番外編 梅雨空の下で

 最近、蒸し暑くなってきた。

 それはそのはず。何せ梅雨の時期に入ったのだから。雨が毎日降るわけではないけれど、晴れの日は少なく、基本どんよりとした雲空が広がるここ数日。私はこの季節が嫌いではないのだけど、片割れはそうではないらしく……

「あーっ! 晴れろー‼」

 日曜日の昼下がり。窓から望める雨のカーテンに覆われた景色に、そう叫んでいた。



「うるさいなあ……」

 私は気が散り、読んでいたライトノベルを閉じた。

「ユカ、叫んだって空は晴れないよ」

「じゃあどうしろっていうのよ~。せっかくの日曜日なのにさー。外で遊びたいじゃーん」

 片割れであるユカは、ごろごろと床に転がっている。上は部屋シャツ、下はパジャマのまま。だらしなくめくれたシャツからへそが見えている。

「じゃあ外行く? デパートとか、どこかでお茶でもしながら……」

「うーん」

 ユカは私の提案に、しばらくの間考え込んでいるようだった。ゆっくりと上体起こしをして起き上がり、彼女は言った。

「それ、いいかも」

 ユカの頬は弛んでいた。



 女子二人、といってもどちらも自分なんだけど、女子らしく少しはお洒落をして、身なりを気にして、前髪を調えて、ユカは口にリップだけ塗って、私はさすがにそこまでする勇気はなくて、そんなこんなで、部屋を出た。

 外は小雨だった雨がほんのちょっぴり勢いを増していた。水色のビニール傘をバサッと開き、階段を下りる。ユカも後を追うように階段を下り始めた。

 ユカはベージュの布傘をさして、二人で川の横を沿って歩く。

「うーん、やっぱ湿気てるね」

「まあ、梅雨ですし」

「リンって好きだよね、雨の日」

「うん、気分が落ち着くから」

「そこはわかんないけども。晴れてる方が良いとは思うけど、まあ……リンとこうして傘さして歩けるのはなんか良いかもね」

 ユカは幸せそうな表情をしていた。

「どうしたのニヤニヤして……」

「え、だってさ」

 彼女は私より一歩前に出るように小さくジャンプした。道路のうっすらとした窪みに出来ていた小さな水溜まりが、ピシャッと跳ねた。

「こうして二人で出掛けるの久しぶりじゃん」

 言われてみればそうかと思った。特にここ最近はハルさんたちと行動を共にすることも多くなって、二人でこうして静かにぶらりと出歩くのは、確かに懐かしさを覚えた。

「そうだね……久しぶりだね」

 私も自然と笑っていた。



「で、どこ行こっか?」

 私たちが学校に向かうためにいつも渡っている橋の前まで来て、ユカが訊いた。

「ウオンでいいんじゃない? あそこならサタバあるし、本屋あるし」

「おー、そうだね。そうしよっか。何か買いたい本でもあるの?」

「うーん、特にはないけど……まあ、ぶらりと」

「ふーん。私はどうしよっかなー。あ、そういや本屋の隣にヴィレヴァンあったよね? 私そこ行きたいや」

「ふーん、そ」

「あら、素っ気ない返事。本屋の後一緒に行かない?」

「私、ああいうごちゃごちゃした雰囲気苦手だし……本屋でゆっくりしてます」

「そっかー。 ……あれ、でもあんたこの施設来る前アニメのイベントとか行ってたじゃん。あれも人多いしごちゃごちゃしてるでしょ」

「それは別」

「お、おお……よく分かんないなー」

 分からなくていい。好きなものは別腹な感覚は、きっとユカには理解できない。

 傘に雨が弾かれる音が心地よく響く。ボツボツボツ。何だかトトロのワンシーンを思い出す。

 透明ながら青みがかっているこのビニール傘。雨粒が張り付いて、天の川ような模様を作っていた。私は「おっ」と思ったけれど、次の瞬間に更に降りかかってきた雨に寄ってその模様は形が崩され、なくなってしまった。

(あっけないな……)

 私は小さく、ため息をついた。



 私は質素なお茶が好きだけど、だからといってそれしか飲まないわけではない。たまには甘いカフェラテだって飲みたくなる。

(甘いな……でも、なんかこういう雨の日は、こういう味が良い)

 私は一人、心の中で頷いた。

「なんかさー、思い出すよね」

 ストローでアイスコーヒーをくるくる混ぜながら、ユカが何の気なしにふと呟いた。

「え?」

「私がリンと分離したのも、朝雨降ってなかったっけ?」

「え、ああ……」

 そんな気がする。

「今頃どうしてんだろうねー、私らの親」

「……さあ? 元気にしてるんじゃない?」

 実際、親が今どうしているかなんて、私は知らなかった。みらいに来て以来、四月あたりに一回メールがきたくらいで、その後はなんの連絡を寄越しもしない。

 私が苛められていた時、あんなにも私のために動いてくれていたのに……後影もないかの如く、私の中では遠い存在になってしまった。

 過去の、あの日々は何だったんだろう。

「ま、だね。のこと考えてもしょうがないっか」

「……そうだよ。どう、でもいいよ」

 コースターの上に、ガラスコップから垂れた結露が浮かんでいた。



 三階の本屋に着いた。私は一先ず漫画の棚に直行しようとし、突き進む私の後ろで「雑誌コーナーにいるからねー」とユカの声がした。

 一番先に見るのは少年漫画の棚。私は少女漫画も読まないことはないけれど、どちらかといえば少年漫画の方が好きだ。恋愛よりもバトルと友情が面白く感じられる。

 次に向かうは小説の棚。純文学はそんなに読まないけれど、一人だけ、太宰治の作品は猛烈に好きだったりする。棚を見ると、まだ私が読んだことのない作品があった。それを手に取る。

『もの思う葦』か……。

 パラパラとページをめくると、どうやら小説というよりかはエッセイのようなものだった。

(ふーん……ま、こんな日に読むのはちょうどいいかも)

 棚に戻さず、手に持ったままその場を離れた。

 小説の棚を離れて、私が前に立つその棚はライトノベルのコーナーであった。いわゆるラノベで私が好きな系統の作品は青春ものだ。漫画では派手なバトル作品を好むけど、小説だったら戦いよりも文章で綴られるキャラクターたちの内面を知りたがってしまうのだ。

「なんか、良さそうなヤツないかな……」

 自然と言葉が呟かれていた。私自身予期せぬことで。本棚にだけ意識が集中していて、蟹のように横に移動していたら、誰かと肩がぶつかった。

「あ、すみません」

 私は慌てて隣にいた人に謝る。相手も「すみません」なんて言って互いに詫びを交わす。そして両者はっとした。

「あれ、ハルさん?」

「リンさん」

 隣にいたのは、ハルさんだったのだ。



「今日はどうしてここに?」

「買いたい本があって……リンさんは?」

「私は……ユカと一緒に、どっかに行こうってなって。ユカ、雑誌コーナーにいるんだけど」

「そうなんだ……」

 お互い、相手を呼ぶ時「さん」が抜けない。ユカに「あんたたち何時までかしこまってるのよ」なんて言われたことあるけど、なんかもう、抜けに抜けないのだ。今、「さん」抜きで話しかけてみる? ムリムリムリ。

「……買いたい本って、あ、それ?」

 見ると、ハルさんの手には既に本が入っているであろう袋があった。

「え、ああ、うん」

「何買ったの?」

 何か、やたらサイズは大きいように見える。

「えっと……特撮のムック本」

 ハルさんが袋から取り出して見せてくれたその本は、でっかい文字で『ガルルセイバー 公式キャラクターブック』と書いてあった。

「おお……こんな本売ってあんだ」

 漫画やアニメのキャラクターブックは何度も見たことあるけれど、特撮にも本が売ってあるのは初めて知った。演じている役者さんたちのイケメン・美女っぷりが、綺麗に写真に撮られている。前半はほぼフォトブックといった感じで、後半から作品の解説や役者さん・監督を始めとするスタッフに対するインタビュー記事が載っていた。

「へぇ~、あ、ありがとう」

 私は一通り目を通し、ハルさんに本を返した。

「あ、どうも……」

「本当に、特撮好きなんだね」

「まあ……僕の、ずっとあこがれ、だから」

 ハルさんは優しく笑った。

「それ、買うの?」

 ハルさんが私の右手に握られている本を見た。私はタイトルも言わずにそっと彼に差し出した。

「太宰治、か。リンさん、好きなの? 太宰」

「うん、まあまあ……」

 本当の気持ちは、何故だか言えなかった。こうして他人に溝を作ってしまうのが私の欠点であるなとつくづく思う。



 その後ハルさんとはラノベの棚の前で少し会話したあと、別れた。結局ラノベの棚では特に買いたい本も見つからず、「まあ、今は読んでるのもあるしな」と思い、『もの思う葦』だけを手にレジに向かった。

 雑誌コーナーに行ってユカを探したが見つからなかった。鞄の内側のポケットに入れていたスマホが震え、画面を確認するとROINEに『ヴィレヴァンにいるぞー』とメッセージが着信していた。

 


 二人でウオンを出た。知らぬ間に雨は止んでいて、曇り空に晴間が覗いていた。

「午後になってから晴れても遅いっつーの!」

 ユカはお天道様に向かって不満をぶちまけたが、それがちゃんと天に届くかどうかは分からない。

「さ、帰ろ」

 二人で街道を歩く。施設内の、分離症患者のために造られたこの街を、眺めながら。

「あ、」

 ユカが突然、声をあげた。

「どうしたの?」

「うっすい虹」

 空を見上げると、確かにそこには――ほんと笑うくらい、うっすい虹が架かっていた。

「梅雨も悪くないでしょ」

 私はユカに言ってみた。

「うーん、もう少し濃い虹だったら、見事だーってなったけどねー」



 ユカが水溜まりを踏んだ。空の虹は波紋にかき消された。














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