第48話 交わした約束

 意識が回復した翌日、煉は精密検査を受けた。結果、奇跡的なほどに身体には何の異常もなく医師から退院の許可が下り、無事にさくらの自宅マンションへと帰宅した。


 そして、目下。煉は病み上がりの身体で台所に立っている。


「何も退院した日に作らなくても……」


「俺のカレーを食べたいと言ったのはお前だろう。寝てはいたが意識はあったからな。お前の願いは聞こえていた」


「え!? わ、私、何か変なこと言ってなかったよね……煉の悪口とか」


「それはないが……ほう? 俺の悪口を言っていたのか?」


 煉は、鍋の中で美味しそうな香りを漂わせているカレーを混ぜながら、胡乱うろんげな視線をさくらに向ける。


「いえ、言ってないです……」


 共に生活を始める前までは、煉のことをおかしな人だと変人認定していた時期はある。だが、一度も悪口を言った覚えは、自分の意識がある限りではない。なのに、疑われると妙にそわそわとしてしまうのが人間のさがなのか。


「怪しいな」


「え?」


「俺の悪口を言っていないという証拠を示したら、納得しないこともない」


「つまりは……どういうことでしょう?」


 嫌な予感がよぎり、さくらは問いをはぐらかす。


「…………」


 もしかしなくても、これは怒っているんじゃ……。


 取り敢えず謝罪をした方がいいのかもしれないと、さくらが慌ただしく思考を巡らせていると、不意に唇に柔らかな感触が伝わる。


 煉に口づけを交わされているのだと気がついた時には、すでにその唇は離れていた。


 一瞬のことで思考が追い付かず、さくらは惚けたように煉を見つめる。すると、煉は再度、身体を寄せ、さくらの耳許で囁いた。


「今日はこれで、許してやる」


「なっ!!」


 さくらの反応を見ていた煉は、含み笑いをしていた。完全にからかわれていると知り、怒りか羞恥か、全身に火照るような感覚が広がる。


「カレー、出来たぞ。好きなだけ食べるといい」


「じゃあ、大盛りでっ!!」


「可愛げが無いな」


 そう言いながらも、煉は嬉しそうに微笑みながら、さくらの注文通りに大盛りのカレーを皿に盛り付けていた。


 ◇


「さくら、ちょっといいか。話がある」


 夕食を終え、お互いに入浴も済ませた就寝前の時間に、煉は珍しく改まってさくらをリビングに呼びつけた。


「うん。丁度、私も話したいことがあったの」


 就寝着に着替えたさくらは、少し緊張した面持ちで煉と向かい合うように座る。


 どちらが先に話を切り出すのか、互いに様子を伺う。少しの間を開けた後、口を開いたのは煉の方だった。


「……他人に、このことを話すのは初めてだ。だから、上手く伝えられないかもしれない。それでも、聞いてくれるか?」


「うん」


 いつもとは違う只ならぬ雰囲気に、さくらは息を飲み、次に続く言葉を待ちわびた。


「なら、今から少し昔話をしよう。……俺は元々捨て子だったんだ。遠い昔、飢えを凌ぐために森をさ迷い倒れていたところを老夫婦に助けられた……」


 煉の唐突で衝撃的な物語の始まりに、さくらは驚きを隠せなかった。平成も終わり新な年号を迎えた時代に、未だこんな壮絶な人生を歩んできた人間がいるのかと、にわかには信じられなかった。しかし、煉は至極真面目に語っている。その姿は嘘をついているようには、とても見えなかった。


「だが、その老夫婦もまた、重い病に冒されていた。俺がいなければ、本当は薬の一つでも買えたはずなのに、そうはしなかったんだ。今日明日の食べる物を見繕うのにも苦労していたはずなのに。そして、そんな日々は長くは続かなかった。老夫婦が亡くなった後、俺はまた独りになった。食べる物を盗み、繰り返しては生き長らえていたんだ。……引いてるよな、当然だ」


 煉は自嘲し、さくらの様子を窺う。


「……引いたりなんか、しないよ。続けて。煉のことを聞かせて」


 さくらは首を左右に振り、煉の話の続きを促す。


「そうか……ならば話を続ける。そして、何年か月日が流れた頃、俺は、とある事に巻き込まれたんだ。生死の狭間をさ迷い、もう駄目かもしれないと意識を手離しかけたとき、一人の男に命を救われた。だが、それは俺にとっては地獄の始まりに過ぎなかったんだ……」


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