第20話 夏期休暇の始まり


「明日から夏休みだな」

「だね」

 クーラーをガンガンに効かし、僕とノブは部屋の床のど真中で寝そべっていた。期末試験が終わり、今日は午前中に終業式があった。色々とゴタゴタしたことがあったけれど、過ぎ去ってみると全ての出来事がまるで架空のことのように思えてくる。

 しかし、現実は現実だ。

 僕のスマホのROINEアプリには、「響」の名前が登録されている。

 彼女……いや、彼と僕は密かにつながっている。みんなに黙って。

「よっこらせと」

 ノブが起き上がった。

「夕飯、今日は外に食べに行かないか?」

「うん? ああ、べつにいいよ」

「よし、なら早速行こう」

 ここ数日、ノブは何か重い荷をおろしたような、晴れた表情を浮かべるようになっていた。その前まで情緒不安定というか、どこかおかしかった彼と比べるとだいぶ落ち着いて見えた。

 正直、響から衝動のことを教えられてから、ノブが実際に目覚めていたのではないかと、僕は疑っている。もちろん、ノブに対してそのことを言及はしない。けれど、僕の疑いはほぼ確信に近い状態となっていた。

「おっと、『薬』持ってかなきゃ」

 一週間ほど前から、食後にノブが飲むようになった錠剤。ノブはサプリメントだなんて言っていたけれど、もう少し上手い嘘をついて欲しかった。

『母体殺し衝動』に関するものであることは、薄々ながら感じとっている。

「? どしたハル。早く行こうぜ」

 僕は、それでも自分の片割れに訊くことが出来ない。

「あ、ああ。ごめん、ぼうっとしてた」

 最悪な疑念を現実にする勇気が、僕にはなかった。





「リン、そろそろ晩御飯食べにいかない?」

 イヤホンをしながらスマホでアニメを観ていた私は、最初ユカが話しかけていることに気づかなかった。

「おいっ!」

 右耳からイケメンボイスが遠ざかっていった。イヤホンを外されたのだと、数秒経ってからわかった。

「わっ、ユカ」

「『わっ』じゃないよ。晩御飯にそろそろしない?」

「え、ああ、そうだね。でも、この話だけ観させて!」

「あと何分?」

「三分」

「ラストなのね。わかったわよ。その間に私は支度の準備してるから」

「ありがとう」

 私は右耳のイヤホンをつけ直し、再び画面に意識を集中する。両手にブレードを構えた少年が、空を飛び回って憎き親のかたきに向かって突撃していくクライマックスシーンが、鮮やかな映像美で描かれていく。

「お、おお!」

 思わず変な声が出てしまう。

「うわー」

 そうして、少年と敵の目が合い、互いに睨み合ったところで画面は切り替わった。『to be continued…』の文字が画面右下に表示され、エンディング曲が流れ始める。

「ふう……」

 エンディング映像まで余すことなく視聴し終え、イヤホンを両の耳から気持ちよく外した。

「あ、観終わった?」

「……ユカ」

「なに?」

「私やっぱ生まれてくる世界間違えたよ。このゲイゲキの世界が私にとって――」

「はいはい、何度も聴いた」

 ユカに軽く頭を叩かれた。

「いたっ」

「で、今日は何食べにいきたい?」

「え? そうだなー……」

 私は暫し考えた。この施設で飲食ができる場所は、三軒ある牛丼屋かデパート内にある幾つかのレストラン。私達はカードでタダなのをいいことに夕飯を毎日外食で済ませている。

 かれこれ半年くらいの時間が過ぎていた。当然、施設内の飲食店は粗方開拓済みで、メニューはバラエティ豊かといえどそろそろ真新しさが欲しくなってきてはいる……。

「ねえ、リン。特に食べたいものがなかったらさ、今晩はここにしない?」

 ユカが一枚のチラシを私に差し出した。

「す、寿司屋……?」

「そう。回転寿司でね、昨日から新しくオープンしたんだって! 郵便受けにこのチラシが入っててさ」

「寿司かあ……」

 寿司なんて何ヵ月、いや何年振りだろう。そもそも生魚を久しく食べていない。デパート内の和風レストランに刺身定食とかはあったけど、刺身自体はさして好きでもなかったし、注文したことはなかった。しかし、寿司となると話は別。ユカとも寿司を食べたことは一度もないし、寿司には人を幸せにする何かがある。

「うん、私も食べにいきたいから、ここにしよう」

「よっしゃやったー! 私、初めての寿司だから楽しみだよ」

 イスから腰を上げた直後、ユカの言葉にどこか引っ掛かって、私は彼女の方を向いた。

「あれ、そうだっけ……?」

「え、ああ。もちろん、分離する前の記憶はリンと共有されているし、寿司を食べたことは覚えてるよ。ただ、私自身が食べたことは一度もないからさ。記憶はあっても、実際はどんな感じなのか、ずっと気になってて……」

 ユカは照れくさそうに、右手で髪の毛先をいじり始めた。記憶はあっても、自身が未だかつてそれを体験したことはない、というのは、どういう感覚なんだろう。母体である私には感じることのできない、片割れ特有の悩みをユカが密かに抱えていたことを今更知った私は、一瞬どんな反応をすればいいのか言葉に詰まった。

「どうしたの? リン」

「あ、いや……」

「あ、今のは全然気にしなくて大丈夫だから! べつにリンが悪いわけでもないし、私も寿司を食べたことがないからって、それが死活問題だったってわけでもないし!」

「違う、そうじゃなくて……私、ユカのことをまだ知れていないんだなって、思って……」

 互いに無言の時間が流れた。母体と片割れの関係って、改めて考え直そうとすると結構わけが分からなくなる気がする。言ってしまえば分離直後は保有している記憶や経験が同じだけど、それからは別々の視点で物事を見て生きていくことになる。体が違えば、別々に行動することだってできるし、そこでどんなシチュエーションが待っているかは分からない。ずっと、私もユカも同じ『自分』だと思っていた。けど、もしかしたら……ユカはもう『自分』ではなく、『雨宮ユカ』であるのかもしれない。

「まあ、さ。リン」

 ユカが私の肩にそっと手を置いた。

「私もリンにこんなことしゃべったの初めてだし、分かんなくて当然だよ」

「う、うん。そう、だよね」

 俯いていた顔を、私はすっと上げた。

「なんか、私に相談しづらいことあったら、ノブさんとか片割れの人同士で相談してね?」

「ありがとう、リン。気遣ってくれて」

 でも、大丈夫だよ。そう呟いてユカは私の肩から手を離した。





「あ、やべー。回復アイテム持ってくんの忘れた」

「はあっ⁉」

 俺の片割れがとんでもないことを言いやがった。

「今更気づいたのかよ⁉」

 もう、モンスターがいるエリアに来てしまっている。ちょうど、モンスターが俺らを発見して第一声の雄叫びを上げているところだ。

「お前、どうすんだよ、こいつかなり強いぞ」

「まあ、全て攻撃を回避すればいいっしょ」

「お前、何か回避系のスキルつけてたっけ?」

「いや? 攻撃系に全振り」

「あほか」

 もう、クソになる結末しか見えない。俺は寄生プレイさせられるのは真っ平ごめんなので、メニュー画面を開き、『ミッションリタイア』の欄にカーソルを移動させ、決定ボタンを押した。

「ああっ? お前!」

「一人で頑張れ~。縛りプレイだ縛りプレイ」

「いや、ちょ待てや! ぎゃー助けてー!」

 早速モンスターの攻撃を被弾している。咆哮を受けて身動きが取れなくなっているところへの突進。この動きはこのモンスターの確定行動だ。だから咆哮を防ぐスキルは重要だと、シキには何度か言ったのに……自業自得だ。

「いいや、俺もリタイアする」

 数秒後、シキはゲーム機を放り投げた。『モンスターバスター』のカセットをも出さず、差しっぱなし。

「おい、ゲーム止めるまではないだろ。また準備を整えてから再チャレンジすればいいだけなのに」

「いやだー。もうゲームする気なくなったからゼッテーしねー。あーあ、トシのせいでつまんねー」

 相変わらずウザいな。そして子供かコイツは。

 テスト期間が終わったから、パアッとゲームでもして遊びまくろうって提案したのはコイツなのに。始めてからものの五分で終了したぞ。

「大体よー、モンバスって何で回復アイテムなきゃ苦戦するんだよー、マジクソだわ」

 シキの意味不明な叩きが始まった。全ての不快たる原因を他者になすりつける。これだから俺の片割れはダメなんだ。

「いや、回復アイテムないと苦戦するのは単にお前が下手なだけだし」

「はあっ⁉ 気持ちよく狩りたいじゃんかよ」

「もう、お前狩りゲーに向いてねーよ」

 いや、ゲーム自体コイツには向いてないかもしれないな。困難な状況を打破したり、自らあれこれ考えてプレイしたりするのがゲームの醍醐味なのに。思考を放棄してはゲームそのものが成り立たない。快感だけを得たいのなら(その快感も苦難あってこそのものだが)、ゲームをやる意味はない。

「はあー、苛ついたからエロ画像でも観るわ」

 勝手にしろ。

 俺は一人だけでモンバスの続きをやろう。

 そう思ったが、ゲームを再起動させた瞬間、腹の虫がぐうっと鳴った。

 時計を確認したら、十八時になろうとしていた。

「なあ、シキ」

「あんだよ」

 スマホを見つめながら顔がにやついている。キモっ。

「性欲満たす前に、食欲満たす気ない?」

 要は飯を食いにいかないかと、シキに相談してみた。

「うん、ああそうだな」

 シキはこちらに顔を向けた。

「俺も腹減ったし、いくかどっか」

 合意した途端、俺達は立ち上がった。何かこういうところだけ息はぴったり合う。母体と片割れの関係故なのか。うぜーのに、俺もコイツをわざわざ一緒に飯を食おうとしているあたり、駄目だよなとは思う。

「そういやさ」

 シキがふと俺に訊いてきた。

「夏休みの外出許可期間の件って、あれ結局どうなったっけ?」

 あ……。

 すっかり、俺自身忘れていたけど、色々とゴタゴタがあったせいで。

 どっか行こうって提案して以来、何も進んでねーな。

「やべーな。どうしよう」

「あ、流れてたわけではなかったのか」

「まあ、しゃーねーよな。テストとか、変なヤツ騒ぎとか色々あったしさ。まだ外出許可期間まで日日あるし、今から皆に相談すればいいだろ」

「せやな……あ、そういえば、あの変なヤツ騒ぎも、結局どうなったっけ?」

「え? ああ……なんかハルとノブが喧嘩して……知らんなその後は。あいつらも仲直りしてるみてーだし。どうなったかはさっぱり」

「……だな。なあ後さ、最近スパムメールたくさん来るんだけど、それは何でだ?」

「お前がエロサイト観まくってるからだよ」





 *****





 期末試験が一週間後に控えているその日の放課後、ノブはカウンセリング室に呼び出されていた。

「今日はね、これを君に渡したいの」

 白鳥文が机に置き、彼に差し出したのは三週間分の錠剤が入った袋。袋には薬の名前や用量などの記載がなされている。中の薬は精神安定剤である。『母体殺し衝動』を直接押さえるものではないが、原状これが精神が不安定になって衝動が出てしまうのを和らげる唯一の手段だった。しかし、いずれ時が経てば精神安定剤の有無関係なしに衝動が暴発する。その時は、もうどうしようもない。

 だから、そんな薬なんて与えずとっとと衝動に目覚めさせ、母体と引き離した方がいいという研究者もいる。

 かつて、荒木ヒナタはそう強く主張した研究者達の犠牲になった。

 だが、白鳥文はそのこと以来少しでも母体と片割れが一緒に居られるように、薬を処方してきた。響の叫びが、まだ彼女の耳にはこびりついていた。

「こ、これは……?」

「精神安定剤よ。朝晩と、食後に一錠ずつ飲んで」

「あの、白鳥さん。俺ってやっぱり、何かおかしいんですか?」

「おかしくはない。ただ、思春期だから心が不安定になりやすいの。この薬をしばらくの間飲んでいれば、大丈夫だから」

 ノブは机に置かれた紙袋を手に取った。中から輪ゴムで縛られた、三枚のシートを取り出し、しばしそれを見つめた。

自分はおかしくない。たまたま、思春期だから、変な時期があるだけ。そう、思春期だから。

 そうだ、自分は少しもおかしくないんだ!

 そう思うと、胸の奥がすうっと楽になっていくようだった。彼の目に映る全てが色を帯びていくような感覚がノブの心を支配した。

「そうか、俺はおかしくないんですよね!」

「そうよ、その通り。この薬さえ飲んでおけば、全ては上手くいくのよ!」





 声が少し漏れていた。心配になってハルはこっそりノブの後をつけ、カウンセリング室前で待機し、中の様子を探っていた。

 会話の詳しい内容までは聞き取れない。けれど、一つだけ分かる。

 二人とも、異常に興奮している。まるで嫌な現実を直視することを全力で回避しているようだった。

(僕に、何ができるんだろう……ノブのために、何が……)

 ハルはその場から離れた。下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出て、寮までの道を歩きながらもずっと考えていた。

 寮に着いた。ドアを開けて部屋に入り込む。玄関でしばらく佇んだ。

 結局、答えらしい答えは思いつかなかった。

 悔しくて悔しくて、ハルは静かに握りこぶしをつくり、そのまま壁を殴った。

 痛みが、じんわりと手の甲を伝っていった。






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