境界線上の魔女

鳥ヰヤキ

境界線上の魔女

 枝葉の隙間から黄金色の光がさんさんと降り注いで、地表を覆う柔らかな萌葱の絨毯を鮮やかに染め上げている。鼻腔をくすぐるのは咲いたばかりの花の香り。空を見上げれば、抜けるように透明な青天。

 目眩がするほどに美しい世界。

 僕はその隙間にぽつんと立ちながら、己の陰が線を引くように、黒く長く延びているのをただ見ていた。

 座り込むと草のクッションが腰を包む。そのまま倒れ込めば、指先に触れる若葉の感覚はまるで羽毛みたいで、優しく湿ったぬくもりは誰かの胸の中のようだ。両手足の感覚は、寝起きのそれのようにまだ甘く痺れていたけれど、その倦怠感がむしろ心地よかった。

 ……そう。僕はそのまま、眠ってしまいたかった。

「坊や、もう、いいの……?」

 頭上に影が掛かって、そこだけほんの少し冷える。閉じかけていた瞼を開けて、ごろんと仰向けになる。逆光の向こうに、女の顔があった。

 魔女の顔。

 幽霊のように白く、骸骨のように細く、煙のように儚げな、弱々しい女の顔。

 いつも村の端で一人暮らしながら、誰にも顧みられることのなかった孤独な女の顔が。

「……僕は……」

 本当は、「もう、いいんだ」……と言おうとしていた。舌の先まで言葉が出かかっていた。けれど、彼女の、今にも泣き出しそうな顔を見ていたら、どうしても言えなくなってしまった。

 僕がこのまま眠って、彼女との縁を断ち切ることは、彼女の優しさを吐いて捨てることになるだろう。そう思ってしまった僕はもう、拒絶の言葉を告げることなんてできず、ただ、曖昧に首を横に振ることしか出来なかった。

 彼女は、安心したように微笑んだ。

 痩せこけた頬は、些細な微笑みでさえ深いえくぼを刻んで、まるで傷のように見えた。


 きっと僕は彼女が好きだったんだと思う。


 彼女の手を取る。黒い手袋ごしの指先は、干した小魚のように硬くて細くて、僕は壊さないようなるべく優しく握り返した。そして、二人でゆっくりと、歩き出す。

 春の丘を越えて、小川に掛かる橋を越えて、石造りの門を越えて。

 彼女と旅に出た。今の僕にはそれしか出来なかったし、妙に納得もしていた。これから僕は魔女の弟子になるんだ。……と。村の門を振り返りつつ、今まで踏んだことのなかった道の向こうを見つめ返す。朝霧に白っぽく霞む風景。魔女に問いかける。

「僕はなんにも知らないよ」

「いいのよ」

「僕はなんにも出来ないよ」

「いいのよ」

 魔女が合図をすると、黒い二頭の馬が引く馬車がやってきた。馬は目隠しのような黒いベールを被っていて、いななくと鼻先から靄が漏れ出した。僕はその大きな馬の姿にざわざわとした恐怖心を駆られ、慌てて馬車の中へと滑り込んだ。

 馬車の中は外見よりもずっと広くて、天井も高く、まるで小さな家のようだ。薄暗い室内に、熟れた果実から作った酒のような、ツンとする匂いが漂っていた。

 魔女は僕の髪をとき、体を拭き、新たな着替えを用意してくれた。士官のように格好いい服。王子様のように煌びやかな服。道化師のように鮮やかな服。何でも揃っていたけれど、僕は黒いコートと黒いズボン、それに黒い靴とを選んだ。魔女は黙って頷いて、着替えを手伝ってくれたけれど、そっと白い薔薇の花を取り出して、僕の胸元に一輪挿した。

 黒づくめの胸に、白薔薇は星のように明るく輝いていた。

 馬車は走る。揺れたのは最初だけで、速度が上がるにつれて地面を滑るように、やがて飛ぶように疾走する。窓の外の天気が変わる。晴れから雨へ。カーテンで仕切られた小窓に雨粒が跳ね回る。僕の生きた村はどんどん遠ざかって、やがて霞の向こうに消えた。


 魔女と、あらゆる土地に足を運んだ。

 無限のように広がる砂丘も。豆粒のような孤島が点在する海辺も。光る泥を吐き出す燃える山も。聖人だけが行き来する、大聖堂のモザイク張りの回廊も。

 魔女は、いろんなものを僕に見せてくれた。

 炎の花を咲かせる魔法。空を自由に飛ぶ魔法。卵がひしめく水竜の住処。七色の花弁をもつ花。妖精酒の作り方。なんでも混ぜて溶かすことが出来る竈。箱の中に閉じ込められた、お喋りだけど決して外に出れない悪魔。

 魔女との旅は爽快だった。手に触れるもの目で見るもの何もかもが新しくて、生命力に溢れていて、目まぐるしく燦めいていて、息をつく暇さえなかった。生活の為に日々を無心と奉仕の内に生きるのではなく、一刻一刻の喜びと、未知への探求の成果に一喜一憂することの、なんと贅沢なことだろう。

 僕が笑ったり、驚いたり、何かに興味を示してる時、魔女もまた笑顔を見せるようになっていた。最初は不気味でぎこちなかった彼女の笑顔も、ずいぶんと自然で明るいものになって、今では僕の喜びを喚起させる原動力にもなっていた。


「ずっと、寂しかったの」

 魔女の口から不意にこぼれた言葉。僕は振り返り、その意味を吟味する。なんてことないような口ぶりだったけれど、その言葉は確かに彼女の魂からこぼれ落ちた、隠していた本音のように思えた。寂しかった、という言葉。長い間耐えてきた、しかし無事に過ぎ去った痛みについて懐かしむような言葉。

「だから僕を拾ったの? 貴方はずっと一人だったの?」

 僕がそう尋ねた時、ようやく自分が不都合なことを喋ってしまったことを悟ったようだった。彼女の表情がこわばる。

「……確かに私はずっと一人だった。私が魔女でいる限り、それは永遠に変わらないこと。けれど……あなたを拾ったのは、寂しさの埋め合わせをする為じゃないわ」

「じゃあどうして?」

「…………」

「僕は貴方の苦痛の埋め合わせになれるなら本望なのだけれど」

「…………」

 沈黙。彼女にとっては辛く、僕にとっては甘い沈黙。

 大人になった僕の頭は、彼女を軽く見下ろせる。彼女は困惑しながらも、弁解や嘯きの言葉もなく、ただ誠実で息苦しい沈黙を守っていた。

 彼女に求められたい。僕が彼女を求めている分、彼女にも必要とされたい――愛されたい、と言い換えてもいい。

「僕にも魔法を教えてよ」

 もっと繋がりたい。深い絆の証がほしい。

 ……僕を、共犯者にしてください。

「それは、出来ない」

 ――即答。

 せめて、口ごもったり、一瞬でも逡巡が挟まると思っていたのに。

 僕がお願いすれば何でも教えてくれて、なんでも与えてくれた彼女だったから、そうした反応は初めてだった。彼女は、言ってしまった言葉を恥じるように俯いて、視線を逸らした。……僕にはそんな余裕なかった。成長し、大人びて落ち着いた顔の仮面はずり落ちて、怯えと怒りがない交ぜの表情を浮かべた。まるで子供だ。子供のままだ。僕は、全く「大人」になんかなれていなかったんだ。

「出来るよ。出来る。……貴方を助けてあげたいんだ!」

 僕は、形だけの逞しい手のひらで、魔女の手を取った。縋るように。溺れる者のように。暖炉の火が朱色の光を室内に放っている。暫くの間、暖炉が燃える音だけが二人の間に響いていた。ようやく僕の方へ向き直った彼女の瞳は、優しく細められていた。

 そんな目で見ないで。泣いて頼みそうになる。そんな優しい目で、僕を拒絶しないで。

「……私はもう十分、助けられているわ」

 僕は手を離す。魔女の唇から、瞳から、ほのかに赤らんだ頬から、帯びた魔力の微光から、彼女の全てから、たおやかな慈愛が溢れている。

 涙も出ない。唇を強く噛んだ。

 口の中で、血の味がした。

 失恋の味がした。


 ずっと僕は彼女が好きだった。

 あの時から。ずっと。彼女の影を目で追っていた。

 だから彼女が僕を見つけてくれた時は嬉しかった。

 長じて、彼女の心に僕がぬくもりを与えられたという実感を得られたとき、深い快楽を感じた。

 彼女は僕を満たしてくれた。お腹も、知識も、心も。ただ、恋心だけは満たしてくれなかった。慈愛という優しすぎる光は、僕の薄汚い欲望を叶えるにはあまりにも貴すぎて、僕の方から背を向けるしか仕方が無かった。

 ……そしてこの痛みこそが、僕が本当に知りたかったことなんだ。

 その為の時間をくれて、本当に、ありがとう。

 だからもう、今度こそ、終わりにしよう。


「僕は、そろそろ――帰るよ」

 翌朝。僕は静かにそう告げた。

 魔女は朝食の準備をしようとしていた。魔法の竈の前に立って、得意の麦粥を作ろうとしていた。彼女は言葉をなくして、しばらく立ち竦んでいた。今にも倒れそうな弱々しい体躯。生きた骸骨のようなみすぼらしい四肢。僕は彼女を支えない。……彼女の見た目はまやかしに過ぎない。彼女は、強い。最初から最後まで、たった一人で立っていられる。

「……もう、いいの……?」

 あの時と同じ問い。幼かった僕が迎えていた逡巡は、もうとうに通り越した。僕は強く頷く。

「もう、いいんだ」

 ……ようやく。

 ようやく……言えた。

 鼻の奥がツンとして、目尻に涙が溜まる。魔女が、微かに震える指先を差し伸べて、涙を拭ってくれた。

 彼女の手袋に、その一粒の涙が染み込むのが見えた。


 魔女。境界線上の魔女。

 彼女は村と荒野との境で、誰の助けも借りずにひっそりと一人ぼっちで暮らしていた。痩せた醜女。不気味な、襤褸を纏った老婆。追放者。

 彼女は邪視を持っていると信じられていたから、皆彼女のことを見ないように避けて歩いた。いるのにいない。いないのに、いる。僕にとって彼女はささやかな不思議の体現だった。実際、僕は遠くから何度も彼女の仕草を確認したけれど、邪視を受けたことなんて一度もなかった。……ああ、でもただ一度。狂おしい思いに駆られたこともあったかな。

 彼女が、ぼんやりと見つめていた僕の方を不意に振り返り、微笑みかけてくれた時。

 きっとあの時僕は恋に落ちて、そんな僕だったからこそ、魔女は最初で最後の魔法を見せてくれたのだろう。


 この逞しく成長した体躯も、すらりと伸びた背も、覚えた知識も、すべては夢幻。

 本当の僕は、馬飼いの仕事を手伝っている時、強かに蹴られて頭を打って――ああ、なんて馬鹿らしい最期を遂げたのだろう。

 魔法とは実在しないもの。だけど、それを確かめる術は、案外少ない。自意識を持って、知能を働かせて、五感を駆使して、ようやく理解するということが、実在の証明だ。だから、その証明ができない場所まで来れば、魔法は力を得る。例えばそう、夢と現実の境界。肉体と精神の境界。……生と死の境界。


 喪ったはずの未来を、夢として見せてくれたのが彼女の魔法。ささやかな、魔法。

 きっと僕が言わなければ、満足できるだけの一生分の時間を過ごさせ、僕が夢の中で死ぬまで、ここに居させてくれただろう。本来死の淵に在る僕の一分一秒を、何万、何億倍にも先延ばしにすることで。

 けれど、「もう、いい」。

 僕がしたかったことなんて、一つしかなかったから。


 魔女の手を取る。そして、魔女の頬に口づけをする。

 現実の僕には出来なかったことを、夢の中の僕がする。


「さようなら。……ありがとう」


 魔女の皮膚は雨ざらしにした紙のようにザラついていて、唇のすぐ向こうに骨の感触があった。

 ああ、彼女は生きている。彼女は、ここにいる。

 僕はそれを証明できた。彼女は、もう僕にとっては、実在不明の境界線上の存在なんかじゃない。

 僕が愛した、ただ一人の人だ。


 魔女は目を見開き、何かを言おうとした。……その瞬間、闇の帳が落ちた。

 ブツン、と、ラジオが突然途切れるみたいに。

 これで終わり。これで、終わりなんだ。

 魔法は解けた。……僕は再び、大地に横たわる。もう優しい慈愛のベッドは存在しない。ただ、虚無に。元の場所で、一人で横たわる。

 死を待つという一瞬。意識と無意識の境界線上にて。

「……さようなら、大好きなひと」

 未来なき言葉は、どこにも行けないまま、そこで途絶えた。


(終)

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境界線上の魔女 鳥ヰヤキ @toriy_yaki

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