第17話 崩れ去る固定観念

「あ、あの……俺……」

「大丈夫、安心して……」

 肩にそっと手を置かれた。白鳥さんはふわりと俺の後ろに回り込み、やんわりと俺の肩をもみ始める。最初はむずがゆいような気もしたけれど、それがだんだんと気持ちよくなっていった。体に張り巡らされた緊張が解けていくようだった。

「あなたは何もおかしくない。ただ、ちょっとストレスのせいで、精神が不安定になっているだけだから」

 耳元でそっと囁かれていると思うくらい、白鳥さんの声は微かでありながらしっかりと俺の耳に届いていた。その言葉が体のなかの毒を吸い取ってくれる感じがした。

 ああ、もうすべてを吸い尽くしてください。このままじゃ、俺は、俺は――


 ハルのもとに、帰ることができない。



 ****



「ねえ、どこに行くの?」

「黙ってついてこい」

 僕は彼の後を追って、薄暗い建物と建物の間の狭い路地を歩いている。一体どこへ僕を連れて行こうとしているのか、皆目見当がつかない。公園に呼び出されたから、てっきりそこで話を聴かされると思っていたのに。

 そういえば、さっき彼と出会った直後に「移動する」って言われてついていっているんだけど、その時に彼は自分の名前を告げた。

「俺は響だ。これからはそう呼べ」

 響。そう聞いて、「ネイティブネームは?」って恐る恐る訊いてみたけれど、「ネイティブも何もねー。響だ」という風に言われてしまい、なんだかわけがわからなくなった。

 分離症患者じゃないのだろうか。だとしたら、なんでこの施設にいるんだろう。

 響はTシャツの上に、薄い上着を羽織っていた。動きやすそうなチノパンツをはいて、すたすたと歩を進める。道中、裏路地に転がっているごみ箱があってもそれをひょいと飛び越えたり優雅な足さばきでするりと避けたりしていて、裏路地を歩き慣れているようだった。僕が何かに足を躓く度に、少しこちらを見て「チッ」と軽く舌打ちをしてくる。

 いや、こちとらこんな道歩く機会なんてそうそうないし!

 もちろん、口に出すことなんて到底できなかったけれど。



「よし、着いた」

 そう言って、響は歩みを止めた。辺りを見回すと、周りを四つの建物の壁に囲まれた、路地裏の奥地といった場所だった。施設内にこんな空間があったなんて。下手したら犯罪の現場にでも使われてしまいそうな雰囲気だ。まあ、『みらい』で犯罪が起こることもそうそうないだろうけど。そんなことをぼうっと考えて上を見上げていたら腹に何かが当たった。

「ほれ。これに座れよ」

 響が差し出してきたのは、お酒の一升瓶を入れるプラスチック製の空き箱だった。なんでこんなものが。そう思っていると。

「俺がここに拾い集めておいたんだよ。酒を取り扱っている店は少ないけど、施設内にもないわけじゃない。職員はそりゃ基本成年してるしな。椅子としてちょうどいいんだ、これが」

 と、説明してくれた。

 そうして自分も空き箱を地面に置いてどっかりと腰を落ち着けた。僕も倣ってケースを椅子代わりにしたみたけれど、お尻のクッションをもってしてもプラスチックの硬い感触が伝わって来て、座り心地はあまりよくなかった。

「お前、今ケータイ持ってるよな?」

 響が自分のスマホを取り出しながらそう訊ねてきた。

「うん、持ってるけど」

 僕もスマホを取り出し相手に見せる。すると。

「貸せ」

 一瞬の間に奪われてしまった。

「ちょ、何を!」

 響は自分のと僕のスマホを持ってなにやら画面をいじっている。しかし数秒ほどで作業は終了したのか、一分もしないうちに返された。

「ほら、これで何かあったら連絡よこせ」

 画面を見ると、ROINEの『新しい友だち』の欄に『響』の名前と夕焼け空の写真のアイコンがあった。



「で、まあ話だけどさ……」

 響は重たい口を開き、真っすぐに僕を見つめる。

「聴く覚悟、できてる?」

「もちろん」

 即答した。響が持っている情報は少なくとも、ただならぬモノであろうことは、何となくだけど察している。けれど、それだからこそ価値がある。僕はそれと引き換えに片割れや親友との仲にひびを入れてきたのだ。怖気づいて後に引くなんて真似は死んでもできない、いや、絶対にしない。

「よし、そんじゃ……とりあえず」

 響は酷くため息を吐いて、呟くように訊いてきた。


「お前たちは24時間監視されてる。知ってたか?」


「いや……」


「そうか。されてるんだよ。施設内に設置された何千個もの隠しカメラで。こんな場所を選んだのも、ここにカメラが設置されていないからだ」


「へ、へえ……なんで、監視されてるの、僕らは?」

 口の水分が急激に失われていくのを感じる。腕には汗が浮かんでいる。


「『片割れ』が、お前のような『母体』を殺してしまおうとしてないか、それを観察するためだ」


 一瞬、目の前が真っ暗になった。



「……は?」

 やっと出た言葉が、それだった。

「わからねえ、って顔してるな。ま、無理もないけどさ」

「ど、どういうこと……ねえ、それって」

「言った通りの意味さ。片割れっていうのはな、早かれ遅かれ、母体を憎しみ殺そうとしてくるんだよ」

「な、なんで……⁉」

「あいつらは、お前たち母体の『理想』が具現化した。そうだよな?」

 心臓が激しく、うるさいくらいに胸をしめつけていくように鳴り続ける。視界がぐにゃりと歪んでいくようだ。響が人間ではなく、聖職者をたぶらかし地獄へいざなおうとする黒い影に見えてくる。

「そう、だけど……」

「『理想』が具現化したってことは、それが完成形なんだ。母体がすでに持っているものにプラスされて、良い部分が備わったんだから。言ってしまえば、存在するのは片割れだけでいいんだよ。『理想』が現実となった以上、下位互換である母体は用なしなんだ」

 僕は誰と会話しているのだろう。相手が真っ黒い人影にしか見えない。いや、人ですらないかもしれない。異形だ。異形の者が、僕に語り掛けてくる。

「で、でもだからって……それがどうして、母体を殺そうとしてくることに……」

 僕は精一杯の反抗を悪魔に試みる。だが、悪魔は容赦なく僕の抗いをぶち壊しにやってきた。

「『片割れ』の側が、そう考えるようになるんだ。意識の底から湧き上がってくる感じらしいぜ。だんだんとそれが本能に近いものになるらしいから、もうどうしようもないんだと」

 僕は途端に頭が重くなってきた感じがして、右手で額をおさえた。膝に肘をつき、しばらくの間がっくりと項垂れた。

「おい、大丈夫か」

 大丈夫なわけがないだろう、何を言っているんだこの悪魔は。自分からそんなことを言ってきたんじゃないか。それを聴いた相手が、平気でいられるわけがない!

「……まあ、確かにそうだな。すまん。けど、悪魔は酷くね?」

 え? 

 頭を上げた。あれ、もしかして思っていたことが口から洩れてしまっていたのだろうか。

「あ、ごめん」

「……へっ、まあいいよべつに。今のお前からしたら俺は『悪魔』だろうよ。妥当な表現だ」

 そうだ、相手は悪魔じゃない。人間で、響という名前の持ち主だったじゃないか。

 僕の頭は少しづつ幻惑から解き放たれていくように、落ち着いていった。

「……ねえ、なんで、そのことを僕に伝えようとしたの?」

 落ち着いた頭で、冷静に思考を巡らせるようになれた。響が僕らと同じ分離症患者で、きっと彼は母体なのだろう。

 響は四角い空を見上げながら、答えた。

「お前たちが、かつての自分とそっくりだったから。街中歩いてる時も、公園で喋っていた時も……ああ、こいつら、幸せそうだなあ、って。幸せそうなのはきっと、この世界の真実を知っていないからなんだろうなって、思ったからさ」

「それで、何。知らせて僕を絶望に陥れたかっただけ? とんだ悪趣味だね」

「……ちげーよ。お前に知らせたのは、それだけじゃねえ」

『それだけ』という言葉に、やっぱり絶望させたかった部分もあるんだと、悪趣味なことに変わりはないなと、そう思った。

「いいか。大人たちはな、そうして殺意に目覚めた片割れを一つの施設に隔離している。お前たちは真実を知るべきなんだ。知って、生きていかなくちゃいけない。お前らは、何も知らされないままを迎えちゃだめなんだよ」

 響の肩はふいに震えだした。泣いているのだ、彼は。膝の上に握りこぶしをつくって、苦い思い出を噛み潰すように歯を食いしばっている。

「……つまり、本当のことを知っておいてほしかった、そういうこと?」

「ああ……それで、協力してほしい」

 響は意を決したように、腕で頬の涙を拭ってから立ち上がった。

「片割れを、絶対的にこの施設から排除するために」



 ****



 俺はハルを待っていた。寮の部屋のなかで。ハルが好きな、肉じゃがをつくって。

 遅いなあ。どこで何をしているんだろう? 俺が少し暴走しちゃって、カウンセリング室に連れていかれたあと、どうやらユカたちと一緒に帰ったみたいだから、一度寮には戻っているはずなんだけど……鞄と脱いだ制服もあったし。

 まあ、いいや。気長に待っていよう。でも、やっぱり……早く帰って来てほしいかな。

 ハル、帰ってきて。お前がそばにいないと、俺は、どうにかなりそうなんだ。


 お前が目の前にいたって平気だってことを、確認したいんだ……



 ****



「排除って……」

 僕は再び固まらなければならなくなった。響の目は静かに燃えていた。

「なあ、頼む俺一人じゃダメなんだ。きっと、俺とお前の二人だけでもだめだけど。お前の友達の母体にも伝えてほしい。できるならそれこそ施設内の母体全員で反逆を――」

「ちょっと待って!」

 早口で一気にまくしたてる響に向かって僕はけん制するように言葉を強い口調で言い放つ。響の顔にはなんでかわからないといった、疑問の表情が浮かんでいた。

「どうしたんだよ」

「どうしたも何もないよ。突然何を言い出したかと思えば、そんな現実的じゃないこと……それに」

「? それに?」

「いくらノブが……その、片割れがいずれそうなるからって、排除はやりすぎじゃ……」

「甘いんだよ」

 ドスの効いた、切り裂くような声が喉を掠めた。彼は続けた。

「片割れを信用しちゃいけないんだよ、絶対!」

 叫んだ後、響はしばらくの間黙ってしまった。頭をわしゃわしゃ掻いてずっと下を見ている。

 彼に、どれほどの悲惨な過去があったというのだろう。響の片割れは、おそらく母体を憎しみ出してしまった。だからこそ彼はこんなにも時折苦しみだすのだ。はたから見れば響は情緒不安定そのものだ。興奮して誘いを持ちかけたかと思えば、涙を流して表情を歪めたりする。このような人物が言うことに、果たしてどれだけ信じてついていけばいいのか。しかし、これぐらい不安定だからこそ、彼の体験したことは確かな事実なのだろうとも思える。

 僕の思考も、ぐちゃぐちゃになっていた。

「すまねえ、俺から呼び出しておいてなんだけど、今日はもう……」

「うん、べつに大丈夫だよ。僕から見ても、なんだか辛そうだし」

「ああ、本当にごめん……」

 どうせならとんでもない事実を僕に報告してくれたことの方を詫びてほしかったけれど。

「大丈夫、手貸そうか?」

 響は空き箱から腰を上げるも、すぐさまふらりとよろめいて見ていて不安になる足取りだった。

「いや、大丈夫だ……っと!」

「おいっ」

 地面に転がっていた捨てられていた空き缶に躓いて前方へと倒れそうになる。僕は慌てて彼を支えた。

 彼の上半身が僕の胸にもたれかかる形となった。その時に感じた、妙な違和感。

 カウンセリング室に閉じ込められたときに、顎に伝わってきた指の感触が思い出された。どこかふんわりしているような、柔らかい手つきが――

「なんだよ、その目は」

「いや、その……」

 響は僕の体から離れると、何とでもなかったようにシャンとして、しっかりと地に足をつけて立っていた。もう、僕が支えたり手を貸したりしなくても大丈夫だろう。

「俺は男だから!」

 最後にそれだけを強く吐き捨てて、響は僕の横を抜き去っていった。その際に、彼の胸を改めて確認しようと目が追ってしまう。

 そうして、何となく察することができた。


 あれ、そういや僕帰り道覚えてないけど……


 あやふやな記憶を掘り起こし何とか入り組んだ迷路のような路地裏から抜け出せた。綺麗な満月が夜空に浮かんでいる。満月の夜は不思議なことが起こりやすいってどっかで聞いたことがあるけれど、それはいつのことだったか。

 そんなどうでもいいことを考えながら寮に帰る道を歩いていった。

 響から伝えられた、考えるべき重大な事実については少しも思考が働かなかった。脳が自然と遠ざけていたのだと、あとになってわかった。

 でも、同じくらい思考を放棄している場合ではないのだと心は理解していた。

 街灯に取り付けられた、カメラを見た。これは防犯カメラだと今まで思っていて、もちろんその役割もあるんだろうけど、きっと、これでも僕らを監視しているのだろうな。そして、一目見ただけじゃわからないところに、隠しカメラも設置されているんだろう。

 僕は、カメラのレンズを見つめてみた。



 ****



「なんだー、この子、カメラ見つめて……」

 静かでぼんやり暗い部屋に、眼鏡をかけた男が一つのモニターを注視し始める。彼は今、『みらい』の監視カメラの映像チェックの仕事を行っている最中だ。

 そんな彼の後ろを、一人の女性が通りかかる。

「あ、白鳥さん。お疲れ様です!」

 彼はカウンセラーとしてこの施設で働いている白鳥文に気があった。後ろを通っただけでも彼のセンサーはビビッと反応し彼女だとわかって仕事の手を止めて振り向いたのである。とんだ変態だ。

「あ、どうもお疲れ様です」

 彼女の反応は素っ気なく冷たい。しかし男はめげずに声をかけ続ける。

「どうしたんですか? いつになく深刻そうな顔してますけど」

「あなたには関係のないことです」

 相手の声が遠ざかる。白鳥文はさっさとこの部屋を通過しようとしている。そうなる前に、男は彼女の足を止めるためある一言を言い放った。


「『母体殺し衝動』に目覚めた子が、出ましたか?」


 白鳥文は足を止め、ゆっくりと振り向いた。男は一瞬晴れた表情を浮かべかけたが、彼女の険しい目つきを見てすぐに顔が固まった。

「……いちいち詮索しこようとしないでください。迷惑ですから」

 白鳥文は踵を返し部屋を出ていった。ついでに開けっ放しになっていた扉を強く閉めていった。

「ああ、だめだったなあ。今日も。でも、怒ってる顔も美しかったなあ……」

 そんなセリフを呟きながら、男はモニターに目を戻す。

 カメラを見つめていた少年は、もうそこにはいなかった。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る