最終話 この不条理な世界の果てに
毎朝の通勤電車には本当に参る。
スーツを着込んだサラリーマン同士で身を寄せあって、時にはオヤジのちょっとキツい体臭なんかが鼻につく。
まあ、僕も――そんな年齢に一歩ずつ近づいてはいるのだけど。
2025年 7月27日。須藤晴信、24歳。
ひたすらデスクに向かい、次のプレゼンの資料を作る日々。良い大学に行ったおかげで世間的には大企業と認識されている会社に就職はできたものの、だからといって仕事にやりがいがあるかというと……。
本当は映画会社に就職したかった。あの『ガルルシリーズ』を作り続けている会社だ。今年も無事新作を発表し、テレビで放映され続けている。嬉しいことだ。
けど、そのシリーズには関われない道になった。落ちた。面接で落とされた。理由? 知らん。面接では全力を尽くした。しかし周りが凄い奴だらけだった。それだけのことだ。
机に置いていたスマホの画面にROINEの新着メッセージが表示された。同棲している彼女からのメッセージだった。
『そういえば(あの日)がそろそろだね。今年はどうしようか?』
あの日――
そういや、そうだったな。
どうしたもんかなと、ビルの窓から青空を眺めた。
*****
須藤晴信は新学期が始まる一週間前に、実家へと帰った。
東京の中心から少し外れた地域である三鷹市に、彼の家はある。
三鷹駅のホームに降り立ち、改札まで向かうと、自動改札を隔てたむこう側に晴信の母が立っていた。
改札を抜け、母に近づく。
「お帰り、晴信」
「……ただいま」
母は晴信を抱きしめた。人前で恥ずかしい思いもあったが、晴信は黙ってそれを受け入れた。
「大変、だったね……」
「母さん」
「うん?」
「僕は、生きるよ」
「……」
「ハルの分まで、強く、生きる」
母は静かになった。周りから雑音が消えたように二人は静まり返った。唯一、蝉の鳴き声だけがその空間を支配し、命の音を轟かせていた。
四人が再会したのは、翌年の八月のことだった。
晴信、優香里、俊樹、響の四人で集まろうと、晴信が提案した。響は優香里や俊樹と初めて出会うことになる。
あの日のことを、忘れるわけにはいかなかった。だから晴信は一年ぶりに皆と会いたいと思った。かつてつくっていたROINEのグループに、メッセージをひとつ送った。十分ほど経ってから既読がつき、優香里が最初に反応を示した。
響の住む北海道千歳市に行くため、三人は空港で待ち合わせた。晴信が長イスに座って待っていると、「よう」と後ろから声をかけられた。
「あ、俊樹。久しぶり」
「ああ、久しぶりだな」
俊樹の見た目はあまり一年前と比べて変わっていなかった。ただ、ひとつ変わっていたことは。
「コンタクトにしたの?」
「おう。何となくな」
そう言いながら俊樹は晴信の隣に腰をおろす。黒い半袖の服は俊樹らしいと晴信は思った。
「みらい、ずっとやってんな」
「うん……」
暴走した片割れによる大人災が起きたことが世間に明るみになることはなかった。全ての情報は隠匿され真実は闇に葬られた。片割れは大きな危険をはらんでいる。その事実が明らかになれば間違いなく分離症患者に疑念と差別の目は向けられる。だからこそ、『みらい』が『母体殺し衝動』を公にしないのは正しい判断ではあった。
『みらい』から去った元患者たちも、そのことはわかっている。だから誰も衝動のことを施設外の人間に言おうとはしないし、万が一発言し、それが発覚した場合は強制的に記憶消去の処置がとられることは、施設を出る前に伝えられる。
地下施設に隔離された片割れたちは、覚醒してないものに関しては部屋から出され、再建された管理施設に移された。二階堂秀則の主導のもとシステムを一新させ、片割れ患者に対する不当な医療実験を禁止させ、管理施設にて普段通りの生活を片割れが送れるようにした。希望があれば母体とも会える日を設ける。もちろん覚醒していない者に限るが。覚醒しても、ただ強固な部屋にて閉じ込めるだけ。兎に角研究を進め、衝動を抑える、完治できるような薬や手術の開発を急いでいる。みらい自体も、少しずつ変わりつつある。
「まあ、俺たちって結局ある意味成るようになった、てことだよな」
「そうだね。きっと」
帽子のつばを持ち、何となく深く被り直す。みらいに初めて行った時に被り、そして施設から逃げる際にノブに被せていた帽子だ。
「お前、帽子とらねーの?」
「うん。被っていたい」
はあ、と俊樹は「よくわからん」といった表情で相槌をうった。
「おはよ」
懐かしい声が二人の耳に届く。晴信はそれを右耳で聞き取った。左耳は、あの時から完全に音が聞こえなくなっていた。
「お、優香里。ひさし……」
俊樹の声が途切れる。晴信も驚いていた。優香里の見た目に。
「何ですか? 私にはやっぱり似合わないですかねこういうのは」
少しばかり化粧をしていて、髪は軽くウェーブがかかっていた。服装も全体的に軽快ながらオシャレだった。どことなく、ユカを意識しているのかもしれない。
「いや、そういう意味じゃないよ。ただ、かなり変わったなって」
「……私も、あれから、一年経ってから、思ったんです」
優香里は一度息を小さく吐き出してから答えた。
「私には……ユカがいてくれた。そのことを忘れないために、変わろうって」
優香里の目には確かな意志が宿っていた。
「お前が響か」
千歳駅の駅舎にて。
俊樹が響の前に仁王立ちしている。何故か胸を張り上げている。偉そうだ。
「ああ、そうだよ。初めてだな」
響も負けじと俊樹を睨み返す。
「晴信さん、響さんって確か……」
「うん。心は男だよ」
「なるほど。理解しました」
優香里はにっこり微笑んで響にかけ寄った。
「初めまして、響さん。雨宮優香里って言います」
優香里が華やかに笑ってみせて、響は少々たじろいでいた。突然の女子到来に年頃の男子なりにドキマギしたのかもしれない。優香里が二人の間に入ったおかげで、ピリピリとした空気は中和された。
「は、はい。初め、まして」
「おいお前何顔赤らめてんだ?」
「はっ⁉ 別に赤らめてないっすけど!」
「見た目に騙されんなよ。こいつ可愛いフリしてただのオタクだからな」
「ちょっと、どういう意味ですかそれは?」
「それにこいつは晴信のモンだしな~」
今度は優香里の顔が一瞬にして赤くなった。
「ばっ、何言ってるの⁉」
丁寧語の口調も思わずなくなるほど。
「ま、マジなのか! おいお前!」
響は何故か晴信に詰め寄る。
「うわ~、ちょっと皆落ち着いて!」
晴信は騒ぎを治めつつも、その表情は笑っていた。
三日後、晴信は東京に戻り三鷹駅まで帰ってきた。
四人でこれからも、毎年八月十日に集まろうと約束して。お互いにとって大切なことを忘れないために。
改札を抜けてコンビニや飲食店が並ぶ道を歩いていると、楽しそうに笑いながら駅に向かう二人の男子が歩いてきた。晴信とは年齢が近いように見える。最初は友達かと思ったが、距離が縮まって顔が確認できるようになると、晴信はあっと息を飲んだ。
分離症患者である男子は晴信の横を軽やかに通り過ぎていった。
「……」
振り返り、何かを言いかける。言いかけて、何を言うつもりなんだと口を閉じた。
ただ、心の中で。
頑張れ
と呟いた。
不条理な現実に、絶望したとしても。
そのための、エールを送った。
心の呟きは、入道雲が天高く盛り上がる夏空に溶けていった。
*****
「まあ、また僕らが千歳に行く感じでしょ?」
「まーねー」
優香里と一緒に横浜の赤レンガ倉庫のあたりを歩いている。
ここ最近は忙しかったため、一ヶ月ぶりのデートだった。
「ねえ、晴信」
優香里が僕の目を真っ直ぐ見つめて、言った。
「『あの日』のことも大切だけど、私たちのこれからはどうお考えですか?」
マイクを差し出すように、手を握って僕に向ける。
「えーっと……まだ心の準備が」
「……」
「わかったわかった! 『あの日』が終わったら、ちゃんと、言うから……」
「ほう」
「……ちゃんとプロポーズします」
「ふーん。ま、楽しみにしておきまーす」
優香里はルンルンと軽快なステップを踏みながら先の道を行ってしまう。参ったな、なんて思いながら僕は彼女の後を追いかけた。
空をふと見上げる。見知らぬ分離症患者の男子にエールを送ったあの時のような夏空が、そこに広がっていた。
分離チルドレン 前田千尋 @jdc137v
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