第10話

 結局、今日も仕事を終わらせるのに時間が掛かってしまった。今日も今日とて上田課長の逃げ足は早く、気がつけば他のどの社員よりも一早く退勤していた。


 さくらは会社から外に出ると、すっかり暗くなった夜空を見上げる。


 そういえば、あの男はどうなったのだろう。ふと、そんな思いが頭をもたげる。確かアパートを追い出されたとか言っていた。まあ、最初に会った時点で、かなりの要注意人物なのは変わりはない。


 少しだけ。……ほんの少しだけ、公園を覗いて帰るだけなら問題はないと思う。


 さくらは自身に対して言い訳をして、マンションに帰宅する道すがら、公園を覗いて帰ることにした。

 

 昼休みに優と利用した公園は、会社から直線で徒歩十分程の距離にある。


 公園に向かう前に、コンビニに立ち寄り夕食用の唐揚げ弁当と缶ビールを二本購入して店を後にした。


 小さな公園には、心許ない外灯が幾つか点灯している。


 三月に入り日中の寒さは、少し和らいだが朝晩はやはり冷える。それを、あの男は野宿で過ごすのではないのかと、さくらは半ば不安に思っていた。


「……さすがにいないよね」


 さくらは昼に男がいたトイレの裏手側の茂みを覗き見る。だが、そこに男の姿はなかった。


 少しの落胆と安堵。


 ほっとしたような、残念なような複雑な感情を抱きながら、踵を返して自宅へ向かおうとしたときだった。


「あ」


 その姿がふわりと暗闇から現れ見えたのは。


 男はトイレとは反対側の方の公園のすみで、茂みに隠れるようにして、野良猫だろう漆黒の猫に餌を与えていた。


 さくらの存在に気づいていないのか、男は優しげに猫を見つめている。


 暗がりでよく見えないはずなのに、その横顔がとても儚げで、寂しそうに見えてしまったのは、さくらの気のせいなのか。


 何故か邪魔をしてはいけないような気がして、公園の出口に足を向けた。


 静かにその場から離れようとしたとき、左手に持っていたコンビニ袋がガサリと音を立ててしまう。


 その小さな音に気がついた男はようやく顔を上げて、さくらの方へと視線を向ける。


「お前……」


 背中の方から聞こえる男の声にびくりとして、さくらは立ち止まった。


 誰にだって見られたくないことは有る。


 それは、この男だって同じことなのではないのか。それを私はずかずかと無断で踏み荒らしているのではないのか。そんな気がして急に居たたまれなくなった。


「ごめんなさい……。驚かせるつもりはなかったんですけど……」


 男は然程驚きもせず、さくらを一瞥しただけで唐突な質問をする。


「お前、猫は嫌いか」


「え? 好きですけど……」


「なら、この猫を飼えないか」


「それは……。無理です。私のマンション、ペット不可なんですよ」


 さくらの返答を聞いた男は、猫缶を完食して満足げに喉を鳴らしている猫を見下ろしながら呟く。


「やはり、この女も駄目らしい。すまないな。連れて行けそうにもない」


 その言葉は猫に向けられていた。


「あの、連れて行くって何処にですか? もしかして、この猫怪我とか……」


「いや、怪我はしていないはずだ。ただ、俺がこの場を離れたら、こいつはひとりで生きていけるか不安になっただけだ」


「離れる?」


 いまいち男の話の内容について行けず、さくらは頭を傾げる。野良猫ならば単独で生きていくことには、慣れているのではないだろうか。


 実際は私は猫ではないので、その苦労は解らないが。


「街を離れることにした。今日中にここから抜ける予定だったんだが、この猫が気になってな」


 急な話にさくらは気が動転した。そして何故か瞬間的に思ってしまったのは、この男ともう会えなくなってしまうのではという懸念だった。


「じ、地元に帰る……とかですか?」


「そうじゃない。何処に向かうかもまだ未定だ」


「なら──」


 さくらが突発的に言い放った言葉に、男はため息を溢すしかなかった。

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