第5話


「…………もしかして、お前もあれか? 男に飢えているのか?」


「……次、ふざけたこと言ったら、即警察呼びますからね」


 男はそんなふざけたことを至って大真面目な顔をして言っているのが、さらにさくらの苛立ちを加速させる。


 確かに助けて欲しいとは言われてませんけど、いくら何でも酷い言い様ですね。と胸裏で毒づく。


 だが、そんなことを思考している内に、さくらの視界は突然、横転し自身の部屋の天井が見えた。


 一瞬何が起こったのか理解が出来なかった。


「なら、むやみやたらに男を家に上げるな。こうはされたくないのだろう?」


「…………」


 さくらは名も知らぬ男に押し倒されていたのだ。水に濡れ、まだ完全に乾いていない床から冷たい感触が背中に伝わる。捕食者のような鋭い目付きがさくらを見下ろしている。


 そして男の大きな手がゆっくりと、さくらの首筋に這う。怖さか驚きか。さくらは目蓋を閉じることも出来ずに男の顔を見つめる。


「はぁ……。嫌なら抵抗ぐらいしろ」


 男は不機嫌そうに言い放つと、さくらの首筋に這わせていた手を退けて、少し乱暴にさくらを抱き起こす。


「最っ低」


 さくらは男を睨みながら、そう一言するのが精一杯だった。


「……それでいい。俺にはもう近づくな」


 静かに立ち上がると、男は玄関から外へと消えて行った。


 折角の休日を朝から台無しにされ、恩を仇で返されたさくらはその日は、一日中実に怒り心頭だった。


 残業で疲れた身体を酷使してまで、することではなかったなと思う。


 あんな奴、助けなければ良かった。


 ◇


 月曜日。

 

 今日からまた、疲れた身体に鞭を打ち、一週間も仕事に励まなければならない。


 土日のやけ酒が抜けずに、どんよりとした表情をして頭痛に苛まれながら、満員電車に揺られて、さくらは会社へと向かった。


「原さん、金曜に頼んだ書類は仕上がっているかな?」


「出来ています。こちらです」


 さくらの上司は、ニコニコとしながら書類を受け取り自身の席に戻っていく。


 頼むから、もう少し真面目に仕事をしてくれないだろうか。私の上司は。と、一瞥しながら思う。


 上司のデスクには、最愛の妻と愛娘が写った写真が飾られている。別にそのことに対して文句が有る訳ではない。ただ、見すぎなのだ写真を。上司は暇さえあれば、その写真を眺めている。


 お陰で業務が滞ることもしばしばで、結局そのしわ寄せが来るのは、さくら達なのだ。


 さくらの苛立ちは、先週の金曜から募るばかりだった。


「ね。さくら。今日顔色すごい悪いけど大丈夫?」


 周りを気にしながら、小さな声でさくらに尋ねてくる女性―鈴木優すずきゆう―は、可愛らしい童顔を困り顔して此方こちらを見つめている。


「いや。ちょっと土日に飲み過ぎちゃって……」


「なら、胃薬いる?」


「うう。ありがとー。優だけが私の癒しだよー」


 こういう時はやはり、持つべきものは心優しき友人に限る。仕事を疎かにする上司は取り敢えず置いといて、あの血まみれ男は許せない。


 勤務中だというのに、あの男を思い出して気分が急降下する。


「……ねぇ、優。今日の夜空いてる?」


「特には何もないよ。どうしたの? 深刻な相談?」


「まぁ……うん。ちょっと、ね」


 さくらは言葉を濁した。仕事終わりに居酒屋で晩酌でもしながら、優にあの男の愚痴を聞いて貰うか悩んでいたのだ。


 だが、何と言えばいいのだろう。


 『先週の金曜に、血まみれの男を拾って助けたけど、恩を仇で返されました』といくら何でも馬鹿正直には言えない。


 どう言えばいいのか。実に困った。……だが今は悩んでいても仕方ない。業務に集中しよう。自分までもが上司と同じになってしまっては意味が無い。


 ……早く、仕事終わらないかな。

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