第18話 荒木響(前編)

 シャワーを浴びながら、よく鏡に映る自分の胸を見た。

 小学生の高学年あたりになってから、目視したくないゲンジツの体が、いや応なしに迫ってきた。

「……男だ、俺は」

 シャワーを鏡に向けて放つ。自分の鏡像が、水に流され溶けていく。そうしたら浴室から出て、できる限り体を見ないでタオルで体を拭く。その後髪を乾かす前に服を着てしまう。

「ふう……」

 こうして俺はようやく、洗面所の鏡に映る自分を見つめることができるのだ。




 性同一性障害。その言葉が俺にもたらしたモノは大きい。

 幼いころ、両親は俺のことを男勝りな女の子くらいにしか思っていなかったみたいだった。七五三に着る服を選ぶとき、母は可愛らしい子供用の振袖を俺に着せたがった。その度に俺がこっちを着たいと、男の子用の礼服を指さす。親は困った顔をして俺を見つめるばかりだった。

 小学校に入ると徐々にクラスのなかで浮いていった。特にそれが顕著なものとして現れたのは、高学年になってからだ。

 俺は男の子らしく短髪でいたし、ずっと男の子が好きなもので遊んできた。幼いころは変身ベルト、少し成長すると男児対象のホビー、トレーディングカードゲーム……そういった趣味を、男子の輪に入って一緒に遊んだ。だって自分は男なんだから。当たり前のことだった。

 けど、小学五年生の夏のある日。親に行先を教えられず電車に乗ってどこかへ連れていかれた。たどり着いたのは都会のビル群の間にすっぽりと収まるようにして建つ、巨大な病院だった。建物の白さが異様に恐ろしく感じられ、俺は親に「帰りたい」と伝えた。だが、「ここまで来てなに言うの」と返され強制的に腕を引っ張られた。こちらとしてはここに来た意味もわかっていないのだから、ここまで来ても何もないだろ、といった気持ちだったが。

 そうして、顎にじょりじょりしたら気持ちいいだろうなと思われるひげを生やしていた医師に、君は女の子なんだと、言われた。

 最初はもちろん……混乱した。けど、日々を重ねていく度に感じざるを得ない自分の体の変化についての疑問が解決されたようで、すっと腑に落ちる感覚があったのを覚えている。

 そこから自分の中に、『女』である意識と、『男』である自我が混在するようになった。

 俺への接し方に一番苦労していたのは父だった。父は生まれた自分の子供が男だったらこう育てようだとか、女だったらこうしようなどと、色々と計画を練りながら我が子の誕生を待ち望んでいた。自分の子供に自分が思い描く理想の全てを叶えてもらおうとしていた。

 だけど、俺が男か女かどっちつかず(俺自身は男であると思っているけど)だということに、ひどく混乱した。

 まあ、人のできた親だったんなら我が子が抱える全ての事柄を受け入れて育てていくんだろうけど、俺の親はそうじゃなかった。母はまだしも、父は俺と関わるのをできる限り避け続けた。そうして俺が中学生になったその年のある日。梅雨の時期で、その日も雨が降っていたと思うけど、そんな晩に俺の部屋に姿を現して一方的に語りだした。

「俺はもうお前のことがわからない。長年一緒に生活してきたけど、無理だった。だから、もう諦めた」

 勉強机に向かって、読書をしていたら突然後ろからそんな言葉を投げかけられた。

「と、父さん?」

 俺は固まるしかなかった。父の目にはまるで生気が感じられなかった。物事を淡々と処理していくロボットのように言葉を口から吐き続けるだけだった。

「お前と真剣に向き合うことを、あきらめた。でも、俺は悪くない、だってそうだろう? 俺はちゃんと考えていたんだ、ちゃんと……」

 父は俺を見ているようで見ていなかった。目の焦点が定まらず黒目が俺の部屋を嘗め回すようにあっちこっちへと泳いでいた。

「父さん! 何言ってるの⁉ どうしたんだよいったい……」

「お前がいけないんだよ」

 父の顔が目の前にあった。急に接近していたのだと、数秒あとになってから気付いた。

「お前が『男』か『女』だったら、俺はこうはならなかったんだ!」

 父が放ったその言葉は俺の頭を貫通して心臓までをも破壊した。多大な衝撃が体中を満たし、決壊するダムのように俺の中で何かがうごめきだした。

「――俺はっ、男だ‼」

 思わず口から出た反抗の言葉。俺は『男』であるとずっと思っているし、母も努力してそう接してくれている。いつまでもそんなことで悩み続けているのはお前だけだ、お前だけが前に進んでいないんだ! ……そう続けた。

 けど、それがいけなかったのだと、思う。俺の反抗が、父のトリガーとなってしまったのだ。

「……じゃあ、コレはなんだよ」

 俺の胸に手を伸ばしてきた。

「コレはっ、何なんだ!」

 強く握ってきた。



「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」



 母が叫びを聞いて階段を駆け上がり俺の部屋へと来た。あとはもう、よく覚えていない。






 しばらくの間不登校になった。父は家に帰ってこなくなり、ほとんど顔を合わせることがなかった。俺は自室のベッドにもぐりこんで一日中ふさぎ込んでいた。外に出たくなかった。自分という存在がぐにゃりとした不定形のまま、他人と関わる場にいたくなかったのだ。

 学校を休み始めてから三日あたり経ったころから、俺の中である思いが芽生え始めた。それは、『自分が胸を張って、当たり前のように男として生活できたらいいのに』、という思いだ。

 他人からどう思われようと関係ない。体は女かもしれないけど、少年漫画を読んで、他の男たちとくだらない会話をして、一緒にサッカーなんかをする。そして好きな女子ができたらその子に気にいられるよう、色んなことに気を遣う。そんな、一般的な思春期男子でありたいと強く願った。

『男』であることが確固なものとしてある、理想の自分。

 不登校になって一か月が過ぎた、よく晴れた日だった。

 窓から差し込む朝日によって自然と目が覚めた。ゆっくりと上体をおこし、意識がだんだんとはっきりとしていくのを感じながら辺りを見回す。

 勉強机の前に置いてあるイスに、が素っ裸で座っており、こちらを見つめていた。

「よう、『俺』! 気分はいいか?」

 もう一人の自分、ヒナタとの出会いだった。




 俺の名前は『荒木ヒビキ』になった。分離症を発症した場合、母体と片割れでハーフネームを決めないといけないけど、運の悪いことに俺のネイティブネームはうまいこと半分に割ることができるようなものではなかった。

「じゃあ、お前は響のまんまでいいじゃね? 俺のは良いヤツを一から考えてくれればいいよ」

 というわけで、俺は響をそのままカタカナにしたヒビキになった。

「じゃあさ、お前の名前は……ヒナタなんてどう?」

「お、いい感じの名前だな。由来は? 理由だよ理由」

「うーん、適当に『響』の語感と、お前自身の性格とを照らし合わせて考えた結果。どう、かな?」

「うん? 全然いいよ、ばっちぐー。サンキューなヒビキ」

「ああ。よろしくね、ヒナタ」

 ヒナタと一緒に登校を再開した。俺はあいつの明るさ、単純な性格に救われた。周りからは奇異の目で見られたりもしたけど、そんなことは気にならなかった。ヒナタは俺と一緒に帰ったり、飯を食べてくれたりした。そんな中でする会話は至って男子的で、最近あの子が気になるだの授業がつまんねー遊びてーだの。俺が求めていた、理想として掲げていたすべてのことを叶えてくれた。俺は俺との間でだけ男子であることを自然として生きていられた。

 そうして『分離症患者支援センター みらい』のパンフレットが家に届き、中学を卒業すると同時に俺たちは地元を離れ、A山県に行くことになった。




 ヒナタがおかしくなり始めたのは、センターに来て一年目の春。新学期が始まって間もないころだった。

「なあ、ヒビキ」

「なに?」

「……なんでもない」

 突然俺に話しかけて、だけど特に理由も言わず向こうから会話を断ち切る。そんなことが増えていった。時々俺を見つめてきて、その表情が険しくなっていることもあった。どうしたんだよ最近、と訊いてもみた。けど、返答はいつも決まって「べつに、なんともねーよ」と笑顔で言われるだけだった。

 俺は一度、担任に相談した。

「片割れがなんだか変?」

 担任は二階堂秀則という男性教師だった。

「はい、俺に対して声をかけたのに、なんでもないとか言われたり、なんだか距離を置かれているような、そんな気がして」

「ふうむ、そうか……」

 二階堂先生はぼさぼさ髪な頭を掻きながら、俺の目をまっすぐ見据えてから、こう言った。

「わかった。一度、カウンセラーに相談してみよう。ヒナタ、だったよな。カウンセラーの白鳥さんに臨時的なカウンセリングを行ってもらうよう、頼んでおくよ」

 べつにわざわざカウンセラーを頼らなくても、そこまで大ごとではないと思った。けど、既に始まっていたんだ。俺が気付いていなかっただけで、は着々と迫っていた。



 そして、はやってきた。夜中、どうにも寝苦しかった。何だかお腹のあたりが重たくて、岩石に押しつぶされる悪い夢を見始めて、途中で目が覚めた。

 まだ体が重い。なんでだろう、起き上がれない。そうこうしているうちに、黒い影のようなものが自分の上半身に圧し掛かっていることに気付いた。何かが俺の上に跨っていた。

「なんだ……?」

 疑問の念が口からこぼれたその瞬間、ぼそりと上からそれは降りかかってきた。

「お前なんか、いらない……」

 その声は自分の声、つまりは――

「ひ、ヒナタ?」

 片割れの声だった。

「お前は、いらない、俺だけが、いればいい」

 そう呟いたかと思うと、ヒナタがいきなり俺の首に手を伸ばし、そのまま力を込めてきた。

「ぐっ、ひ、ヒナタ、なにして……」

「消えろ、消えろ、この世から消えろ!」

 俺は死ぬかもしれないと直感したその直後に、火事場の馬鹿力が発動したのか思いっきり体をひねり、ヒナタを二段ベッドの上から突き放した。ヒナタは落下して、強く背中と頭を打ったようで、「くはっ」と掠れた叫びをあげた。

 俺はひどく混乱した。混乱しまくって、すぐにベッドのはしごから降りて部屋の明かりをつけた。ヒナタは床に蹲ったまま、しかしその目はしっかりと俺を睨んでいた。

「ど、どうした、何のつもりだよヒナタ!」

「消えろ、消えろ」

 俺の問いには答えず、ゆらりと起き上がった。そして次の瞬間には、ずっと口にしていた言葉が直接的なものに変化した。

「し、ね」

 この時、初めて腰が抜けた。体に力が入らなくなって、ただ異形の如く歪んだ表情でこちらに歩み寄ってくる片割れを前に、がたがたと震える肩をなんとかして抑えようとするばかりだった。

「ひ、ひな、た……ひな、た……」

「死いねええ‼」

 ヒナタが駆け出したその時だった。

 俺の背後にあった扉が開かれた。

「片割れ、確保!」

 数人の、盾と紺色の防護服を装備した謎の人間たちが姿を現し俺を通り越してヒナタを囲み、抑え込んだ。

「なんだ、離せ、離せー!」

 暴れ続けるヒナタに、一人の防護服人間が注射器のようなものを手にして、それをヒナタの左腕に突き刺した。瞬間、ヒナタの荒ぶる体はうそのように静まり返り、ぐったりと力が抜けていって目が閉じられた。

「片割れ、昏睡、確認」

 防護服人間は淡々と言葉を発していく。

「よし、連れていけ」

 そして、ヒナタは持ってこられた担架に乗せられ、どこかへ運ばれていった。

 俺は茫然としながら、その光景を眺めていた。

「大丈夫か、ヒビキ」

 気が付くと俺の前には二階堂先生と白鳥さんがいた。二人とも俺を心配そうに見つめていた。

「せ、せんせ、い……な、何が、起こったん、です、か……?」

 二階堂先生は俺の肩を抱き始めた。

「すまない、本当にすまない……」

 なんで、あんたが泣いているんだよ、先生。




 翌日、夕方になってから二階堂先生と白鳥さんが俺の部屋にやってきた。俺はいつしかの時と同じように、布団のなかで蹲っていた。先生たちが来たのでとりあえずベッドからは下りたが、毛布は手放せなくて体にかけたまま、先生たちの話を聴いた。

 ヒナタは『母体殺し衝動』が発動してしまったのだという。片割れは、いつしか母体の存在を疎ましく感じるようになり、やがてそれが強大な殺意へと変わっていく。そう、説明された。

 いや、わかんないよ、先生。もっとわかるように言ってよ。

 そう返したが、先生は押し黙り、白鳥さんの口から「これが事実なの」と、はっきりとした口調で告げられた。

 じゃあ、ここ最近のヒナタの変なそぶりとか、意味不明な言動とか、そういうの、全部、全部――

 俺を、殺したくなっていた、ってこと?

「すまない、ヒビキ。俺が、もっとしっかりしていれば、お前に、こんな思いをさせずに済んだんだ……」

 二階堂先生は大粒の涙を流しながら、頭を深々と下げた。土下座だった。その横で、白鳥さんも下唇を噛んで拳を強く握っていた。

「ヒナタ……」

 ふいに、片割れの名を呟いてみた。ずっと、自分の一番の理解者であり、固い絆で結ばれていたと、思っていた。彼も、そう思っていたはずだ。でも、いつからなんだろう。いつから、彼は俺を憎み始めたのだろう。

「ひな、た……ヒナタっ……!」

 やっと、涙が出た。そしたら、しばらく止まらなかった。とめどなくあふれる塩水が、頬を次々とつたっていった。

「お前、お前はっ、俺を、ど、どう思って、たんだ、よおぉ……!」

 ローテーブルに、両腕を叩きつけた。ヒナタとの思い出がどんどん頭の中で、一本の映画のフィルムのように思い起こされていく。シーンがコマ送りで再生されていって、そうして最後には、昨晩の光景がよみがえる。

「ちっくしょう、ちっくしょうー‼‼‼‼」

 有らん限りの声を出した。二階堂先生も白鳥さんも、俺の叫びを受け止めた。




 それから数週間後、俺はヒナタに会いにいった。













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