んでいいよ」と伝えるとまち子は笑顔でお辞儀をした。



 今回も無事に仕事はうまくいった。スーツケースにガジェットを戻していく。「あんたの仕事、敵が多そうだな」と今回のステークホルダーであったM氏が私に言う。

 「その分、味方もおおいさ」と私は言う。

 「そういうもんかね」

 「そういうものだ」



 現地の言葉で「晴れた日の雨」という名前がついたホテルに戻ったのは日をまたいだあとだった。

 私は、部屋に戻ってスーツケースの中身を改めて整理して、シャワーを浴び、そしてベッドに潜った。

 眠っていると、妙な気配が耳から流れ込んできた。

 仕事柄、そういうものには敏感なのだ。

 私は枕の下に忍ばせてあった銃を握って起きて、その気配のする方に銃口を向ける。

 すると、そこにはワニがいた。

 そのワニは誰かを食べている途中だった。

 ワニの口から誰かの腕が垂れ下がっていて、その手には銃が握られていた。

 「あっ、起こしてしまってすいません」と小さな子どものような声が聞こえた。

 そちらに銃口を向けると、昼間のねこがいた。

 ねこはおびえたような顔をする。

 「違います。違いますー。この人が、あなたの寝込みを襲おうとしていたので、私たちが仕留めたんです」

 咀嚼音が聞こえる。くちゃら。くちゃら。

 私はベッドから出て、ワニの口から垂れ下がった「腕」を見下ろす。

 腕にかろうじて巻き付いていたシャツを引きはがすと見覚えのあるタトゥーが掘られていた。

 「どうかしました?」とまち子が言う。

 「懐かしい友人だよ」と私が言うと、まち子の顔面が引きつるのがわかった。

 「いや、皮肉だよ。ありがとう。命拾いしたよ」と私はお礼を言う。

 「それならよかったです」

 「いつも、こんなことやってるのかい?」私は聞く。

 「はい。ニーナとわたしでホテルを見回っているのです」

 「ニーナ?」

 「この子の名前ですよ」とまち子はワニを指さす。もうタトゥーが掘られていた場所もすっかり咀嚼されている。

 「そうか。大変な仕事だね」

 「いえいえ。お客様の方が大変な仕事です」

 私はまち子の自分の仕事を一番大変だと思わないようにしているその姿勢に好感を持った。

 「じゃあ、私はまた眠るとするよ。全然このまま食事を続けていいからね」

 「わかりました」

 「ニーナ、まち子。ありがとう。おやすみ」

 私は眠りに落ちた。その日は不思議なほどいい睡眠を取ることができた。

 翌朝。騒ぎはまるで無かったように部屋はきれいになっていた。

 床に寝転ぶ気にはならなかったが、寝転ぼうと思えば、寝転べるほどに。



 4日目になり、チェックアウトの時間が来た。

 私は、ホテルを出る前、フロントにいるヴィクトルに話しかけられた。

 「昨晩はご迷惑をおかけいたしました」

 「いや、君のところの警備員に助けて貰ったよ」

 「さようでございますか」

 「でも、なんで彼女たちを警備員に雇ったんだ?」

 ヴィクトルはいたずらっぽく微笑む。

 「なにぶん、彼女たちはいい仕事をするものでして」

 なるほどね。

 「私もいい仕事をする人たちのことは大好きだよ」

 私はお礼を言ってフロントを後にした。



 スーツケースを持って、外に出る。陽が身体にかかる。暖かい。

 プールから騒ぐ人々の声。遠くからは波の音。

 流れる風が身体を冷たくする。

 駐車場の木陰でねこのホテルマンがワニの背に乗って昼寝をしていた。まち子はとても穏やかな顔で眠りに落ちていた。

 ワニから声が聞こえた。

 ぐるうる。ぐるうる。


 それが私のその国の最後の思い出だ。

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