第3話 雨宮優香里
私の名前はリンだ。
でも、それは私の本当の名前ではない。私には、『
ただし、優香里という名前自体がこの世から消滅したわけではない。別に改名したわけでもないし『雨宮優香里』という一人の人間として戸籍も存在している。
でも、今の私は『雨宮優香里』である自覚がそれほどない。親や親戚、自分からも「リン」と呼ばれ過ぎて、私は『雨宮リン』なのだと心が受け入れてしまっている。
すべては、中学二年生という期間も折り返し地点を通過したあたりの二学期の真ん中。十月二十六日。私が分離症を発症したあの日から始まった。
私は中学二年生に上がる直前に転校した。転校の理由は至ってシンプルだ。
いじめに遭っていたから。
毎日のように教科書を隠されて、机の中にごみを入れられて、トイレに行こうとすると後をつけられて、そこでモップで掃除された。ほんと、文字の通り掃除されたの。水にどっぷり浸かったモップで、床の汚れを拭き取るようにしてゴシゴシとこすられた。
なぜ私がいじめを受けるようになってしまったのか。その理由も単純だった。
クラスで浮いていたから。それも、とてつもなく。
誰とも交流しようとせず、一人で本を読んでいるかノートにイラストを描いていた私は、中学一年というみんなの間で『何か』が変わっていく時期のなかで、どうしようもなく浮いていた。
今でも不思議なんだけど、なんで小学生までは休み時間中に絵を描いていても周りから何も言われないのに、中学生になった途端に好奇の目線を寄せられる原因になるのだろう。
中学生になってまだ間もないある日のこと。十分休憩の時間に私は小学生の時と同じノリで絵を描いていた。でもイラストのレベルは確実に上がっていたし、好きな漫画のキャラを描きながら、私は私なりに「成長したなあ」なんて思いながら絵を描いていたのだ。
しかし、どうやら「イラストが上手くなる」ということは、皆が思い描く「子供を卒業した中学生」の内容に含まれていなかったようだ。
突然、ルーズリーフを奪い取られた。目を仕上げている途中だったので、取り上げられた瞬間にペン先が走ってキャラクターの顔に思いっきり線が入った。
「うっわ、変なの描いてる」
紙を奪い取ったのは、クラスで一番目立っている女子生徒だった。後になって知った言葉でクラスカーストなんて言葉があるけど、それに当てはめるとしたらたぶん最上位に位置する、いわゆる『一軍』の生徒だったのだろう。その彼女が言った。
「ねえ、あんたキモイよ。自覚してる?」
中学生になって、みんな難しい言葉をどんどん知るようになって使いたくなる。「自覚」という言葉も、これで初めて同世代が言っているのを聞いたかもしれない。
「え、いや、その」
「キモイよ。すっげーキモイ。キモ、キモ、キモ!」
キモイという言葉をとにかく彼女は連発した。そう言っているあなたが変だよ。何だかおかしいよ。ねえ、みんなもそう思うでしょ。
周りに目をやると、どうやら私が言う「みんな」はそこにいなかったようだ。
「みんな」は彼女と同じ目つきになって、じりじりと私に近寄って、最後には囲まれた。私の席を中心として、ひとつ大きなサークルが出来上がっていた。
「ねえ、みんな。こいつキモイよね」
「うん、そう思う」
誰かが言った。
「私も! 私も!」
「俺も前から思ってたんだよねえ」
「イラストとか。オタクかよ」
「なあ、こいつの呼び名、今度から『オタ子』ってのはどう?」
「えー、それはちょっと。なんかダサいー」
「『キモイ』でいいじゃん。ここはそのまんまで」
「あ、それいいかも。いいね、シンプルイズベストってやつ?」
男女関係なく、すべてがひとつの生き物みたいに見えた。紫と黒と赤と灰色が混じったような、ぐにょぐにょした生物が私を囲んで喜々と話し合っていた。
「これでわかったでしょ」
私にぐいと顔を近づけて、彼女はにっこり笑顔を作って呟いた。
「あなたは、おかしいの。変な存在なの。今日から、そこんとこよーく自覚して生きていってね!」
そう言いながら、彼女は手に持っていたルーズリーフを破った。少年漫画の主人公が、半分に裂かれていった。
そこからはもう、よくある表現を使えば「地獄」だった。
いじめは日に日にエスカレートし、私は苦痛に耐えられなくなってついには登校拒否にまで至った。
もちろん、学校でいじめにあっていることも親にバレた。個人的には最後まで隠し通すつもりでいたんだけど、やっぱり一人娘が突然学校に行きたくないなんて言い出したら、理由を知りたがらない親なんていないだろう。「いじめにあっているのか」ってお父さんに言われて、ぽろっと口からこぼれてしまった。「そう、だよ」って言葉が。
そこからはもう大変。親が学校に殴り込みに行くまでの騒ぎに発展してしまった。特にお父さんが怒りを露わにしていて、「学校はいじめを無視していたのかっ!」と怒鳴りながら私の担任を平手打ちしたらしい。かっけー、私の父さん。
でも、それで私は完全にクラスに復帰することは困難になった。父さんの平手打ちの件で色々と問題になって注目されて、私たち一家は地域に居づらくなった。
「引越そう。もう、こんな場所に居続ける理由はない」
そう提案したのも、父だった。
私は過去を完全に捨て去ろうと決意した。それは、単にいじめられていたことを引きずって落ち込むなんてことをしない、だけではない。
『自分』を、変えようと思った。
彼女が言った通り、私は変だった。変である根拠は未だに理解しかねるけど、「みんなと違う」っていうことには、私も痛感せざるを得なかった。
だから、私はできる限り「みんな」に近づこうと思った。
一人で絵を描くのをやめた。漫画や小説を読まなくなった。代わりにファッション雑誌とか、女性アイドルグループやジャニーズを特集してる本なんかを、ひたすらに読んだ。
今流行っているものは何か。「みんな」がしていることは何なのか。そういったことに非常に敏感になって、私のなかでのベクトルが「内」から「外」に向かうように変化した。
笑顔の練習もした。いつでも笑って返事ができるように。雑誌で読んで知った『キャラ』というものも習得しようと試みた。「盛り上げキャラ」とか、「リーダー的キャラ」とか、「天然キャラ」とか。キャラクターという言葉自体になじみはあったけど、それは私が知っていた漫画などのキャラとは全く別のものだった。だって、雑誌には「キャラのやめ方・リセットの方法!」という記事もあったから。キャラって、やめたり新しく作ったりするものなんだ、という衝撃が生まれた。
結局、『キャラ』はわけがわからなくなって諦めた。
とりあえず、「明るい性格」ならオーケーだろう。そう思って、転校先の学校に登校した。新しいクラス。見知らぬ生徒たちの前で転校生だと教師に説明されて、はきはきとした声で自己紹介をした。まずはここからだ。ここから、私は次のステップを踏むんだ。
私はもう変じゃない。変じゃなければ、いじめられない。そう信じて、新たな環境に臨んだ。
それから数か月が経ち、私は……クラスに馴染んでいた。それどころかカースト的にもかなり上位に存在するクラスメートになっていた。
体育祭や文化祭といったイベントがあれば、率先して実行委員会のメンバーに立候補したし、その後の打ち上げにも積極的に参加して、むしろ打ち上げをする場所を選んで確保するなど先頭に立って行動した。
もちろん、普段の日常においても友達との交流を欠かさずに行っていた。昨日の晩に観た歌番組の話や、今女子高生に人気のイケメン俳優の話題、流行中のお笑い芸人のネタなど、会話の種は尽きなかった。
そうして「明るい自分」であることに安心し、それと同時に「重い何か」が心に溜まっていった。
何故だろう。今、自分は思い描いていた通りの学生生活を歩めているはずなのに、時々ひどく疲れる。思いっきりため息をつきたくなるような、背中に降ろせない重りが張り付いているような疲れだった。
そうしてある日気がついた。
ああ、無理だったんだ、やっぱり。『明るい自分』を演じることにストレスが溜まっていって、私の心は崩壊しかけていた。
ダメだ。どうしよう。もう、演じるのがつらい。無理して好きでもないアイドルの情報を追っかけて、友達とウインドウショッピングに出かけて、カラオケで盛り上げ役を担当して……嫌だ。やりたくない。私は、本来はそんな人間じゃなかったのだ。自分のなかで楽しみを見つけて、それに浸っているのが私だった。だけど、
そんなことを思い悩んだ翌日の朝。ベッドから起き上がる気がしなかった。両親は共働きだったので、二人とも家をとっくに出てしまっている。どうしよう、休んでしまおうか。ここで布団のなかに潜り込み続けていても、誰にも文句は言われない。
でも、この瞬間は問題なくても、この後が色々と面倒なことになるだろう。まず、友達から心配のメールがくる。学校から電話がかかってくる。親がそれを知って私にわけを訊いてくる。それらに対応する自分を想像しただけでも吐き気を催した。どうする。時間は刻々と過ぎていく。どうする。時計の針は遅刻ぎりぎりの時刻にまで差し掛かっている。どうする……!?
とんとん。ふと、誰かが私の肩を叩いた。
「大丈夫だよ。私が学校に行くから」
だから、あなたは安心して寝ていて。そう、優しい声をかけてくれた。
私はその声に聞き覚えがあった。誰だっけ。すごく身近な人にこんな声をしている人がいた気がするんだけど、友達でもないし親戚や親でもない。
誰の声?
私はそっと、ベッドから体を起こした。
ベッドの隣で佇んでいたのは、『私』だった。
一糸まとわない姿で、私と全く同じ顔と体を有する人間が、そこに立っていた。
「だから、制服を貸して。いくらなんでも、この格好のままでは外に出られないからさ」
そう、『私』は言った。
「ゆかりん、『分離症』になっちゃったんだって」
前方の席で固まっている女子の集団から、そんな会話が聞こえてきた。
私は席替えをされた。前までは真ん中の列の二番目の席に座っていたのに、今は一番窓際の列の一番後ろ。そこに、『私』と『私』が並んで座る特別席が用意された。
「『分離症』ってことはさ、あれでしょ」
「うん。要はキャラ作ってたってことだよね」
「なーんかがっかりだよねえ。ゆかりん良い奴だったのに」
こそこそと小声が教室内にこだまする。そのこそこそ声がねっとりとしたミミズのようにして自分の耳に入り込んでくるような気がして、背筋が震えた。
「落ち着いて、リン」
ユカが私の背中にそっと手を当てた。優しくさすった後、彼女は続けた。
「気にするな。あんな会話。私は、あなたのそばにいつもいるから。だから、元気だせ」
ユカは周りに気配りを欠かさない子だった。いつも場の空気を読んで的確な行動をして、落ち込んでいる友達がいたら励ます。それは、一生懸命演じていた頃の私自身だった。
雨宮由香里はもういない。雨宮ユカと雨宮リン。友達でも姉妹でもない、奇妙な関係で結ばれた、二人の人間がこの世に生まれた。
私の味方は、ユカだけだった。母は二人になった私を拒み、父は困惑した。友達もみんな急にいなくなった。誰もが、「ユカ」「リン」と呼び分けることに違和感を感じているようだった。
いつしか、二人で夜中の街を散歩したことがあった。「ちょっと二人でスーパーに買い物行ってくるねー」そう親に告げても、二人とも無反応だった。
「なんかさ、夜の街っていいよね。どこか綺麗で、素敵だと思わない?」
自宅の前の坂道を下っていきながら、ユカが訪ねてきた。
「うーん、そうかな。分からないけど、でも私も好きだよ。夜の街」
私がそう答えると、ユカは振り返って口元に笑みを浮かべた。
「だよね、いいよね。夜の街♪」
彼女は他人と共感したり趣味嗜好を分かち合えることを、何よりも喜んだ。演じていたころの私がよくしていたことだ。でも、ユカみたいに心の底から他人と喜びを共有することに感動はしていなかった。そこはやっぱり、私の理想がそのまま具現化した「片割れ」なんだなと認識させられる。
「ねえ、来年私たちが行くっていう、何とかセンターってさ、どんなところだろうね?」
坂道を通り過ぎて、途中にある公園に意味もなく立ち寄った。ユカは遊具の階段を上りながら訊いてきた。私は上らず遊具の外から彼女の後を追う。
「さあ、ね。どんなところだろうと、今の環境が変わるんだったら、私は何でもいい」
「ま、詰まるところそこだよねー」
ユカの体はツツーと滑り台の上から滑らかに落ちていく。
「私も、息がつまるような今は嫌だからさ。とにかく、抜け出したいよ」
滑り終わってもユカは腰を上げようとしなかった。それどころか後方に体重を預けて滑り台の上に寝そべった。
「……ね、もしさ。イケメン君いたら、まずはその子に声かけよ!」
「え、嫌だよそんなの。なんで同性の人じゃないの?」
「だってもう女子友達の付き合いには疲れたよ~。リンもそう思うでしょ?」
まあ、そこは同感だけど。
「だからさ。もういっそのこと、これからは友情じゃなくて恋に勤しもうよ、恋! 今思えば私とリンが分離する前って友達たくさんいたけど、彼氏はいなかったじゃん。リンって顔可愛いし、それを引き継いでいる私も可愛い。これはもう、恋愛に向かっていくしかないでしょ! 神さまもそう言ってる!」
「いや、意味わからないから」
えー。ユカは残念ふうな声を出して、その
しかし、本当に見知らぬ男子に話しかけるなんて、思いもしなかった。
「じゃあ、私たちここで待ってるから」
同じ『分離症患者』である男子二人組が自分たちの部屋のなかへ消えていくのを見届けてから、ユカに詰め寄った。
「ちょっと、ユカ! 何よいきなり」
「え、だってここ来る前に言ったじゃん。男友達作ろうって。その第一歩だよ」
「それは……本当に話しかけるなんて思わなかったよ」
大きなため息が出た。異性の友人なんてこれまで一度もいなかったし、男の子とどうやって何を話せばいいのかなんてわからない。
まあ、まだ向こうの、おそらく私と同じ「母体」側の人が私と似たような表情を顔に浮かべてリアクションしていたし、微かに希望はあるというか、気が合いそうな感じはするけれども……。
「いい? リンちゃん」
「なに、ユカさん」
ユカは私の両肩に手を置くなり真剣な眼差しでこちらに向かい合った。
「人生はね、何事もチャレンジしないと何も変わらないの。挑戦しようって志しを持たないと! 昔の偉い人も言ってたでしょ。ボーイズビーアンビシャスって!」
「私、ガールなんだけど」
「え?」
「いや、だからガール。少年に向けて放たれた名言言われても、何も感じないよ」
「……」
ユカはそれから何を思ったか、私の肩から手を離してしばし考え込むようにして額に手を当てていた。
「……えっと、そうだ!」
何か閃いたのかユカはぱっと顔を上げて
「ガールズビーアンビシャスだよ! うん」
と、明るい顔で言い放った。
何が「うん」だ。勝手にクラーク博士の言葉を改造するんじゃない。
そんなことをやっているうちに、先ほどの男子二人がドアを開けて部屋から出てきた。
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