第25話 瓦解
意味がわからなかった。
ハルさんの言葉が何だか遠くから聞こえてくる。彼の放つ一言一言が私の耳に無理やり入ってくるみたいで、気持ち悪さを感じた。
本当はもう止めてほしかった。けれど同時に、ハルさんの言うことに耳を傾けなくちゃいけないということも、悲しいくらいわかっていた。だから、私は最後まで聞いた。そうして、彼の顔を見た。
ハルさんの肩は震えている。いや、肩だけじゃない。体全体がガタガタと小刻みに動いている。比喩でも何でもない。だって、彼の唇までもがすっかり青くなって言葉が途切れ途切れにこちらに伝わってきたから。
彼の、必死に、覚悟をもって話してくれていることがわかったから、私は堪えたんだ。
けれど、トシは意味の理解に苦しむのに堪えられなかったみたいで。
「……ちょっと待て、何だよ、それ」
ハルさんが事を言い終えたと同時に声をもらした。
「うんなもん、信じられるか……!」
トシの言うことはわかる。私も信じたくない内容だ。けれど、私には思い当たる節が多すぎた。最近のユカの行動、言動のおかしさはハルさんの言ったことが事実なら、その理由としてぴったりなのだ。
「そう、だよね。信じられないよね、最初は、僕もそうだった」
もう全てを投げ出したかのような口調でハルさんは呟き答えた。畳の感触が唯一の救いだった。私は密かにそっと指で井草の流れをなぞった。
「けどね。これは、事実なんだ……揺るぎない、事実で、僕らを取り巻く環境の真実だったんだよ」
ハルさんはそれだけ言うと黙り込んだ。重い沈黙がどんよりと沈んでいく。
「……なあ、ハル。要は……お前の言う通りなら……」
トシがゆらりと立ち上がった。
「シキがいつか俺を殺しに来るってこと、なんだよな?」
「……そういう、ことになると思う」
「⁉ ……お前、ざっけんなよ!」
トシが勢いよくハルさんに掴みかかる。あまりにも声が大きかったから、隣の部屋にいるユカたちに聞こえてしまいそうな気がした私は、咄嗟に二人の間に割って入った。
「落ち着いてトシ!」
「なんだよ! だって意味わかんねえだろ⁉ なんで、リン! お前はなんでそんな普通でいられんだよ⁉」
「ハルさんの言うことが真実だからだよ! それが分かってるから!」
「……は?」
トシは私の言葉の意味が瞬時に飲み込めなかったのか、困惑のような放心してしまったかのような表情を浮かべた。
「ユカも……きっと、その衝動に目覚めてる」
「いや、あのさ……」
「……ノブは、もう薬を飲むところまできてるんだ。トシ。衝動に目覚めてる片割れは、すでに発生し始めてるんだ」
「ちょっと待てお前らああああ!」
脳の処理が追い付かなくなったのだろう。
トシは痛烈に叫んだ。
*****
「なんだ? どうしたあいつら」
隣の、母体組がいる部屋が何だか騒がしい。恐らくトシであろう叫び声が壁を突き抜けて私たちのいる部屋にまで届いた。
「心配やなあ。ちょっと見てくるか」
さっきから暇そうに寝転んでいたシキが隣の様子を見に行こうとして立ち上がり、ノブに阻まれる。
「やめておけ」
「? なんでだよ」
「母体同士で大切な話し合いって言ってただろ。だったら俺たちが顔を出しにいくべきじゃない」
「えー、そんなものなのか?」
シキが助けを求めるように私を見つめてくる。こんな時だけ、彼は怯えたハムスターみたいな表情を顔に浮かべるものだから、私は内心くすりと笑ってしまう。
「そんなものなんだよ、きっと。ま、私たちは極力でしゃばらない方がいいってことでしょ?」
ノブに確認する。
「まあ、そういう、ことだな」
ノブはさっきから昼間にコンビニで買った梅昆布をしゃぶり続けている。落ち着かないのかな。私も、何だか胸がざわざわしている。
「ねえノブ」
「うん?」
「私にもそれ、一つちょうだい」
「ああ、いいよ。はい」
「どうも」
ノブから貰った梅昆布を、静かに口につける。なめていると程よい酸っぱさが口の中に広がっていく。なるほど。確かにこの酸味は緊張していたり不安だったりする時に、心地よい味かもしれない、なんて思った。
「なんかー、辛気くせえなあ……」
シキが大きなあくびをした。
「そうだ、どうせあいつらが大事な話してるっつうなら、俺もお前に訊きたいことがあるんだ」
そう言ってシキはノブの方に向き直り、彼の顔をじっと見つめた。見つめられているノブは予想外な相手の動きに少したじろいだ様子を見せた。
「な、なんだよ」
「なあ、お前さ……俺とユカに隠してることあんだろ」
「!」
一瞬、ノブがひきつったような顔になる。私の心臓も、ドックンと大きく鼓動を打ったようだった。
「か、隠してる? 俺が? 何を?」
「そんなの俺が知るか。お前にしかわかんねえよ」
「俺は何も隠してねえよ」
「隠してるだろ」
「隠してないって!」
「じゃあさ。晩飯の後、そそくさと洗面所に行ってたよな? ありゃ何だ」
「べ、別に……向かいのトイレに行っただけで」
「……薬、飲んでたじゃん」
ノブの顔色が瞬時に変わった。最後のバリケードを突破されたような感じだった。
「錠剤を、飲んでただろ。見たぜ、俺もトイレ行こうと思ってよ。そしたらお前が先にいてな。それに、最近どうもハルの奴がお前に余所余所しいっつうか、最初出会った頃と何か違うんだよお前ら」
驚いた。意外にもシキがこんなに人のことをよく見ていたことに素直に感心してしまった。
私の、あの変な感情。どろどろに渦を巻いて、自身の母体に対して向かう、禍禍しい情動。あれを、もしかしたら……ノブも抱えているんじゃないだろうか。
「お前もだぜ、ユカ」
「えっ」
突然、矛先が私に向く。
「なーんかユカもよお、変だぞ。下手にリンとハルの野郎をくっつけようとしたり。前まではふざけてやってた感あるけど、今は何かに急かされてるみたいにやってるだろ」
ほんと、なんなの?
なんでこうもシキはさっきから的を撃ち抜くような、ズバッと相手の胸を突き刺すようなことばかり言い続けるの?
あんた、そんなキャラだったっけ?
「フン。お前ら、『なんでバカでしかない俺が急に利口になったの?』みたいな顔してんな」
そうですよ……なんで?
「いいか? 俺はトシの片割れだ。あいつの理想の自分は俺なんだ。陰キャラじゃないのはもちろん、二度と女の子の前で恥ずかしいヘマしないために、相手のことを人一倍理解できるような人間になる。全ては自分のために、ってな。だから人間観察とか、よくやってんだよ俺あ」
えー……そ、そんなの普段のあんたからは想像できる余地もなかったよ。
「……は、ははっ」
いきなりノブがからからと笑いだした。
「どうしたお前」
「いや、ごめん。びっくりしたよ。シキって……そうか。バカやってんなーっていつも思っていたけど、わざと演じていたんだね、ずっと」
「おい、誤解されちゃあ困るから言っとくが、全部が嘘ではないぞ。女子は猛烈に好きだからナンパとかしまくってるのは、ありゃ素だ」
「へー、普通にキモい」
「おい、ユカ。テメエ」
最初に出会った頃よりかは落ち着いてきたけど、今でも彼の髪はワックスがテカテカに塗られて、逆にダサい。けど、全部シキがうつけ者を演じるための衣装だったのだろう。
ほんと、わかるわけないよ。あんたがそんな奴だったなんて。
「で、ほら。話が大分逸れちまったが、どうなんだお前ら」
ノブの顔が交互に私とノブのことをじろりと見回してくる。私は、ノブの横顔を見つめた。
ノブは、観念したように口を開いた。
「……分かった。教えるよ。俺が、隠してること、全部」
徐に、彼は立ち上がった。そして、次の一言で。
「俺さ、このままだとハルを殺しちゃうらしい」
私の変な感情の正体が、分かった気がした。
ノブは悲しそうに笑いながら、そう言ったんだ。
*****
ようやく、胸につっかえていたものがとれた気がした。
ハルさんの話を聴けば聴くほど、私は皮肉にもどんどん理解していって、答えがやっと得られて嬉しいくらいの感情が沸き起こっていた。
トシはずうっと頭を抱えている。かれこれハルさんが話し始めてから二十分くらい経っているから、その間中ずっとだ。
「……ありがとう、ハルさん。全部、正直に話してくれて。辛かったよね」
「え……」
「だって、そんな大変なこと、一人で抱え込んでたんでしょ?」
「……僕は、ある人からこの話を聞いたんだ。だから、一人で悩んでたわけではないよ」
「そうなんだ……」
ある人。その存在が非常に気になる。そんな秘密を知っていて、ハルさんに、ハルさんを選んでそのことを伝えた誰かの存在――
「誰なんだよ、そのある人っていうのは」
私が訊ねる前に、沈黙を続けていたトシがふいに頭を上げて質問を投げ掛けた。
「えっと……僕らの一個上の人で、あの人だよ。公園で僕らに絡んできた」
「ああ、あったなそんなの……今回の旅行のことを俺とシキが最初に話して……ていうかアイツが⁉」
「え」
「あの、背が小さめの男だろ?」
「う、うん」
「マジかよ……」
そうか、あの人か。こう思うのは何だかおかしいかもしれないけど、ピッタリだと感じた。確かに、ああいう人なら重大な秘密を持ってそう。うん、如何にもだよ。って、そんなどうでもいいことを考える。
「なあ……俺はさ。まだ色々と整理がつかないんだけどよ。とりあえず、お前に訊きたい」
「何?」
「それを俺とリンに教えて、この後どうすんだよ。片割れに話すのか? 俺はそれを知った上でこれからシキと顔を合わせなくちゃならねえのか?」
トシの疑問はもっともだった。この秘密を私たちに伝えて、これからどうするつもりなのだろう。
ハルさんは私とトシの顔を静かに見つめてから、一度深く息を吐き出して、答えた。
「衝動にめざめた片割れは、とある施設に隔離される。そこで様々な実験のモルモットして扱われていくらしい」
ごくりと唾を飲み込む。トシも息を飲んでいるようだった。
「どう思う? このままじゃ、ノブもユカさんも、シキも皆そうなるんだよ。『母体殺し衝動』に関する研究は今も進められてるらしいけど、この一年二年の間に衝動の問題を解決できるような成果が出るなんて思えない。確実に、ノブが施設に入れられる日の方が早く来る」
私たちは黙って聴いていた。そうなのだ。私たちは早く知るべきだったんだ。ハルさんの言葉が霰のように降りかかる。ユカが、施設に入れられる、その前に――
「僕は逃げる。みらいから。僕らを騙し続けた大人たちから。例え、ノブに殺されることになっても、それでも僕は……大切な『自分』を、見殺しになんかしたくない」
「自分、か……」
シキが呟く。スマホの画面を確認すると、夜の九時になろうとしていた。
「ねえ、そろそろ片割れ組を……」
「そうだね。あ、風呂って確か十時までだっけ? 早く入らないと」
「あ、そういやそうだったな。ま、正直まだ納得いってない部分はあるが、しゃーないよな」
「そこは……ごめん」
「ほんとだよ。まあ、でも」
一拍おいてから、トシはハルさんの肩に手を置いて言った。
「ありがとな。真実を教えてくれて」
私も、同じ気持ちだ。
「……こちらこそ、信じてくれてありがとう」
「今度、つーかこの旅行終わったらその変な奴に俺たちを会わせろよ。俺も直接会って色々言いたいことあっから」
「分かったよ」
私が二人をおいて、隣の部屋に行こうとしたその時だった。
~♪
ポケットの中のスマホが鳴り始めた。
「あれ、何だろ」
「うん、俺のも鳴ってるわ」
「三人同時? 珍しいですね。こんなことって」
「だな。どんな確率だよ」
そして三人でそれぞれの画面を確認して、私たちは顔を見合わせた。
「……どっかからかかってきてる?」
「みらいから」
「私もです」
何だか、嫌な予感がするのは、気のせいだろうか。
「とりあえず、でよう」
ハルさんの声かけで、私たちは応答の画面をタップしてスマホを耳に当てた。
「もしもし? 雨宮リンさんですか?」
「はい、そうですが……」
「現在、全ての施設患者に確認の電話をしています。緊急事態が発生しました。直ちに今から伝える場所に向かって集合してください」
私たちの物語は――
もうすぐ終末を迎える。
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