第19話 荒木響(後編)
あの日から、数週間が経った。
俺は『分離症患者支援センター みらい』を去ることになった。
一度、母体と片割れに分離してしまうと二度と分離症を起こすことはないらしい。まだそれの確定的な理由や根拠は発見できていないが、未だ分離症患者が二度目の分離を起こした症例がないため、片割れが衝動に目覚めた以上、施設で管理され診療を受ける必要性がなくなるのだ。
俺は片割れがおかしくなったのを機に強制的に追い出されたわけだ。本当は家になんか帰りたくなかった。家には
なんだか、先生たちに見られたくなかったんだ。
自分の泣き顔を。
飛行機に乗って新千歳空港で降りた。そこからバスに乗って、千歳市内の市街地に到着した。ここに、俺の実家はある。
玄関前のインターホンを鳴らし、母の声が聞こえてきた。帰ってきたことを告げると、すぐさま駆け足の音がし、程なくして扉が開かれた。
「おかえり、響」
ヒビキではなく響。母が放った言葉は、完全に俺一人に向けて放たれた名前だった。
「ただいま、母さん」
一年ぶりに見る母の顔は、我が子を哀れむ表情だった。
「ほら、響の好きなから揚げだよ今夜は。じゃんじゃん食べていいからね!」
食卓の中央に置かれた大皿に、大量のから揚げが盛られている。まだ揚げたてで、湯気がゆらゆらと上がっていた。
母は何とか俺の気分を明るくしようと努めてくれていた。本当、この人は俺を俺としていつも見てくれる。それが、一年間のブランクがあっても健在していることに喜びを感じると同時に、申し訳ない思いも沸き起こった。
それだけに、母とは真逆といってもいい、あの人のことが気になった。
「あ、あのさ母さん……」
「なに?」
「と、うさん、は、まだ家にいないの……?」
「ああ……お父さんね、今は、家に帰ってきてはいるわ」
背筋が震えた。箸を持つ手が覚束なくなる。
「え、そ、そう、なんだ……」
「あ、でも安心して。今はお父さん出張中だから。明日になったら帰ってくるかもしれないけど、今晩は大丈夫。一応、響が帰ってくることは伝えておいたんだけど、曖昧に返事をされただけで……また、家に帰ってこなくなるかもしれないわ。うん、きっとそうよ。大丈夫だから」
母は暗くなった俺を察して、この話を強制的に終了させようとした。から揚げを食べるよう勧め、俺も母の言葉を信じ、落ち着いて、久しぶりの母の味を楽しもうと、そう思って、箸でから揚げを一つ持ち上げた、その時。
インターホンが鳴った。
「あら、誰かしら」
母が立ち上がり、モニターを確認しにいった。俺はずっとそれを目で追っていた。
母の表情が固まっていた。
「? なんだよ、開けてくれよ」
聞き覚えのある声がモニター越しに伝わってくる。俺の全身が震えだした。母に状況の説明を求めたかった。
しかし、そうする暇も与えないかの如く、ヤツは自ら鍵を使ってドアを開けた。この家に
「ただいま」
目が合った。父は、不敵に笑った。
「あなた、出張は……?」
「え、ああ。予定より早く向こうで仕事がおわってね。一日早く戻れたというわけさ」
「あ、あら。そうなの……」
母は明らかに動揺した顔で俺を見てきた。しかし、そんな表情で見つめられても困る。一番信じがたい光景に混乱しているのは、俺なのだ。
「おかえり、響」
父は何の抑揚もなく、一定のトーンで語りかけた。
「相変わらず、変なヤツのまんまか。俺に話しかけたりすんなよ、この下衆が」
そうして父は母にカップラーメンを作ってくれるよう頼んだ。
「コイツと同じおかずを食えるかよ」
父は俺の正面のイスに座り、そう吐き捨てた。
母は何も言わなかった。黙ってカップラーメンのお湯を沸かし始めた。
俺はから揚げを口に運べなかった。父が前にいるだけで何時まで経っても体の震えが止まらなかった。箸すら持てずに、ただ食卓を見つめるしかなかった。
「なんだよ、びびってんのかよ」
父が眼鏡を掛けなおす。熱々だったはずのから揚げはすっかり冷めてしまった。
俺は、この日の晩飯を食べることが出来なかった。
ヒナタに会いたい。
そう思い始めたのは、実家に戻って二ヶ月ほど過ぎたあたりの頃だった。
父はあれ以来、俺とは一切顔を合わせようともしなかった。が、運悪くトイレに行きたくて夜中に目が覚めて、ばったり廊下で出くわしてしまうと悪態をつかれ「消えろ」だの「ウザイ」だの悪口を言われた。母は俺には明るく優しく接してくれるが、父の前では何もしてくれない。ああ、この人は俺を救ってなくれないんだ、そう思った。
そうして、俺は施設での日々を思い出すようになった。ヒナタが目覚める前までは、普通に幸せだった。友人もそれなりにいたし、分離症患者同士であるあるネタで盛り上がったり、皆で施設内のデパートに遊びに行ったり……何より、ヒナタといる時間が穏やかで、満ちたりていて、尊かった。
俺はヒナタがあの後どうなったのかを、詳しくは知らない。白鳥さんは、「ヒナタはとある施設に移されて、そこで暮らしている」なんて言っていたけど。
俺は、ヒナタに会いたい気持ちでいっぱいになった。
きっと、彼は衝動に目覚めたままなんだろう。俺を見たら再び殺意を向けてくるかもしれない。でも、それでもいい。ヒナタと会わないことには、俺は次のステージに進めない気がする。父も母も、この家は何一つ変わっちゃいなかった。だったら、俺が変わるしかないのだろう。自分を一旦リセットして、見つめ直したい。そして、父に威圧感を抱くことのない自分になりたい。そのためには、ヒナタに会わなければならない。あんな別れかたでは、心の納得が何時までも行われないのだ。
俺は平日の夕方、電話をかけた(まだ学校には行く気になれていなかった)。しばらくすると、懐かしい声が聞こえてきた。
「はい、二階堂です」
かけたのは、先生のケータイの番号だ。
「もしもし。先生、俺です」
「響……」
「先生、俺、ヒナタにどうしても会いたいんです」
そこから、俺は自室で一時間ほど先生と話し込んだ。
「二ヶ月振りくらいか……元気だったか」
「それなりに。先生、変わってないですね」
「そりゃあ、まだあれからそう経ってないしな」
「でも、荒木くん、少し背伸びた?」
「そうですかね? 白鳥さんも、お久しぶりです」
俺はみらいの南門前にて、二階堂先生と白鳥さんに再会していた。二人ともあまり変わっていなかった。まだ俺の記憶の中の二人だった。
「よし、ここで立ち話してるのもなんだから、もう行くか?」
二階堂先生の車が俺たちの横に停まっていた。先生が車のキーをズボンのポケットから取り出した。
「はい……お願いします」
「うん、わかった……」
俺たち三人は車に乗り込んだ。ある目的地に向かって車は走り出した。
車は山に沿った道路を走り、俺たちは山を登っていった。ちょうどみらい高校の屋上から綺麗にみえる、深い緑に覆われた大きな山だ。
「そろそろ、だな」
二階堂先生が呟いた。フロントガラスから、数メートル先の距離に黒く異質な雰囲気を漂わせる建物が見えてきた。
車が建造物に到着し、施設横の駐車場に停めた。三人で車を降りて、建物の入り口から受付の窓口に行った。
「今回は特別です。まあ、といってもこのようなことは過去にも何回かあったんですけどね。いるんですよ、君みたいに片割れに会いたいって人がね」
そう言って、この施設の職員は振り返り俺を見つめながらニイッと笑った。
「ちょっと、なんですかその言い方は」
二階堂先生が俺を守るようにして一歩前に出る。本当は言い方というよりも不気味な笑顔を向けるなと、そっちの方を指摘したかったんじゃないかと、勝手に推測した。
「いやあ、すみません。この癖はどうにも直らなくて。ワタクシ、人に何か話す時はついついニヤケちゃうのですよ、ウシシシ」
笑いかたがより一層気持ち悪かった。
「白鳥さん、ここの人は皆こんな感じなんですか?」
先生がこっそりと質問を投げ掛けた。
「はい……何だかすみません。まあ、彼らはこれでも片割れ研究のエキスパートたちなので……こんなのですが」
白鳥さんは心なしか自信をなくしていくようなトーンで、小声で応じた。
今、前を歩いている人が目覚めた片割れたちを研究している。ヒナタを、観察している。
「着きました。ここが面会室です」
職員が立ち止まり、部屋の鍵を取り出した。ガチャリと、解錠される音が廊下に響く。
「さあ、中にお入りください。面会時間は三分です。しばらくしたら片割れも同じ部屋に入ります。まあ、ガラス越しですけどね。それまで心の準備でもしておいてください。片割れはもはや猛獣の如しですから。ウシシシ」
そう言いながら俺たちを部屋に入るよう促した。俺、白鳥さん、先生の順に入り、最後に職員が入って扉を閉めた。
中は刑事ドラマでよく見るそれとほぼ同じだった。ガラスで部屋の真ん中が両断され、中央にポツポツと穴がたくさん空いている、通話口がある。
俺は丸いイスに腰掛けて、胸に手を当てた。心臓がさっきからバクバクと激しく鼓動している。気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をした。
そうして、ヒナタが向こうの扉から入ってきた。両手に手錠と、口に
「……」
俺は茫然としていた。付き添いの職員に半ば強引にイスに座らされ、その後もガッシリと肩を両手で押さえられている。そして、俺を激しく睨んでいる。
唾を飲み込んだ。彼の時は動いていないようだった。あの日、俺を襲ったあの晩からヒナタの時間は止まったままだったのだ。
「あ、あの」
「なんですか?」
俺は、後ろにいる職員に訊いた。
「ヒナタ……彼の、猿轡を取ってはくれませんか?」
「う~ん、べつに取ってもいいですが……取ったらあれですよ? あなたに対して罵詈雑言の嵐、下手したら噛みつこうとして迫ってくるかもしれませんよ?」
そ、それでも構いません。俺は彼と話がしたい。例え会話が成立しなくても、それでも。
そう答えると、「仕方ないですねえ」と、職員は向こう側の職員にハンドサインを送り、それを受け取った職員は一旦ヒナタの肩から手を話し、手早く彼の猿轡を外した。
「ひ、ヒナタ! 久しぶりだな。元気だっ――」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」
彼の絶叫が部屋中に響き渡った。ガラス越しにもその威力は凄まじく、その場にいる誰もが耳をふさいだ。
「死ねっ! なんで来た⁉ 消えろよっ! お前なんか生きてる意味ねえんだよ! この出来損ないがっ! 俺の方が上なんだよっ! わかるか! お前はないらないんだ! 不要なんだ! なんの価値もないんだ! 今さら何の用だ、とっとと去れ!」
「ヒナタ、お、俺はっ」
「今消えなきゃ俺が殺す!」
ヒナタは額を強くガラスにぶつけてきた。職員が慌てて彼の肩に掴みかかる。するともう一人の職員が部屋に入り二人で暴れるヒナタを押さえ込んだ。
「ウガアアアッ! アアアアアアッ!」
「もうダメです。猿轡を戻します」
俺はヒナタの口が再び不自由になるのを、ただ黙って見ていた。
覚悟はしているつもりだった。こうなることは半ば予想もできていた。なのに、何故なんだろう。
何故、こうも衝撃と絶望が同時に襲ってくるんだ……。
三分の面会時間はあっという間に過ぎて、俺もヒナタも、強制的に部屋から出されていった。
「大丈夫か、響……つっても、大丈夫なわけないよな」
『片割れ覚醒者管理施設』内のロビーにて、長イスに腰掛けていた俺の横に、先生は座った。同時に、ペットボトルのお茶を差し出してくれた。
「どうも……」
俺は静かに受け取った。
白鳥さんは、何か施設職員と話があるだとかで今この場にはいない。先生と俺だけが、この広い空間にポツリと存在していた。
「俺も、目覚めた後の片割れに会うのは、初めてだった」
先生は缶コーヒーを握りしめた。
「……先生」
「うん?」
「『みらい』ってさ……俺たち患者を、片割れが目覚めるまで軟禁して、目覚めたらポイ捨てする……そういう場所だったの?」
「そ、その言い方は……ち、違うぞ、決してそんなんじゃ」
「違わなくないだろっ!」
俺は貰ったペットボトルを強く床に投げ捨て、打ち着けた。
「響……」
「だってそうだろっ? でなきゃおかしいだろ! 片割れが目覚めないようにする研究しろよ! 俺たちが幸せになるようにしてくれよ! 確定バッドエンドの未来が待ってる俺たちを、ただ見てるだけなのかよお前らはっ! 何を、何をやってるんだよ!」
「俺たちだって、努力している!」
野太く響く声が俺の言葉を遮った。俺は涙を流していたし、先生の瞳も赤かった。
「俺たちだって、お前たちを悲しませないようにあらゆることに全力を尽くしている! 衝動に対する研究だって、それこそこの施設の職員が日夜研究しているんだ! 皆必死なんだよ! だけど、わからないことが多すぎるんだ。お前たち分離症患者は、わからないんだよ!」
わからない。そのワードが、俺の脳内でフラッシュバックを起こした。父にも、言われたんだ。お前はわからない。この言葉は、俺が最も絶望する言葉で、且つ怒りを覚えるものだった。
先生ははっとした顔になり、俺を見た。涙を流し固く歯を食い縛って、先生を睨む俺の顔が、先生の瞳に写っていた。
「す、すまん、響。俺は――」
「もう、いいです、先生」
俺は、この瞬間からあることを誓った。
「もう、大人なんて信じません」
いつしか『分離症患者支援センター みらい』に復讐する。このシステムを、大人たちが理解することを放棄して作り上げた、絶望までの楽園をぶっ壊す。
俺はその後も何度かみらいに足を運んだ。母は父に対して何もできないせめてのお詫びにと、小遣いを毎月かなりの額でくれた。おかげで飛行機に乗って通い、ある時は施設近くのビジネスホテルに泊まって、何か復讐の手がかりを探し、チャンスを窺っていた。
そんな時に、須藤ハルと出会ったんだ。
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