第6話

 同日、午後七時半過ぎ。


 無事に気怠い月曜日の業務を終えたさくらは、パソコンの電源を切り小さく伸びをする。肩凝りが酷いなと思いながら、隣の席に目線を向けると、優が首を傾げながら問いかけてきた。


「さくら、飲みに行くんでしょ?」


「うん。月曜から付き合わせてごめんね~」


「気にしないで。じゃ、行こっか」


 優はさくらの言葉に優しげに微笑むと、バッグを肩にかけ、さくらの肩をぽんっと軽く叩いた。


 二人は足早に退社すると、真っ先に行きつけの居酒屋に向かう。


 よくあるチェーン系列の居酒屋ではなく、昔から街の人々に親しまれてきた狭くも温かい人情身溢れるお店、そこが二人の仕事帰りの憩の場だった。


 暖簾をくぐり店の引き戸を開けると、店の女将が笑顔で二人を迎え入れる。


「いらっしゃい! 何にする?」


「おかみさん、こんばんは~。とりあえず生ビール二つで」


「あいよ。美人さん二人には、おつまみもサービスしちゃおうかね」


 すでに狭い店内は満席に近い状態になっており、二人はカウンター席に座りながら早速注文した生ビールを片手に乾杯を交わす。


「で。何があったの? 上田課長のこと?」


「いや、上田課長が仕事しないのは何時ものことだから……。気にしないんだけど。えっと……」


 さて。どうしたものか。此所に訪れる道中、優に何と説明するか永遠と思考していた。しかし結局、何も良い案が浮かばなかったのだ。


「……猫……拾ったんだけど、逃げられちゃって……」


「猫? さくらのマンションってペット禁止じゃなかった?」


「あ……」


 しまった。すでに墓穴を掘り始めているような気がする。そうじゃない。いや、しかし。あの男、何となく猫に似ている感じがしたのだ。それで、つい口走ってしまった。


「……さくら? 何か今日変だよ? どうしたの?」


 優は左席に座っているさくらを怪訝そうに見つめる。優は時折、おっとりしているようで何処か鋭い時がある。だが、さくらのあからさまな挙動不審を見れば、誰でも疑問に思うのが普通だろう。


「何でもないよ~。それより、優は彼氏とはどうなのよ」


 さくらは苦笑し結局、話題を自分のことから優の彼氏のことへとすり替えた。


 まあ、一度や二度の失敗は誰にでもある。


 それに、あの男とはもう会うこともないだろう。ならば、この話は自身の胸に留めて忘れてしまったほうが気分的にも楽になれる。


 さくらと優は、居酒屋で一時間程飲み交わした後、店を出ると徒歩で家路を辿る。


 外に出るとアルコールで火照った身体に夜風が当たり、酔い醒ましには丁度良かった。


 橋に差し掛かった所で、優が突然歩みを止める。


「ねぇ、何か聞こえない?」


「ん? 何?」


 さくらは優に促され、歩みを止め耳を澄ませる。すると、橋の下、流れる川のほうからバシャバシャと激しい水音が微かに聞こえてきた。


 人が溺れているような、そんな水音だった。


 二人は橋の下を流れる夜の川を、目をこらして眺める。優が声を上げ指し示す。


「あ! 人がいるよ!」


「え? 何処?  …………ん?」


 暗闇の中で川を渡っている人影。さくらは、その人影に見覚えがあるような気がした。


 何故なら、その人物は……。


 さくらが金曜の夜、助けた『あの男』だったからだ。


「は? …………なに、やってんの? あの人……嘘でしょ? ごめん! 優、私ちょっと用事思い出しちゃった。タクシー捕まえて先に帰ってて。 それじゃあ!」


「え!? ちょっと! さくら!!」


 さくらは優の戸惑いの制止も聞かずに、まだ酔いが覚めきらない身体で走り出した。


 あり得ない。自分自身にも。あの男にも。


 二月の凍えるような川に飛び込む馬鹿がいるのだろうか、普通。いや、そもそもあの男自体が普通ではないのか。


 それなのに、どうして私はあの男を放っておけないのか。


 ぐるぐると繰り返される自問に、さくらは答えが出せないまま、川辺へとかけ降りて行く。

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